「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

 注  

1) 「日鮮同祖論」という言葉は言語学者金沢庄三郎が1929年に刊行し力著書『日鮮同祖論』(刀江書院)において初めて使用したもので、それ以前は「旧韓同域」「日韓同祖論」「同祖同源」という言葉が使われたことがあり、日本による植民地支配下の朝鮮において皇民化政策が強化された1930年代の後半にぱ「同祖同根」という言葉がしきりに使われた。いわば「日鮮同祖論」という言葉は戦前には広く使われたことはなく、むしろ戦後になって近代の同祖論言説を総称する言葉として定着したのであった。

2) 日本においては、同祖論的言説はかなり長い由来を持ち、近代に入っては多くの人々によって同祖論が唱えられ、社会的にも広く流布したため、同祖論は内容が多様であり、その性格を一概に規定しにくい面がある。本論文においては、「日鮮同祖論」の字義の通り朝鮮と日本の同族的関係を主張したことが同祖論の出発点であるとみて、このような主張を積極的に行い、且つある程度の論理性を持っていた場合を考察の対象にした。
 ここで取り上げ胴祖論者の同祖論の学説的内容は・却嘩r躰人種論並良賎用」(「学芸志林」第23冊、1879)…三宅米吉、『日本史学提要』第1編(『文学博士三宅米吉著述集』上巻、文学博士三宅米吉著述集刊行会、1929)、山路愛山『日本国民史草稿』『上古史総論』『日本人民史』(この三著は洞富雄編『論集パレオ騎馬民族説』〔大和書房、1976〕に収録されている)、星野恒「本邦人種言語ニ付都考ヲ述テ世ノ真心愛国者ニ質ス」(『史学会雑誌』第11号、1890)、久米邦武「日本幅員の沿革」(『史学会雑誌』第1〜3号、1889)、『日本古代史』上巻(早稲田大学出版部、1911)、鳥居龍蔵「古代の日本民族移住の経路」『歴史地理』第28巻第5号、1916)、『有史以前の日本』(甲陽堂、1918)、喜田貞吉「日本民族概論」(『国史講義録』に収録、1918年)、「日本民族の構成」(『日本文化史大系』第1巻に収録、誠文堂新光社、1938)などの論著において展開されていた。他に初期官学アカデミズム史学における同祖論の影響を多く受けたと見られる、民間史家の同祖論は、吉田東伍『日韓古史断』(富山房、1911)、田口卯吉『古代の研究』(1902)、竹越与三郎『二千五百年史』(開拓社、1896)などの著書において展開された。

3) 「日鮮同祖論」の学説的内容は、戦後においても江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」などに継承されている。

4) これまでの「「日鮮同祖論」に対する先行研究には、旗田魏の『日本人の朝鮮観』(勁草書房、1969)、『日本人と朝鮮人』(勁草書房、1969)、上田正昭の「『日鮮同祖論』の系譜」(『季刊三千里』第14号、1978)、金一勉の『天皇と朝鮮人と総督府』(田畑書店、1984)、工藤雅樹の『研究史 日本人種論』(吉川弘文館、1979)、小熊英二の『単一民族神話の起源―<日本人>の自画像の系譜』(新曜社、1995)などがある。以上の中で上田が喜田の日本民族複合論や天孫族韓半島起源説を肯定的に評価し、小熊が単一民族論と混合民族論の対立関係の中で、同祖論者たちの混合民族論を積極的に評価している以外、同祖論をより多面的に検討する試みがあまり見られていない。

5) このような見解の代表的事例として、前掲の工藤雅樹の『研究史 日本人種論』を上げることができる。同書の中で、工藤は日本人種論の研究史の一環として同祖論について比較的に詳細に言及しているが、結論としては同祖論について以上のような理解を示している。

6) 横山・山路・久米の以上の主張はそれぞれ「日本人種論並良賎ノ別」(1879)、「皇室の尊栄」(『国民の友』(第238号、1894)、「日本古代史の研究」(『久米邦武歴史著作集』第2巻(吉川弘文館、1989)などの論文の中で展開されていた。

7) 『史学叢説』第1集(富山房、1909)、232〜233頁。

8) 『日鮮同祖論』(刀江書院、1929)、1頁。

9) 田口は「上代」(『史海』第14巻、1892)、「日本人種論」(1895)、『古代の研究』(1902)、竹越は『二千五百年史』(開拓社、1896)において以上の主張を展開した。田口は1904年の著書『硫黄禍論』において、日本人が中国人と同じ黄色人種ではなく白人人種に近いと力説したことから分かるように彼の日本人種論は明治時代の脱亜論と黄禍論と関連があった。

10) 山路は『国民史草稿』『上古史総論』『日本人民史』、鳥居は『有史以前の日本』、喜田は「日本民族概論」「日本民族の構成」などにおいて、以上のような主張を展開した。

