「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

4.歴史家における天皇家起源問題

7.津田の「記紀」研究の科学性・合理性に対する疑問 

 津田は出版法違反事件の裁判過程でそれまでの「記紀」研究を批判し、特に「記紀」の神代及び上代を歴史事実とするところから皇室の尊厳にとって不都合な天皇家の外来説、または日向の皇都説などが生じることを強調し、「記紀」の神代及び上代を歴史事実ではないとする自分の学説が皇室の起源と尊厳を合理的に説明するものであることを極力主張したのである。そして、そこには出版法違反の認定を免れるための策略的な側面があったにせよ、以上のような主張は基本的には津田の学説を反映したものであり、或いは津田の著作では明確に現れなかった「記紀」研究の意図が裁判過程でより明らかになったと言える。

 津田の「記紀」研究は、特に戦後になって非常に高い評価を得てきたことは事実であるが、津田の「記紀」研究を批判する場合は、津田が「記紀」神代及び上代の事実性的側面までをほとんど否定したことに対する批判が多かった。事実、「記紀」研究に於いては、従来神代史を神話・説話として理解する一方、そこには歴史的事実も多く反映されているという考え方が一般的であった。

 例えば、戦前の日本史の代表的学者である黒板勝美は神代を国史の出発点としたが、それは皇国史観によるところが大きい反面、一方においては神代史に於いては神話と歴史を明確に区分することが難しいという考えもそこには存在した。黒板は新井白石・久米邦武らのように神代史をすべて歴史として解釈することには反対したばかりではなく、津田の神代史造作論も民族心理学または比較神話学を無視した学説と見なし、神代史における神話と歴史の調和を図ろうとした61)

 日本近代神話学の創始者である高木敏雄も神代史をすべて歴史として解釈する新井白石・久米邦武らの譬喩法を批判しながらも、神代史の性質は多面的であって一方においては神話的性質を多く有する反面、他の一方においては歴史的性質をも顕著に示しているし、神代史は太古史研究の重要な資料であると判断した62)

 もちろん、「記紀」を日本人種論の研究対象にした人々も無批判的に神代史を歴史と解釈したわけではなかった。

 文明史家三宅米吉は「記紀」神話には多くの歴史事実が反映されていると考え、天孫降臨神話・神武東征伝説などから列島外の勢力の日本への進入を想定しながらも、神代史は歴史の範疇に入るよりも古代の制度、風俗及び思想を知る上で重要な史料になるという考えを持っていた63)

 人類学者鳥居龍蔵は「記紀」神話の中の「妣の国」「根の堅洲国」を日本海の彼方の大陸または朝鮮、「海原」を日本海であると考え、以上のような観念から日本人の祖先が日本海の彼方の大陸から渡来したと想定していたが、彼も基本的には神話を歴史として解釈することに反対であった64)

 「記紀」神話の分析を通して日本民族の南方起源説を提唱した哲学者井上哲次郎も「記紀」神話を純粋に歴史として解釈する傾向を批判しながらも、神話が単に空想によって出来たものではなく、その中には古代の民族の歴史上の事実が反映されているし、民族の起源に関して「記紀」神話によって大分推測できると考えていた65)

 すなわち、「記紀」を日本人種論または民族起源論の研究対象にした人々は久米邦武・星野恒らの一部の学者を除いては「記紀」神話を無批判的に歴史主義的に解釈したわけではなく、「記紀」神話の神話的性質を認めた上で、「記紀」神話を民族学的或いは比較神話学的に分析するとそこから民族の起源、とりわけ古代支配層の起源を知ることができると考えていたのである。

 しかし、津田の場合は以上のような研究方法をすべて恣意的で、非科学的な憶測と断定し、「記紀」の神代及び上代は歴史事実を反映したものではなく、そこからは民族の起源や由来は到底知ることができないと主張した。そして「記紀」は皇室の起源や由来を説いたと主張しながらも、津田は皇室の起源や由来を歴史的に必ずしも充分に究明したわけではなかった。

