「日鮮同祖論」1)は近代の日本社会で広く流布した言説であり、この言説に対する研究は近代の日朝関係史を考察する上で重要な意味を持つばかりではなく、日本思想史を理解する上でも重要である。とりわけ「日鮮同祖論」は天皇制の本質を理解する上で看過できない問題を内包している。
それでは、ここでまず「日鮮同祖論」が発生・展開する過程を簡単に概観しながら、本論文の研究目的を明らかにしたい。
日本では、古くから「記紀」など古典の朝鮮半島と関連する伝承を根拠に朝鮮に対する親近感あるいは優位性、または朝鮮との民族的・文化的つながりを説く、いわゆる同祖論的言説が存在していたわけであるが、「日鮮同祖論」が仕会的に広く流布したのは近代に入ってからである。
明治期の日本人種論における「人種交替説」の影響を受けて、明治10年頃から国学者横山由清・文明論史家三宅米吉・史論史家山路愛山らが天皇家に代表される古代賜杯層の朝鮮平島起源説を提唱し、その後、星野恒・久米邦武ら初期官学アカデミズム史学を代表する学者たちが、文献研究に基づいて日本と朝鮮の両民族は同じ祖先を持ち、古代においては同一国家を持っていたという同祖論を展開し、この同祖論は人類学者鳥居龍蔵・歴史学者喜田貞吉・言語学者金沢庄三郎らによって学説としてさらに発展していった2)。もちろん、以上の人々によって提唱された旧鮮同祖論」はそれなりの学問的に根拠を持ち、現在の時点においてもその学説史上の意義は依然認められるところがある3)。
しかしながら、一方において「日鮮同祖論」は極めてイデオロギー的言説さもあった。近代日本が朝鮮への植民地支配を準備する段階に、星野恒・久米邦武ら初期官学アカデミズム史学者、その影響を多く受けた吉田東伍・田口夘吉・竹越与三郎ら民間史家たちが「日鮮同祖論」を提唱したのは朝鮮支配を正当化する意図によるところが大きい。「日韓併合」の際に「日鮮同祖論」がマスコミを通して大いに取り上げられたのは、同祖論を以て併合に歴史的正当性を賦与し、併合とは異民族に対する侵略ではなく、同一国家・同一民族という両国古代関係への復古であるという名分を提供するためであった。そして一九一九年の朝鮮民族の三・一独立運動に際しては、鳥居龍蔵・喜田貞吉らの同祖論者たちによって「日鮮同祖論」は朝鮮民族の独立意識を殺ぐ論理として展開された。植民地支配者たちが朝鮮民族に対する同化政策を強化するために一九三○年代後半から四○年代前半にかけて行った「内鮮一体」化運動に当たっては、「日鮮同祖論」は「内鮮一体」化運動に歴史的根拠を提供する便宜的論理として用いられ、南次郎・小磯国昭らの朝鮮総督が先頭に立って同祖論を宣伝し、それが創氏改名、日本語使用強要など実際の朝鮮民族同化政策に理念として反映されていく過程で「日鮮同祖論」の持つイデオロギー性も極大化したのである。
以上のように、「日鮮同祖論」の発生には明治期の日本人種論における「人種交替説」の直接な影響があり、学説としての同祖論はそれなりの学問的根拠を持っていたわけであるが、「日鮮同祖論」が日本の朝鮮に対する植民地支配に深く関わった言説であるために、従来の「日鮮同祖論」研究においては、同祖論の学問的根拠に対する検討よりはそのイデオロギー的性格が問題視されてきた4)。
もう一つ、「日鮮同祖論」の近代日本での展開過程を調べてみると、同祖論自体も日本の知識人の間で賛否両論を多く引起こしたわけであるが、これは純粋に一つの学説をめぐる論争という枠を越えて思想的対立でもあった。「日鮮同祖論」の朝鮮支配と関連するイデオロギー的側面を一旦離れて、同祖論のそれなりの学問的根拠を調べてみると、それは天皇家に代表される日本の古代支配層が朝鮮半島より渡来したというのが基本的な論点であった。そのために同祖論問題は天皇制の起源と直接関連するものであり、そこから派生して日本の古代国家の性格、民族のアイデンティティーと関連するものであった。以上のような問題に対する異なる理解が論者の「日鮮同祖論」への賛否両論に直接反映されているため、これは単に一つの学説をめぐる論争という性格に止まる問題としてではなく、基本的には天皇制をめぐる思想的対立として理解すべきであり、そこから問題の本質を把握すべきである。
「日鮮同祖論」に関しては、これまで本格的な研究があまりなされなかったという面もあるが、同祖論が日本の朝鮮に対する植民地支配過程で担ったイデオロギー的側面がより強調される中で、同祖論の実体に対する多面的な把握が不足し、同祖論には最初から天皇制の本質、日本の古代国家の性格、民族のアイデンティティ」という問題が内包されており、以上の問題をめぐって同祖論の賛否両論者の間で思想的対立が展開されたという点が看過されていた。特に同祖論に対する反論者側の反論の本質に対する理解が欠けていたために、日本では、戦前の一時期に広く流布した、恋意的で学問的根拠の薄く且つ侵略的性格を持つ「日鮮同祖論」が歴史学の進歩によって克服されたという理解が一般的に行われるようになった5)。
そこで、「日鮮同祖論」に対してより多面的に理解しながら、同祖論をめぐって行われた賛反両論者の思想的対立の実体を把握し、この問題の本質を明らかにするということが、本論文の主な趣旨である。ところで、紙面の関係から同祖論をめぐる賛反両論に対する詳述は省き、概略的に眺望しながら論点を進めていきたい。
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