11) 当時の朝鮮総督南次郎は1940年に緑旗日本文化研究所が創氏改名を推進するために編纂した『氏創設の真精神とその手続』に「司法上に於ける内鮮一体の具現―内地人式氏の設定に就て―」という談話を発表して、総督の立場から創氏改名を呼びかけた。この談話の中で、南は大和民族と朝鮮民族が同祖同根であるから、内鮮一体は当然な歴史的帰結であり、すでに古代の朝鮮人が日本に渡航して完全に日本化した先例もあるから、朝鮮人が皇民化のために創氏改名を当然行うべきであると主張していた。

12) 『水戸学全集』第5巻(日東書院、1933)、324、344頁。

13) 同上書、324〜328頁。

14) 萩野由之編纂『日本歴史評林』上巻(博文館、1897)、第2編1頁。

15) 『皇典講究所講演』第84号(博弘堂、1892)、1〜8頁。

16) 深江の反論文は『随在天神』(惟神学会編)の第199、200、201、202、203、204、208、209、210、211、212、213、214号に連載されていた。

17) 『随在天神』第209号、8頁。

18) 江戸中期の考証学者藤原貞幹が1781年に『衝口発』を著わして、皇統、言語、姓氏、国号、神璽、年号、容飾、衣服、喪葬、祭祀、柏手、和歌、詩賦、国史、制度の十五条目にわたり、日本の古代史と古代文化の既成の概念を疑い、中国と朝鮮、特に朝鮮の影響を重視する論述を行ったわけであるが、当時としても衝撃的な主張であって、それが国学者たちを激怒させ、本居宣長が1785年に『鉗狂人』を書いて、貞幹の説を「狂人の言」と決めつけて論駁した。

19) 筧克彦『神ながらの道』(内務省神社局、1926)、7〜8頁。

20) 『国体講演録』第1篇(宝文館、1928)、34頁。

21) 『陽春盧雑考』巻8(東京築地活版、1897)、8〜10頁。

22) 『皇典講究所講演』第121号(博弘堂、1894)、14〜15頁。

23) 小中村清矩『国史の栞』(吉川弘文館、1895)、5〜6頁。

24) 『国史の研究』総説の部(東京文会堂、1913)、289〜306頁。なお、黒板は『国史の研究』の1908年の初版においては、日本人種論について特に論じていない。

25) 『更訂国史の研究』総説(岩波書店、1931)、457〜480頁。

26) 『国史の研究』(東京文会堂、1908)、236〜237頁。引用は237頁による。

27) 前掲『国史の研究』総説の部、273〜275頁。

28) 『更訂国史の研究』各説上(岩波書店、1936)、20〜21頁。白鳥は「日本民族論」(「中央公論」1913年8月号)の中で、言語から日本民族の系統を調べてみると、日本民族は大体においてウラル・アルタイ民族に類していると同時に南方民族にも似ていて、南北両方の要素を有する混成民族であるが、以上のような二つの要素が混成したのは一般の学者たちが信じていることよりもずっと古いことであり、天孫民族も出雲民族も早くから混和した同一民族であると主張していた。一方、「日・韓・アイヌ三国語の数詞に就いて」(『史学雑誌』第20編第1・2・3号、1909)の中では、日本語の数詞が地理上日本人に最も近い朝鮮人とアイヌ人の数詞と全く異なることは、日本人の祖先が数詞を使用する程度の文明に達するまでは以上の二つの民族と接触がなかったことを示すものであると主張していた。

29) 同上『更訂国史の研究』各説上、13頁。

30) 『虚心文集』第1(吉川弘文館、1938)、9〜11頁。

31) 五井直弘の『近代日本と東洋史学』(青木書店、1977)によると、白鳥は西洋人の東洋史研究に対して、東洋のことは東洋人が研究するのが至当であるという思いと、西洋文明が圧倒的優勢な時代に東洋学では西洋人を凌駕できるという思いを強く持っていたという(同書、41〜44頁)。

32) 『白鳥庫吉全集』第2巻(岩波書店、1970)、349〜350頁。

33) 白鳥の以上の考えは、それぞれ『白鳥庫吉全集』第3巻(岩波書店、1970)の150〜154頁、『白鳥庫吉全集』第2巻(同上)の237〜238頁、『白鳥庫吉全集』第4巻(同上)の21頁による。

34) 『中央公論』1913年8月号、46〜48頁。

35) 『白鳥庫吉全集』第9巻(岩波書店、1971)、289〜290頁。

36) 前掲『白鳥庫吉全集』第2巻、417〜457頁。

37) 前掲『白鳥庫吉全集』第9巻、第178〜179頁。

38) 白鳥の以上の考えは、それぞれ『白鳥庫吉全集』第9巻の189〜200頁、209〜214頁、225〜268頁、『白鳥庫吉全集』第2巻の469〜540頁による。

