「任那」について

 注 

(1)『今昔研究年報』第十号一九九六年五月。本書所収。

(2)「ミマナと任那――古代日本語におけるmとn――」(韓国外国語大学校日本文化研究会『日本文化研究』第4号) 本書所収。

(3)鮎貝房之進『日本書紀朝鮮地名考』(昭和十二年七月原版、昭和六十二年三月、国書刊行会復刻再版による)。ただし氏は、「任那」はそのまま「ミマナ」と読み、金海伽耶をあてるが、「高霊」についても考察を加えている。
  末松保和氏『任那興亡史』(昭和二十四年二月、吉川弘文館)第二章(二)「任那の名義」。ただしminna説は一説として挙げるのみで、むしろミマナを原音と考えていられるごとくである。
  金廷鶴氏『任那と日本』(『日本の歴史、別刊1』小学館、一九七七年十月)ぺ二〇。私としてはこの説に従う。
  李柄銑氏『任那は対馬にあった』(ソウル書林、一九八九年十二月)

(4)「高霊」という名称は後代のもので、(『東国輿地勝覧』による)、「伽耶」もしくは後に「大伽耶」といわれた。しかし他の伽耶と区別するために本稿では「高霊伽耶」という名称で呼ぶことが多い。なお、「伽耶」「加耶」「加羅」「伽羅」は皆同じ語なのであるが、出典の原文でまちまちなので、本稿でも混同して用いている。御了解を願う。
  なお、「諸伽耶国の總本家」という考えは注一の論文で述べた。

(5)『大伽耶連盟の興亡と「任那」――加耶琴だけが残った――」(吉川弘文館、平成四年)』ぺ三二・二一二

(6)鮎貝氏、注三と同書。李永植氏『加耶諸国と任那日本府』(吉川弘文館、平成五年四月)ぺ一七一

(7)私は「唐<から>・漢<あや>・呉<くれ>」(中央大学文学部紀要「文学科第五十五号」昭和六十年三月、本書所収)において、倭の五王の宋朝に対する文書交通は日本政府のあずかり知らぬところ(その時は百済を暗に考えていた)で成されたのではないか、という推測をしたが、この文中百済が出てくることからみると、百済では無いらしいことになる。あるいは任那伽羅での起筆か。ここには伽羅が出てこないが、次の倭王済に対しては加羅が入っている。もし、倭も任那の分家の一つという考えがあったとすれば、倭・任那・伽羅が並んでいても特に異を立てる程のことは無かったかもしれない。

(8)『日本古典文学体系』67・68による。本文を引用する時は訓点を省略する。以下同じ。なおここは底本「二千余里。北阻海…」と句切っているが、私見により改めた。

(9)『東京成徳短期大学紀要第三十号』一九九七年三月、本書所収。

(10)前掲書(注5)ぺ九五

(11)これ以後の年紀には西暦を入れる。大体四五〇年以降は年紀が正確になるという私見による。

(12)前掲書(注6)ぺ二一八八

(13)前掲書(注5)ぺ二五四

(14)この件については「『阿羅斯等』について」(注9)で略述した。

(15)末松保和氏は「慶山」に比定する。(『任那興亡史』ぺ一四三)

(16)前掲書(注5)ぺ四三

(17)注14に同じ。

(18)田中前掲書(注5)ぺ一五二

(19)末松保和氏は「阿利斯等」を、「(しかるにやがて従者達は新羅の衣冠をすてて、加羅の着物をつけたので)阿利斯等(加羅王)は、その服を変へたことを喧り」と解した。(『任那興亡史』ぺ一三三)「阿利斯等」を「加羅王」とする限り、( )内の様に文を補わないと文意は通らないことになるが、それは原文について忠実に読むかぎり無理なように思われる。

(20)末松『任那興亡史』第八章「任那問題の結末」

(21)加羅諸国がなぜ団結して一つの国家にならなかったかについては、いろいろの見方があると思うが、私としては現地で各伽耶国の跡地を訪ねた印象では、そこは洛東江が幾曲折して流れていることからもわかる如く、各国がかなり高い山々に隔てられていて、相互の交通はほとんどできなかったであろうと思われた。これが各国間の連絡がとれなかった最大の理由ではなかったかと思う。これに対して、新羅・百済はそれぞれに広い平野を持ち、国力を養成するのに有利な地理的条件が有ったのである。

(22)当時の日本から半島に兵を送ろうとすれば紀元五六世紀代では一度に三千人が目安であったろうという金廷鶴博士の推論(『任那と日本』ぺ二七六)は非常に合理的で首肯できる。当時加羅の諸小国ではこれだけの軍兵を動かし得る能力は無かったであろうから倭軍は半島では大きな力となっていたのであろう。

                             平成七年十二月十一日

                             平成八年一月十一日再治


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