「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

5.おわりに

5.おわりに 

 以上、本論文においては「日鮮同祖論」に対する賛反両論が純粋に一つの学説をめぐる論争という枠を越えて思想的対立の様相も帯びているという特性に着目して、「日鮮同祖論」をめぐる賛反両論がどのように展開され、そこにはどのような主観的意図と思想的背景が内在したいたか、という問題を考察した。すでに論証したように、「日鮮同祖論」に対する賛反両論は学説をめぐる枠を越えて間違いなく思想的対立でもあった。

 「日鮮同祖論」を学説としてみた場合、もちろん多様な内容を含みながらも天皇家に代表される古代支配層の朝鮭半島起源説が基本的な論点であった。そしてこのような説が主張された背景には、当時の人類学・民族学・言語学・歴史学などの知見が反映されると同時に「記紀」を歴史主義的に解釈したこととも大きな関連があった。そのことが一方においては同祖論者たちに「記紀」神話を神典化、絶対化せず、自由な批判と研究を可能にさせる側面も持っていた。同祖論者たちはいずれも日本民族の形成を多元的に捉え、そこから混合民族論と混合民族を統合するシステムとしての天皇制を主張したのである。彼らが「記紀」神話を歴史主義的に解釈することで、「記紀」を神典の位置から引き下ろした反面、日本人種論を通した民族優越性という、もう一つの神話を積極的に作り出す傾向も見せていた。また同祖論が積極的に主張された背景には近代日本の朝鮮に対する植民地支配があり、朝鮮民族に対する支配と同化の論理がそこから生まれたのである。

 同祖論に反論する場合(反対論者たちが同祖論に反論する明言しない場合もあるが、天皇家の外来説は基本的に同祖論によって主張されたのでこの場合も同祖論との関連性が考えられる)、学説をめぐる論争という性格がないわけではないが、それよりもまずは天皇制との関わりでこの説が反論された。天皇の権威を「記紀」神話に求め、天皇と国土と国民を一体化させる国体論の立場からすれば、同祖論者たちが主張する天皇家外来説はどうしても容認できない説であり、そのために論理的反論よりは感情的反撥を優先させていたし、天皇家の外来説は極力タブーにした。しかし、問題は単に保守的な国体論者だけがこのような立場を取ってのではなく、戦前の日本歴史学界で中心的に役割を果たした黒板勝美・白鳥庫吉らも基本的に同じような立場を取り、津田左右吉の「記紀」研究からも以上の問題との関連性が伺えることである。天皇家の外来説が合理的な思考を持っていた人々からも感情的反論が出た背景には、この問題が天皇制の本質と関連すると同時に、日本の古代国家の性格、国民のアイデンティティーとも関連していることを物語る。そして近代の支配と被支配という日朝関係も同祖論者たちが天皇家の朝鮮半島起源説に素直に向き合えない要因となったと考えられる。

 以上のような複合的要因が同祖論と反同祖論には内在されており、この問題を単に一つの学説をめぐる論争として規定できない理由も正にここにある。それに同祖論の賛反両論に見られる複合的な要因は基本的に今日までその性格が変わったとは言えない。

 戦後まもなく日本では東洋史学者江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」が出現したわけであるが、この説は学説史の系譜上では「日鮮同祖論」の戦後版とも言えるものである。この説の学説上での是非とは別に、この説の登場によって天皇家の自生説と天皇の万世一系説が覆され、戦前の硬直した皇国史観が打破されることを評価する向きも当時の日本社会にはあった。ところが、江上の「騎馬民族征服王朝説」は「記紀」神話に代わるもう一つの神話―騎馬民族優越性神話を創造した面も見逃せない。江上は「騎馬民族征服王朝説」を論証した著書においても、この説の解説・普及版においても騎馬民族の優秀性を繰り返して宣伝し、騎馬民族とは有通無碍な神通力を持つ民族として思い描くような場合もあった。そして「騎馬民族征服王朝説」を歓迎し、受容した人々の中には、騎馬民族の優越性に心が引かれたり、騎馬民族の壮大な征服の物語に歴史のロマンを夢見たりする傾向も確かに存在した。この点は戦前の同祖論者たちが「記紀」神話に代わるもう一つの神話一民族優越性神話の創造を試みたのと本質的に同じである。

 江上の「騎馬民族征服王朝説」に対する民俗学者柳田国男と折口信夫の反論も興味深いものである。戦後まもなく、日本で江上の「騎馬民族征服王朝説」が出現した時、学界ではこの説に極めて冷淡だったと言われ、学者たちの反応を聞く意味で民族学者石田英次郎が民俗学者柳田国男と折口信夫を招いて座談を行った席で、柳田が江上説の学説内容の是非よりは騎馬民族によって国が横取られたことを国民に教えるという懸念を先に示し、そういう立場からも柳田と折口は「騎馬民族征服王朝説」に反対だったという66)。これも戦前の反同祖論者たちの立場と基本的に同じである。すなわち、日本が外来勢力による征服国家だった可能性を彼等はそれが例え事実だったとしてもなかなか素直に受け入れられないはずである。

 江上の「騎馬民族征服王朝説」は、近年に考古学者佐原真によって日本に騎馬民族の習俗がなったことを根拠に有力な反論が出ているが、ここでも佐原は学問的反論以外に江上説が騎馬民族の優秀性を盛んに説くことを逆に取って、江上説を差別の思想として捉え、「差別の思想・旧式の発想という点からの今紹介した最近の批判は、私の批判を含む従来の騎馬民族説批判と質的に大いに異なっています。人間としての基本的姿勢や学問の本質・根幹、歴史学にかんする基本的認識と係わる大変深刻なものです。この見方からしても騎馬民族説は学説としては、今や過去のものです」と述べて、差別の思想、旧式の発想であるから学説としての意義までも否定する態度を見せている67)。これは一見合理的な批判に見えるが、これには差別の思想を掲げることで市民のレベルでかなりの支持を得ている江上の説を排除するねらいが込められている。事実、江上の説が支持者たちに騎馬民族について幻想を抱かせたり、歴史のロマンを駆り立てたり、天皇の権威に疑問を感じさせたりする以上に、彼の騎馬民族優越性論がここでいうような「人問としての基本的姿勢や学問の本質・根幹、歴史学にかんする基本的認識と係わる大変深刻なもの」であるかは疑問である。

 戦前の「日鮮同祖論」にしても、戦後の「騎馬民族征服王朝説」にしても純粋に民族起源に関する学説に止まるものではなく、天皇制の本質、古代国家の性格、民族のアイデンティティーと関連し、そこから常に学説の枠を越える思想的対立として展開されるところにこの問題の本質があると言えよう。


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