39) 『文芸』1916年2月号、1〜9頁。

40) 前掲『白鳥庫吉全集』第9巻、190〜200頁。

41) 白鳥の以上の考えは、それぞれ前掲『白鳥庫吉全集』第2巻の101〜103頁、『白鳥庫吉全集』第1巻(岩波書店、1969)の536頁による。

42) 『神代史の新しい研究』に収めてある津田の序文によると、同書を出版する(1913年)4、5年前から津田と白鳥の間で神代史の解釈について議論が始まったという(『津田左右吉全集』別巻第1、岩波書店、5頁)。そうすると、その時期は津田が1908年に白鳥が主宰していた満鉄の満鮮歴史地理調査室に入ってから問もない頃になるわけである。なお、ここの白鳥の発言は同書の3頁による。

43) 白鳥の以上のような考えは、それぞれ前掲『白鳥庫吉全集』第9巻の166〜167頁、『白鳥庫吉全集』第10巻(岩波書店、1971)の276〜277頁、前掲『白烏庫吉全集』第9巻の244〜246頁による。

44) 黒板勝美の前掲『国史の研究』総説の部、304頁。

45) 『白鳥庫吉全集』第1巻(岩波書店、1969)、536頁。

46) 津田の出版法違反事件に対する判決は42年5月21日に下され、津田と岩波はそれぞれ禁固三カ月、執行猶予二年、禁固二カ月、執行猶予二年に処せられた。もっとも、起訴は津田の前記の四著であったが、公判の結果は有罪の範囲が著しく縮小されて、『神代史の研究』『日本上古史研究』『上代日本の社会及び思想』の三著は無罪となり、『古事記及日本書紀の研究」』の四カ所に於いて、「畏クモ神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑念ヲ抱カシムルノ虞アル講説ヲ敢テ奉リ、以テ皇室ノ尊厳ヲ冒涜」したという理由で有罪になった。
 津田の出版法違反事件に関しては「津田左右吉外一名に対する出版法違反事件予審終結決定書」、「津田左右吉外一名に対する出版法違反事件公判速記録」、「津田左右吉外一名に村する出版法違反事件判決書」を収録している『現代史資料42 思想統制』(みすず書房、1976)の解説文に詳細な説明がある。

47) 津田の出版法違反事件裁判記録には、「津田左右吉外一名に対する出版法違反事件予審終結決定書」、「津田左右吉外一名に対する出版法違反事件公判速記録」、「津田左右吉外一名に対する出版法違反事件判決書」などがあり、いずれも前掲の『現代史資料42 思想統制』に収録されている。外に津田は第一審と控訴審に「上申書」を提出し、その他にも「神代史及ビ上代史研究史資料」、「神代史及ビ上代史研究史資料補遺」、「同上補遺」、「同上続補遺」などの参考資料を法廷に提出していたが、以上の資料の中、控訴審に提出した「上申書」と「神代史及ビ上代史研究史資料」、「神代史及ビ上代史研究史資料補遺」、「同上補遺」「同上続補遺」は『津田左右吉全集』第24巻(岩波書店、1965)に収録されている。

48) 『津田左右吉全集』別巻第1(岩波書店、1966)191〜203頁。

49) 津田の以上の考えは、それぞれ同上『津田左右吉全集』別巻第1の495〜499頁、『津田右左吉全集』第3巻(岩波書店、1963)の419〜420頁、『世界』1946年3月号の19〜20頁による。

50) 前掲『津田右左吉全集』別巻第1、122〜124頁。引用はそれぞれ同書の123頁による。

51) 前掲『津田右左吉全集』第3巻、450〜473頁。

52) 『津田左右吉全集』第20巻(岩波書店、1965)、342〜343頁。

53) 津田左右吉『神代史の研究』(岩波書店、1924)、523〜555頁。

54) 『津田右左吉全集』第1巻(岩波書店、1963)、624〜644頁。引用は同書の643頁による。

55) 前掲『津田右左吉全集』別巻第1、122〜124頁。

56) 前掲『津田右左吉全集』第3巻、440〜451頁。

57) 津田は1949年の論文「ニホンの古代国家の性質」の中で、日本民族が一つの民族として日本で生活するようになったのは極めて古い時代のことであるという白鳥の説を紹介し、それについて賛同を表明していた。なお、以上の内容は『津田右左吉全集』第28巻(岩波書店、1966)の173頁による。

58) 白鳥の日本人種論はですでに調べてみた通り、白鳥の国体論と国家論と密接な関係があったのであり、必ずしも純粋な意味での日本人種論ではなかったのである。一方、人類学者長谷部、清野の日本人種論も彼らが明治期の日本人種論における「人種交替説」を日本人の主体性を否定するものとして最初から拒否感を見せ、人種論を通して民族の優越性を主張するなどナショナリズムと同時代の国家体制から完全に自由にはなっていなかった。

