津田は1919年に刊行した『古事記及び日本書紀の新研究』の「総論」において、「記紀」は厳密な批判を経なければ歴史研究の資料にできないとして、「記紀」の本文による方法と、考古学、中国・朝鮮の文献など「記紀」とは別な方面から得た確実な知識による二つの批判法を提示し、それまでの「記紀」研究の方法論を批判したが48)、ここで津田が一番批判したのは、「記紀」の神代史と上代史を歴史研究の対象にし、そこから民族の起源や由来を云々することであった。このことを具体的に説明すると、津田は江戸時代の新井白石や本居宣長らの「記紀」研究を批判しただけではなく、白石の「神は人也」とする考えの延長線上で「記紀」を歴史主義的に解釈し、そこから「日鮮同祖論」を展開した久米・星野らの諸説、日本人種論に考古学の知見と共に「記紀」も利用した同じく同祖論者である三宅・山路・鳥居・喜田らの諸説に痛烈な批判を向けたのである。そして、津田は以後も「記紀」の神代史及び上代史は説話であって、歴史ではなく、「記紀」は皇室の起源や由来を説いたものであって、民族の起源や由来を語ったものではという観点を主張するとともに、「記紀」から民族の起源や由来を探ろうとする考え方、特に天皇家の外来説に対しては恣意的で、非学問的だという批判を繰り返して展開して行った。
例えば、津田は『古事記及日本書紀の新研究」の「結論」、「上代史の研究法について」(1934)、「日本歴史の研究に於ける科学的態度」(1946)などの論著において、「記紀」は皇室の起源や由来を説いたものであって、民族の起源や由来を語ったものではないということを強調し、神代の物語を日本民族もしくは或る一集団が日本に渡来したこと、又は新来の民族と先住の民族との闘争を伝説化したものと考えたり、天孫降臨を天孫族の渡来とするような考え方は民族の異同や移住の経路などを考える学問的研究の方法を無視するものであると批判し、一方においては「記紀」には上代の政治観・国家観が明瞭に現れているのであるから、上代の国家組織の根本精神を表現したものとしてそれが無上の価値を有する一大宝典であり、「記紀」の価値はその歴史性にあるのではなく、思想性にあると主張した49)。
もちろん、津田の「記紀」研究において示した以上の方法論は「記紀」の研究史上確かに画期的な意味を持つものであり、合理的・科学的性格を充分に備えたものである。しかし、彼が「記紀」を通して天皇家の外来説を云々することを繰り返して批判したのが必ず合理的な批判精神の所産であったかという疑問は簡単には否定できない。この問題は津田の次の主張と合わせて考えてみたい。
津田は天皇家の外来説を反対するとともに、皇室が日本の民族の内部から発生したのであって、外部から来て土着の民族を征服したのではないことを繰り返して強調した。
1913に刊行した『神代史の新しい研究』の中で、津田は、皇室は国民の内部にあって、民族的結合の中心点となり国民的団結の核心となっているのであって、国民の外部から被等に臨んでいるのではなく、皇室と国民の関係は血縁で維がれた一家の親しみであって、威力から生ずる圧服と服従とではないために、「皇室の万世一系である根本的理由はこヽにあるので、国民的団結の核心であるからこそ、国民と共に、国家と共に、永久なのである、さうして、皇室の真の威厳がこヽにある」と説き50)、1946年に雑誌『世界』4月号に発表した「建国の事情と皇室の万世一系の思想」においても、津田は、戦後に起こった天皇制廃止論に対して、皇室が日本の民族の内部から起こって日本民族を統一し、日本の国家を形成した事実を強調し、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨んだのではなく、国民の内部にあって国民の意思を体現するから、皇室の存在と民主主義は矛盾しないし、皇室が国民の内部にある故に皇室は国民と共に永久であり、その国民と共に万世一系である主張した51)。
津田は終戦直後に上記の「建国の事情と万世一系の思想」(後「日本の国家形成の過程と皇室の恒久性に関する思想の由来」と改題され『日本上代史の研究』に収録)という論文において、積極的な皇室擁護論を打ち出したために社会の一部から津田の思想が戦後に変貌したものと受け止められたが、しかし、以上のような事例を見ると、津田の天皇観は最初から一貫していたことが分かる。このように、津田の著作における天皇家外来説に対する反論と天皇家の自生説の主張は彼が法廷で主張した内容と基本的に一致したのである。もちろん、法廷での主張のように、天皇家の外来説が国体の威厳を傷づけるというような露骨的な表現は使っていないが、彼にとってはこの説は単なる学問的な問題ではなく、天皇制の存在意義と関わる問題であったことは確かであり、津田の「記紀」研究も天皇家の自生説を前提して成立したものであった。津田の皇室は国民の内部から起こって、国民と一体であるという思想的立場からすると、天皇家の外来説が例え事実であったとしても津田が素直に受容できたかは疑問である。
事実、津田は1959年の論文「わたしの記紀の研究の主旨」において、自分の「記紀」研究の主旨が日本の国家と天皇制の特殊性を明らかにするところにあり、世界に類のない民族国家日本の起源と国家の初めから国民が戴いてきた皇室の由来を語る「記紀」神話こそ世界に誇るべきものであると明言していた52)。
以上は戦後の論文における主張であるので、津田の戦後の思想的変貌と関連させるかも知れないが、事実は津田が1924年に刊行した『神代史の研究』に於ける神代史の性質及び精神に対する解釈は以上の主張とほぼ一致していた53)。
しかし、ここにおいて津田は皇室は国土の出来上がった始めから日本を統治し、国土の始まりが即ち皇室の始まりであるということについては明確な説明を行わながったが、戦後に旧版の『古事記及日本書紀の研究』と『神代史の研究』を改訂・合編した拍本古典の研究』上巻では、この問題について、日本は国土が出来た極めて遠い時代からその全体を皇室が統治したことになっているし、神代史の思想において重要なことは、「日の神」は生まれながら大八洲の統治者、瑞穂の国の政治的君主、すなわちこの国の君主として生まれたのであって、創業の主という性質を持っていないことであるとして、そしてそのような観念が成立した背景には、世界の多数の国々と違って、日本は「島国であるために異民族との接触が無いと共に、この国土の住民が民族として一つであるために、民族的の闘争が国土のうちで行はれなかったこと、従って上代の我が国には一般に平和の空気がみちてゐたこと、皇室がこの民族を統一せられた実際の情勢としても、武力によることが(全く無かったではないにしても)極めて少かったと推測せられること」などの事実があったと解釈した54)。
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