(1) 大邱市坪里洞遺跡から1974年に銅戈・任那加羅製銅劍・戈鞘及び劍鞘附属等の武器類と青銅馬面・銜等の馬具類・銅鐸・円形銅器・漢鏡・倣製鏡等の各種器物が一括出土した、これ等の遺物は国立中央博物館、国立慶州博物館、国立大邱博物館に分けて展示中であるが、倣製鏡だけは皆国立大邱博物館に陣列されている(参照:史料4)。
これ等倣製鏡は初期鉄器時代、即ち西紀200年前後の製品だと見られる。西紀200年は所謂日本書紀で去う十個加耶(卓淳國(大邱)、★《口へん、祿のつくり》國(慶山)、加羅國(高靈)、多羅國(陜川)、比自★《火へん、本》國(昌寧)、子他國(居昌)、散半奚國(草溪)、己呑國(靈山)、安羅國(成安)、駕洛國(金海))これ等加耶諸國は聯盟を結んで外敵の侵入の際は相互助け合っていた。加羅十カ国が新羅に漸次蠶食された原因は、加耶十カ国は統一されなかったために軍隊を一カ所に集められず各々の加耶に分けて駐屯させていたからであった。加耶一国が新羅の侵攻を受けた場合交通が悪くて援軍が現地に着いた時は既に亡んでいたという状況であった。宗主国は任那加羅國(高靈)であった。即ち、任那加羅とは加耶聯盟の宗主国であった駕洛國(後では大加耶國、現在の高靈地方を中心にした国)を指す名称であった。現在の大邱廣域市地域は任那加羅時代の「卓淳」の領域であった。古墳から出土する遺物は皆高靈を中心とした任那加羅と同じ様式の物である。由に倣製鏡は任那加羅で作った物であった。
(2) 慶尚北道永川郡漁隱洞で発見されだ初期鉄器時代の任那加羅製の倣製鏡(蕨手直径5.4cm)は現在皆、国立慶州博物館に陳列されている。この遺品は常時に展示している物ではないから観覧希望者は国立慶州博物館学芸室に前もって申込まねばならない。当博物館の希望は可及的に毎週の月曜日に観覧したいと申込めば、都合が良いと云うた(参照:史料3)。
(3) 昔の位置は、慶尚北道達城郡花園面城山洞でしたが現在は大邱市の拡張で行政地域の名称が変わって、大邱廣域市達城郡花園邑城山里である。洛東江流域に沿っている小高い山上の古墳群から1959年に発見された。長さ85cmの丸頭鉄劍1本と鉄製輪鐙2個と供伴して発見されたこの地は高靈邑からは24キロしか離れでいない近い所で四・五世紀頃の大加耶の古墳も数十基ある。これ等の遺物は皆現在筆者が勤めている加耶大學校博物館に保管している(参照:史料4)。
上記(1)、(2)、(3)の地から発見された昔、任那加羅國で製作した直径4.5cm、或いは直径5.4cmの銅鏡は九州の日向の遺跡から発見された蕨手小型銅鏡と全く等しい同一な鋳型で製作した物であることを史料2〜4の写真によって充分確認することができる。この種の銅鏡が丁度九州日向の遺蹟から発見されだ事実は、皇孫瓊瓊杵尊の一行は西紀250年頃多数の任那加羅製の銅鏡を持って九州の日向の地に渡った事を考古学的に証明していることではないでしようか。
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