朝鮮半島と一衣帯水の間にある北部九州では先史時代以来文物の交流があった。水稲と金属器に代表される弥生文化の原型は西紀前4世紀代にさかのぼって玄界灘地域に到来した。その水田稲作技術は当初から完成された高度な段階のものであり、各種の磨製石器のほか鉄器も登場しており、やがて弥生時代前期後半(板付U式土器文化期)までには、ほぼ西日本全域に拡散し、定着するにいたった。
つづく朝鮮半島からの大きな文化の波は前期末頃(前2世紀代)に到来した。半島系の後期無文土器文化と本格的な青銅器文化の伝来である。細形型式の剣・矛・戈からなる青銅武器・工具(鉈)・小銅鐸・小銅鏡などが中期(〜後1世紀代)にかけて流入した。そして武器や小銅鐸はただちに福岡、佐賀地域でコピーされた国産化が開始されている。
大分県下でも近年半島に直結する青銅器の発見があり学会の注目を集めた。
1.韓国式小銅鐸……宇佐市別府遺跡(参照:史料5)
1977年に発見されたこの小銅鐸はわが国発見韓国式小銅鐸の第1号で、以来後続資料の発見はない貴重品である。後原総高11.6センチで、韓国慶尚北道月城郡入室里遺跡発見の第1号小銅鐸と形状・法量ともに最も近似している。
2.韓国式小銅鏡……竹田市石井入口遺跡(参照:史料6)
1981年に発見されたこの小銅鏡は韓国慶尚北道永川郡漁隠洞遣跡発見のB群鏡(3面)と同笵鏡を構成している。なお漁隠洞遺跡からは6種11面の小銅鏡が発見されているが、そのうちA群鏡(4面)と同笵鏡は慶尚北道大邱市坪里洞遺跡から(2面)、と佐賀県三養基郡二塚山遺跡で1面が発見されている。
以上大分県内発見の2例の韓国式青銅器はいずれも弥生時代終末期の住居跡から発見されていて、韓国側の西紀1世紀代より下らない年代観を参照すると、少なくとも1世紀間以上の年代的開きを認めねばならない。佐賀県二塚山遺跡の漁隠洞A群系小銅鏡は弥生後期初頭頃の甕棺から発見されていて、1世紀代に入手していることが知られる。したがって小銅鐸、小銅鏡ともに1世紀代までに北部九州に伝来したのち、伝世したことが考えられる。また青銅器に含まれる鉛の同位体比の測定によって原料の産地を推定する方法によれば、小銅鐸は遼寧省を含む中国北部の鉛、小銅鏡では石井入口鏡(B群)が朝鮮系鉛を、二塚山鏡(A群)が中国(前漢鏡)系鉛を使用していることが知られている。このことは韓国で遼寧系、中国系の青銅器を原料にした場合や韓国産青銅を使用した場合のあった可能性を示しているであろう。
このほか大分市下郡遺跡出土の銅鉈(中期初頭)はその先端部のみであるが、現在福岡・佐賀・熊本県下でも7例の発見がある程度の珍しいもので、韓国でも最も近いところでは慶尚南道金海市会★(左:山/右:見)里遺跡の甕棺墓出土例があり、いちはやくわが国に伝来した青銅器の一つである。
さらに伝玖珠町仲平や三光村佐知原遺跡では細形銅剣があるが、舶来品か国産品かはにわかに断定し難い。
後期には北部九州産青銅器の一部が慶尚南北道地域に輸出されている。中広形・広形型式の銅矛・銅戈・小銅鏡などがあるが、なかでも1965年大邱市晩村洞遺跡で発見された中広形洞戈は・茎部に半同心円文が鋳出されていて、直入郡久住町神社蔵の銅戈との近似が注意されている。また鉄器でも板状鉄斧、素環頭刀子など半島出土品と対照されるものがあり、今後の比較検討が待たれる。
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