 今までは津田の以上の観点が専ら「記紀」に対する科学的・合理的批判から導き出されたと思われてきたが、裁判過程における陳述内容を手がかりに津田の「記紀」研究を日本人種論という側面から読み直してみると、果してこれまでの津田に対する評価が正しかったかという疑問が生じてくる。津田は天皇家の外来説を天皇制の存立と天皇の尊厳に相反する学説と見なし、それを極力否定しようとしたことが彼の「記紀」研究の方法論にまで影響を与えたのではないかと考えられる。津田が皇室は日本民族の内部から自然発生的に成立したということを繰り返して強調したのも、一方においては天皇家の外来説が念頭にあり、それを否定する意味合いが込められていると判断される。

 明治期の日本人種論において「人種交替論」が支配的な学説となり、そのような学説を背景に同祖論者たちが天皇家に代表される古代支配層の朝鮮半島起源説を唱えた。しかし「記紀」神話に天皇の権威を求め、天皇と国土と国民との一体性を固守した比較的に保守的な国体論者たちは日本人種論における「人種交替論」、とりわけ古代支配層の朝鮮半島起源説が天皇制の存立と天皇の尊厳に有害である考え、それを極力否定するかあるいは否定までしなくてもこの問題をタブーにしていった。

 内藤・黒川・深江らは日本人種論、そして天皇家の外来説に露骨に感情的反擾を示し、筧・亘理・小中村らはこの説を真正面から否定こそしなかったが、この問題に素直に向きあうこともできず、極力タブーにした。戦前の官学アカデムズム史学の中心的存在であった黒板も場合も天皇家の外来説を基本的に認めながらも、このような問題を積極的に議論しようとせず、極力タブーにした。白鳥も基本的に以上のような態度を取り、彼は一歩進んで「記紀」神話には歴史的事実が反映されていないと主張しながら、それを日本人種論の研究対象から取り外すことで「記紀」を通して天皇家の外来説を云々することを源泉的に遮断し、そのことによって実質的には彼もこの問題をタブーにしていった判断される。

 津田の場合に至っては、天皇家外来説に表向きには感情的反撥を示さないながらも、この問題が度々議論されることを嫌い、「記紀」の神代及び上代の史実性を否定することで、「記紀」を日本人種論の対象から合理的方法で除外したと判断される。そして津田は日本民族の単系的形成を主張し、中国・韓国などからの渡来人の存在も極力過小評価した。日本民族の単系的形成を主張する津田の日本人種論もそれなりに合理的要素が含まれているが、単一民族内部における天皇制の自然発生的、平和的形成に関する論述は明らかに主観的・意図的であった。保守的な国体論者たちが「記紀」を神典化し、そこに天皇の権威を求め、「記紀」の神々から日本民族が由来したとする主観的な単一民族論を説くことで天皇と国土と国民との一体性を固守したとすれば、津田は「記紀」神話を現代的学問の手段を用いてそれを再構築をすることを通して、近代の文明社会において天皇制の神典としての意義を失いかけた「記紀」神話を美しい国民の物語として蘇らせ、それに合理的な方法で単一民族論を説くことで天皇と国土と国民との一体性論により一層の説得力を持たせたと考えられる。

 もちろん、部分的問題で津田の「記紀」研究の全般的意義を過小評価すべきではないし、筆者としても津田が示した「記紀」の砺究法は充分に合理性を持つと判断する。それにしても日本人種論という側面、そして「日鮮同祖論」との対比から津田の「記紀」研究を読み直した場合、天皇家の起源問題に関しては保守的な国体論者と津田のとの間には見事なほどの論理的一致性が見られ、この問題から言えば津田の「記紀」研究の合理性・科学性というこれまでの評価にも疑問が持たれる。

 もっとも、津田にとって天皇家の外来説は天皇制の存立に関わる問題だけではなく、彼の日本民族独自性論にも背馳する論調であり、白鳥の場合と同じように近代日本の国家としての尊厳、国民のアイデンテイテイーに関わる問題だったと考えられる。津田が頑固な国体論者とは考えられにくいにも関わらず、以上のような態度を取る理由はむしろ後者にあったのではないだろうか。津田の思想史的系譜を見ると、「脱亜入欧」志向であり、日本文化独自性論においては日本文化と中国と朝鮮との関連性を排除する傾向を見せていた。このような立場からすると、天皇家に代表される古代支配層が朝鮮半島から起源したことが例え事実だったとしても、その事実に彼は果たして素直に向き合えただろうか。


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