黒板勝美は日本の近代史学の確立に重要な役割を果たした人物であり、戦前の官学アカデミズム史学の中心的存在であっただけに、彼の日本人種論は戦前の日本史学界において一定の代表性を持っていたと考えられる。
黒板の日本人種論は彼の代表的な著書『国史の研究』にその全貌を見ることができる。この『国史の研究」は、1908年に初版が出てからその後、1913年に改訂増補して「総説の部」「各説の部」の二冊本として刊行し、さらに1932年から34年にかけて『更訂国史の研究』(総説、各説上下の三冊本)として再刊行されるなど、日本史の優れた入門書として戦前の杜会ですこぶる好評を得ていたし、戦後までも用いられた。ところで、『国史の研究』に見られる黒板の日本人種論は当時の人種論の常識とかけ離れたものではなかった。
黒板はここで当時の日本人種論の常識をほぼそのまま受け入れて、日本にはアイヌを中心とする先住民族が存在したと考え、それから南九州地方に居住していた熊襲・隼人は南洋系統の種族であり、出雲族は朝鮮系であり、天孫族についても、日本民族と南方民族との風俗習慣の相似を重視した天孫族南洋起源説については否定的な態度を見せ、言語と伝説の同系性を重視した朝鮮起源説についても早計な判断はできないとしながらも、仮に朝鮮若しくはアジア大陸より渡来したものであれば、天孫の日向降臨と結びつけてその道筋は九州の北部から南方へ出たと見るのが至当であると考え、「記紀」の神々を研究し、『延喜式神名帳』を調べると、神代の神々が九州北部に鎮座したものが多いのを見れば、その地方が天孫族の起こりと深い関係を有すると推測していた24)。なお、後の改訂版の『更訂国史の研究』においても基本的に以上のような考えに変化はなかった25)。
しかし、ここで注目されるのはいわゆる天孫族の起源に対する黒板の矛盾した解釈である。黒板は天孫降臨神話と神代史における神々の多くが北部九州に鎮座していることから天孫族が朝鮮半島、あるいはアジア大陸から渡来したと考えながらも、日本と朝鮮の言語と伝説の同系性を重視した天孫族の朝鮮起源説については早計な判断はできないとするなど、天孫族の起源に関しては必ずしも明確な答えを出さなかった。この点は彼の高天原の所在に関する解釈によく現れている。
黒板は、神話・伝説には古代の歴史的事実が反映されているという考えに立って、国史の出発点を神代に求め、神代の事跡をも積極的に究明しようとした。しかし、高天原の所在に関しては、『国史の研究』の1908年の初版本では、天孫の降臨と神武東征を歴史的事実と考えるならば従来の高天原国内説よりは海外説がむしろ穏当だとしながらも、現段階においては海外のどこが高天原に当たるかを定めることは不可能であって、「神代史研究者がかヽる穿鑿に労力を費さずして寧ろ天照大神の神誥を始め万世無窮なる皇室を戴ける我が建国の体制に注意せんことを望む」と述べて、このような問題を究明することに積極的意味を賦与しなかった26)。そして1913年の改訂版においても、日本に天孫族以前の先住民が存在したことと天孫降臨と神武東征を考えると高天原国内説より海外説が有力と考えながらも、この問題について簡単に断定はできないとし、高天原の所在が上代の人々によって早く忘れられたことを強調し27)、さらに『更訂国史の研究』においでは、高天原を天孫族が日向や大和に移転する前に拠有していた土地と局限し、且つ国語が日本周辺の外国語とまったく系統を異にしている点から天孫族の日本への移住が太古の時代であったとする白鳥庫吉の説をある点まで認め、同時に考古学的にもこの説が支持されるならば、高天原国内説が余程有力になってくると説いた28)。
以上の事例から黒板は天皇家が海外から渡来したことは認め、あるいは渡来の事実を否定こそしなかったが、この問題を積極的に究明する意思はなく、できるだけこの問題をあいまいにして置こうとする姿勢がはっきりと窺える。
また、大八洲の解釈においても、『更訂国史の研究』では、日本人の祖先たちがその祖先は何処なるかを早くから忘れて、大八洲に安住地を決めたことを強調した29)。
結局、黒板は天皇家の外来説を否定はしなかったが、そうかといってそれを積極的に肯定しようともせず、可能な限り外来の意義を矮小化しようとしたのである。そして、黒板が天皇家の出自をあいまいにした理由をやはり彼の国体論に見つけることができる。
黒板は1925年に刊行した『国体新論』の中で、国家の創造には、建国と肇国との二種類があって、国家の創造に際して国民の中から主権者を選び出すか、あるいはある者が自ら主権者の地位を占めるのは建国であり、国家を創造する以前から杜会組織の中心にいたものが自然に主権者の地位を占めるのは肇国であると解釈し、そして日本の国体は後者に属し、そのために世界の多数の国々に比べて日本の国体の優越性は天皇が建国以前の原始時代から自然に社会組織の中心になり、天皇の主権者たる地位は原始時代から国土と国民と一体になって永続するところにあると主張していた30)だけに、天皇家の起源を海外に求めることには相当の心理的負担があったようである。そのために、黒板は『国体新論』でも、天孫族が海外から渡来したとしてもそれは極めて原始時代のことであり、彼らは早くから祖国を忘れてしまい、日本の国体は大八洲において発生し、発展したことを強調していた。
黒板の歴史研究には、国体観念が色濃く反映されおり、彼が戦前の国家体制の影響を強く受けていた官学アカデミズム史学界の中心人物であった点を考えると、国体論に抵触するおそれのある天皇家の起源問題を極力タブーにしたのは必ずしも不可解なことではなかった。
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