神話時代からの日韓交流史(2)

「高天原故地」の峯から歴史を展望する

第一回目の恥辱は、新羅が唐と内通して、六六〇年と六六八年に 

 第一回目の恥辱は、新羅が唐と内通して、六六〇年と六六八年にそれまで戦うたびに勝ち抜いてきた敵であった漢族の力を借りて、当時のアジアのなかの大国であった百済と高句麗を攻めて滅ぼし、自ら唐の臣下になり下がったことだった。

 新羅は九世紀に入ると、中央の権力が弱体化して国内が乱れ、地方で豪族が割拠するようになった。そして九三五年に高麗朝と交替した。高麗朝はナショナリズムを甦らせて、高句麗と百済の精神的な再興を企てた。

 十三世紀に入ると、モンゴルがアジア大陸において勢力を大ぎく伸ばすようになった。一二〇六年にチンギス・ハン(成吉思汗)がモンゴル諸族を統合して、モシゴル遊牧帝国の創建者となった。モンゴルは一二三一年に、高麗へ第一次侵攻を行なった。

 モンゴル帝国はチンギス・ハンの末子の子であり、第五代皇帝のフピライ・ハンが中国の統一を成し遂げ、一二七一年に中国の伝統を受け継ぐ政党王朝として、元朝を樹立した。そして、その後、一世紀にわたるモンゴル人による漢人支配が始まった。

 日本は一二七四(文永十一)年と一二八一(弘安四)年に、元軍の大規模な襲来によって見舞われた。二回にわたった元冠である。これは日本にとって、歴史的な大きな危機であった。日本がかろうじて元軍の来冠を撃退することができたことが、日本の“神国思想”の形成に大きな役割を果した。

 高麗軍も、精強で勇猛だった。モンゴルの高麗支配に徹底抗戦したのは、高麗の正規軍だった精鋭部隊の「三別抄<サンピュルチョ>」であった。高麗朝には、一般国務から独立した総帥権によって動く「三別抄」が存在した。「別抄」は勇士によって組織された選抜軍を意味したが、最初は盗難を取り締まるためにつくられた「夜別抄」から始まった。この組織がしだいに拡大したことから、「左別抄」「右別抄」の二つに分けられた。そして、モンゴル軍に捕えられて脱出した捕虜から、「神義軍」が組織されたことから、左、右、神義の三軍を三別抄と呼ぶようになった。

 高麗はモンゴル軍の来襲に備えて一二三二年に江華島へ遷都して以後、高麗の精鋭軍である三別抄が、モンゴル軍に対して三十八年間にわたって頑強に抗戦を続けたために、モンゴル軍の日本への侵攻が大きく遅れた。

 高麗は二十三代の王の高宗のもとで、モンゴル軍の第一次侵攻を蒙ると、いったんは講和を結んだが、好戦を決意して、都を開京から、その西方にある江華島へ移した。開京は現在の北朝鮮の南西部にある開城<ケソン>である。

 モンゴル軍は江華島を攻めあぐねた。しかし、二十四代の王の元宗が講和の道を選んで、モンゴルから国交の改善と侵略しないという約束を取りつけ、一二七〇年にモンゴルの要求にしたがって、開京に遷都した。同時に精鋭軍の解散を命じたことから、事態が急変した。

 中央の正規軍であった三別抄は、モンゴルに対する無条件降伏を拒んで、江華島に寵り続けて、王族のなかの一人を王として推載して、徹底抗戦することを表明した。三別抄は無条件降伏した国王とモンゴルを相手に戦う姿勢をとり、全国に向って「救国の志士は集合せよ」という檄を飛ばしたために、国土防衛のために全国から青年志士が続々と志願して、駆せ参じた。三別抄は高麗の南半部を掌握するとともに、南沿岸沖の制海権を掌中に収めた。しばらく後に、本拠地を江華島から全羅道の珍島へ移した。


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