59) 『岩波講座日本歴史』第22巻1(岩波書店、1963)、l10〜111頁。

60) 津田の渡来人に関する見解は『日本上代史研究』(1930)、『上代日本の社会及び思想』(1933)などの著書に見られるが、1938年の論文「蕃別の家の系譜について」(『稲葉博士還暦記念満鮮史論文集』に収録)によりまとまった見解を発表している。この中で、津田は上代の帰化人の数はそれほど多くはなく、特殊な技芸や知識を持たない支那や半島の民衆が集団的に帰化して移住してきたということは考えらず、『新撰姓氏録』に載っている渡来人系とされる氏族の記事は全体的に信用しがたく、その中には、実は純粋な日本人であるにもかかわらず、その祖先を支那人または半島人としたものもあったとして、朝鮮と中国からの渡来人の存在を消極的に評価していた。

61) 黒板が『国史の研究』(1908)において、「神代史研究の必要なる理由は我が建国の体制が如何に世界各国に卓越せるか、また我が皇室がその鴻基を如何にして定め給ひしか、我が国民が如何にしてその発展し来れる根本的要素を有せしやを知らざる可からざるにある」(同書、225頁)と述べていたように、国史の出発点を神代に求めたのはいわゆる皇国史観によるところが大きかったが、一方においては神代史においては神話と歴史を明確に区分することが難しいという考えも確かに彼には存在していた。黒板は、1913年の『国史の研究』改訂版において、いずれの開開・建国などに関する記事も、史的現象が神話化し、伝説化して後世に伝わってきたと解釈し、神話・伝説の中から史的現象を探し出す方法が発見されるならば、いわゆる有史時代を太古にまで逆上らせると主張した。そして、黒板は日本の神代史においては、天照大神から人格神の性格を有し、同神は半ば神話の神、半ば実在の皇祖であるが、天孫降臨から国史の出発点が始まり、天孫降臨は天孫族の民族移動を反映したものと理解した(『国史の研究』総説の部、255〜261頁、『国史の研究』各説の部、1〜21頁)。黒板の新井・久米・津田の神代史解釈に対する批判は『国史の研究』各説の部の9〜11頁、『改訂国史の研究』各説上の7〜9頁による。

62) 高木敏雄著、大林太良編『増補日本神話伝説の研究』1(平凡社、1973)、76〜77頁。

63) 三宅は『日本史学提要』第1編の中で「神代記ヲ読ムニ、其徹頭徹尾吾人先祖ノ海外ヨリ渡リ来リシト云フ意ヲ表セリ、勿論アカラサマニハアラネドモ、一々意味ヲ分解スレバ、此意明瞭ナリ」として「記紀」神話は天孫族が海外のある地方から渡ってきた事実を形変えて伝えているものと解釈した(『文学博士三宅米吉著述集』上巻(文学博士三宅米吉著述集刊行会、1929、66頁)。一方、三宅は1889年の論文「歴史講究法」(雑誌『文』第3巻第1号、金港堂)の中で、「記紀」神話を神典化して、そこに書いてあることをそのまま史実として信じる本居宣長流の解釈、「記紀」神話の神話としての固有の価値を認めず、不合理性を無理に合理的に解釈する新井白石流の解釈の両方とも批判し、「記紀」神話は古代人の想像力の産物であるから、明確な傍証のあるもの以外は歴史の範囲に入れるべきではなく、ただ古代人の風俗、人情を知る資料にすべきであるという立場を取っていた。

64) 鳥居は1921年の論文「妣の国」(『東亜之光』第16巻第10号)の中で、「海原」を日本海に充てながら、この神話は「歴史的暗示を与えておるもの」であると考えていた。それでも彼は基本的に神話を歴史として解釈することに反対していた。鳥居は1925年に著した『人類学上より見たる我が上代の文化』(叢文閣)の中で、当時多くの人々が高天原を地上のある地点に充てたりするのは誤りであって、高天原は古代日本人の宗教観を反映したものとして理解すべきだと主張し、日本神話の高天原・中津国・根国の三段階構造とシベリアのヤクート人・蒙古・トルコなどの宗教観に見られる天上・地上・下界の三つの世界観は同一構造を持ち、太占・神集い・注連縄・シャーマニズム・鉄鍛冶などの古代日本人の文化が北方のアルタイ系統の文化と関連すると説いた。

65) 井上哲次郎「日本民族の起源に関する考証」『史学雑誌』第21編第10号(1910)、2〜3頁。

66) 鈴木武樹『古代史の魅惑と危険』(亜紀書房、1977)、324〜325頁。

67) 佐原真『騎馬民族は来なかった』(日本放送出版協会、1993)、214〜220頁。引用は218〜219頁による。


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