官奴は官庁が所有し、私奴は両班が所有する奴隷であって、「曲地十負<ジョンシンブプ>」といって、奴婢一人が田地十負で売買された。負は面積の単位である。奴碑は子々孫々にわたって、奴脾であった。この奴婢制度は李朝末期の一八九四年に、近代化を強いられるなかで廃止され、人身売買が禁じられるまで続いた。
しかし、時間が経過すると、王の心は変化をきたした。上疏<サンソ>(投書)によって背後から刺されるか、与党内の内紛によるか、または次の王が即位して、些細なことをめぐる対立によって処分された側に同情を示すと、情況が逆転して、見捨てられた側が陽の目をみた。敗残して隠れた一党が王の側近になり、それまでの与党に倍加した復讐を加える。李朝のもっともつまらない党派争いは、長い間の知友の間でも容赦することなく、凄惨をきわめた。
西人と南人の長い間にわたった典型的な党派争いといえば、趙大姫の死後、喪に服する期間を、西人が一ヶ年に決めたことに、南人派が反対して、三年間にすべきことを主張して諍った。南人派はいったん決められたことにも認めずに、『朱子家礼<ジュジャカレ>』によって争った。
南人派は十余年が過ぎ去った後に、三年服喪を主張し、国王が一六七四年に三年説を採択したことによって、情勢が逆転した。西人が一年服喪を決めたとして、西人を代表しており、李朝を通して最高の賢臣として評価が高かった宋時烈を極刑に処すべきと主張した。宋時烈は済州島へ流された後に、賜薬<サヤク>によって毒殺された。
賜薬は王が死罪に処する者に、毒薬を飲むことを命じる制度であるが、正座して仰がねばならなかった。しかし、これは王が恣意的に臣下を殺す行為であり、『経国大典』が定めた法を無視したものであった。
ともあれ、誰も聞きたくもないような、つまらないことで血を流して争うのが、李朝の虐政の特徴となった。
一五九二年と九六年に、日本の秀吉が明へ侵攻しようとして、朝鮮を通過することを要求して拒まれ、壬辰・丁酉倭乱(文禄慶長の役)が起ると、李舜臣が朝鮮海軍の総司令官に当たる水軍統制使として、大きな功績をたてた。李舜臣は今日でこそソウルの中心街に銅像となって称えられているが、党争の典型的な犠牲者となった。李舜臣は日本の海軍兵学校で、ネルソン提督と並んで軍神として崇められていた。日露戦争に当たって、日本の勝利を決定した日本海海戦の英雄である東郷平八郎連合艦隊司令官は、「李将軍と較べれば、とても私ごときは及ばない」と称えている。
李舜臣の勲功は、壬辰倭乱において亀甲船を建造して、日本海軍を壊滅させたのだから、絶大なものであったのに、その功績が激しい嫉妬心を招いた。元均の一派の中傷と謀略によって、暗愚な王であった仁祖は李舜臣を調べることも、裁判を行なうこともせずに、処刑することに決めた。しかし、丁酉倭乱によって再び見舞われたために、李舜臣を白衣従軍<ペイジヨングン>させた。白衣従軍は官職を与えられずに、戦地へ赴くことであって、現在なら二等兵への降等処分に相当する。
元均が李舜臣に代って、水軍統制使に就任した。しかし、日頃、安逸な放蕩の生活に耽っていたために、無能であった。そのために豊臣軍に対して惨敗したうえで、元均も戦死し、朝鮮海軍が全滅した。
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