「高天原」の考古學的證明

二章、九州日向の弥生時代終末期の住居跡から初期鉄器時代の任那加羅製の小銅鏡の発見 

 1981年大分県竹田市石井入口遺蹟から任那加羅製の小銅鏡が日本では最初に発見された(参照:史料1)。このことに関して世界日報は一九九九年十二月二十六日の「人と歴史」の欄に「天孫族と九州の鏡」と題して詳細に報道した。この小銅鏡は韓國慶尚北道永川市漁隱洞遺蹟発見の15面の中の3面の小銅鏡と全く同じ鋳型で製作したものである(参照:史料2)。なお漁隱洞遺蹟から6種11面の小銅鏡が発見されているが、その中の4面は大邱市坪里洞遺蹟から発見された6面の銅鏡の中の4面と全く同一なものである(参照:史料3)。なおそれと同一なものが佐賀県三養基郡二塚山遺蹟で1面発見されている。

 これら韓半島の遺物は後漢鏡と同伴して発見されている。後漢はAD25年から225年迄続いた国である。従ってこれらの製作年代は紀元後200年頃であったと推測される。これらが北部九州へ伝来したのはもっと後の事であろう。また青銅器に含まれている鉛の同位体比の測定によって原料の産地を測定する方法によれば、小銅鏡では石井入口鏡が任那加羅系の鉛を使用したことが知られる。

 かって後漢鏡片について詳しく調査した別府大学の賀川光夫教授によれば、その破片の場合、@割れた他の部分は見当らない。A割れ目がきれいにみがき上げている。B割れ目に人為的につけた傷がある〜のが特徴だという。

 賀川教授は「後漢鏡を権威の象徴とする古代王権の勢力は、九州北半全域を含む広大なものであり、遺跡の年代から、中国では後漢(AD25〜225)−魏の時代(AD220〜265)日本では邪馬台国の時代に相当する」と云った。しかし、これらの後漢鏡は遅くても二世紀前半までに製作されたものと考えられ、三世紀初めに王となった卑弥呼が入手したものとするには一段階ほど時代が古いという印象がすると述べた。この遺蹟地からさらに山地に進むと、神話の舞台であった高千穂地方に入る。同地方と大野川流域とは一体をなすことが指摘され、それを示すのは、「工」の字が施文された土器の広がりである。(宮崎県教委の北郷泰道氏)さらに破鏡に関して興味深いのは、人為的な傷があるという点だ。「傷をつける」という行為は特別な意味があったことを示すが、日神(天照大神)が天磐戸から出てきたとき、差し人れた鏡に傷がついたという「日木書紀」の記述が思い出される。

 韓国の永川市漁隱洞と大邱市坪里洞の両遺蹟は、半島を南流する大河、洛東江の中流域にあり、近くに任那加羅の首都があった高靈や加耶山がある。漁隱洞からは、小型倣製鏡のほか、北方のオルドス系に原流がある馬や鹿の動物像をとりいれた銅製の装飾金具、帯鉤が見つかっており、北方とのつながりが想定される。

 ところで韓国の史書「東國與地勝覧」高靈篇によると、大加耶の始租を「伊珍阿鼓(イジンアシ)」といったという、国際日本文化研究センターの上垣外氏によれば、この伊珍阿鼓と日本神話のイザナギはほとんど同音であり、「イザナギ神話の構成は洛東江流域の文化の状況と一致する」(天孫降臨説話)。とし洛東江で行われていた同様の神話が青銅器文化とともに日本にもたらされた。と主張している。

 イザナキ神話が原来中国江南の呉越地方にあったものと共通な構造を持っていることは多神話学者が指摘している。上垣外氏は、当地で稲作を行っていた少数民族が漢民族の進出によって、彼等の一部が海路によって山東半島に達し、さらに追われるように朝鮮半島へ、そして日本へと渡ってきたという。

 任那加羅製の小銅鏡は、上垣外氏の推定をさらに具体的に裏付けるものであり、漁隱洞における小銅鏡と北方系遺物の供伴は、北方からの流れとの複合を想定させるものである。日木のイザナギ神話の舞台の一つは九州の宮崎県日向である。大分県の大野川流域とは、海を介して、高千穂、そして五ケ瀬川等を介してつながる地域である。

 こうして見てくると、イザナギからアマテラスに至る高天原神話は任那加羅製の銅鏡の流れを見ただけでも、韓半島の洛東江の中流にあった任那加羅から九州の日向へ……と天孫族の流れが想定できるのではないか、と世界日報の市原幸彦記者は語っている。


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