神話時代からの日韓交流史(2)

「高天原故地」の峯から歴史を展望する

モンゴル軍はこのような状況のもとで、同年六月に再ぴ大挙して来襲し 

 モンゴル軍はこのような状況のもとで、同年六月に再ぴ大挙して来襲し、高麗本土に侵入した。三別抄は三南地方である忠清道、全羅道、慶尚道の穀倉地帯と制海権に加えて、耽羅<タムチ>として知られていた済州島の要衝も抑えて、モンゴルとの戦闘を続けた。政府からの追討使も恐れて、逃げかえる形勢であった。

 モンゴルは一二六六年に、日本が入貢し、恭順することを求める行動を開始した。モンゴルは一二七〇年に「屯田経略司」を設置し、日本へ赴くモンゴル人使節の趙良弼が高麗に到着した。屯田経略司は軍の食糧を確保するために、農民と農土を管理する司令官である。しかし、日本への航路にあたる朝鮮海峡の制海権が、三別抄によって握られているために、動くことができなかった。

 モンゴルにとって珍島の三別抄を討つことが緊要の課題となった。五月十五日に日本遠征のために準備したモンゴル軍と高麗政府連合軍が、屯田経略司長官のモンゴル人将軍の忻都に率いられて、珍島を後略した。王として擁立されていた温を殺し、一万余人の男女を捕虜にした。こうして日本遠征の障害がいちおう取除かれたので、使節の趙良弼が日本へ向けて出発した。

 珍島が陥落したものの、残った三別抄が金通精を首領にして、本拠を耽羅に移し、再び猛烈な活動を展開して、全羅・慶尚南北道から、京畿道までも出撃して、南部の穀倉地帯を占拠して、制海権を握った。モンゴルは日本遠征のための航路と、食糧を確保するために、耽羅を攻撃した。一二七三年四月に、モンゴル・高麗政府連合軍が耽羅へ攻めこんだ。

 激戦の後に、三別抄も衆寡敵せず、ついに敗れた。三別抄による江華島の蜂起から、三年が経過していた。

 モンゴルは三別抄がこのように勇戦したために、一二六六年から計画した日本遠征を、およそ七年にわたって延期せざるをえなかった。この間に、日本は北九州沿岸の防備を準備する、時間的な余裕を与えられた。

 もしも、一回目の元冠が七年前に行なわれていたとしたら、日本はモンゴルの支配のもとに置かれる悲運に見舞われたかもしれない。そうすれぱ、今日の日本がなかった。この事実は、日本の歴史に記すべきではないだろうか。このような史実が神国思想の妨げとなったから、知りつつ目を瞑<つむ>ってきたのだろうか。

 モンゴルは日本遠征のために準備した軍隊を、三別抄の鎮圧に差し向けたことによって、多くの兵員や艦船などを失ない、莫大な損失を蒙ったのだった。もし、太平洋戦争中にペリリューや、サイパンや、硫黄島の守備隊が猛虎のように戦わなかったとしたら、アメリカ軍がもっと早く日本本土に殺到していたことだろう。

 これは五十年前に北朝鮮の朝鮮人民軍が、中国とソ連の支援を受けて、韓国を奇襲することによって始まった韓国戦争と似ていよう。もし、韓国民が勇戦することなく、朝鮮半島が共産化されていたとしたら、その後の日本の進路が大きく変わっていたはずである。

 元朝は十四世紀なかばに、内部分裂によって混乱し乱れた。一三六八年に漢民族による明朝が元朝を倒して、中国を統一することに成功した。高麗は明が混乱すると、かつての高句麗領の回復を企てた。


HOME