神話時代からの日韓交流史(1)

夢の「高天原故地」から韓国と日本を眺望する

韓の地は三国時代が終わるまで、国際的に紳士の国として 

 韓の地は三国時代が終わるまで、国際的に紳士の国として尊敬されていた事実は、多く記録されている。

 『日本書紀』も高句麗、百済、新羅の三つの国から、文化人たちが年々歳々、時には「天孫」として、また時に「男負女戴(男は子を背負って、女は子を抱いて)」の群衆を引率して日本に到来し、「日本の建設と開化の役割」を果たしたことを記している。『山海経』は韓人たちを評して「君子国在其北(君子の国が北にあり)」、「其人好譲不争(その人達は譲歩する事を好み、争うようなことはしない)」と称えている。中国の東晉の詩人であり、学者であった郭璞<かくはく>(二七六年−三二四年)は、「東方氣仁国有」「礼譲礼委論理」と激讃している。また、李光洙は著書の『民族改造論』(一九二三年)のなかで、古代の韓国を「東方の気品の優れた国に君子があり、礼儀正しく譲ることを明白にし、礼節と論理に委ねる」として描いている。

 このように当時の中国の韓族に対する印象は、「礼儀正しく仁義」、「紳士の国」として讃え、韓族が自分たちよりも圧倒的に道徳の面で優れていることを認めている。

 東方朔は前漢の武帝の側近であったが、「東方に君子があり、男は皆衣冠束帯としており、女子は皆色のある衣服を着て、常に恭順のまま坐っていて、お互いに規則を犯す事なく、各人共に尊敬し合い、他入が病いになやめば、死力をつくしてその人を救うこの様な人柄は、馬鹿のようにも見えるが、彼等は最も誠実な善人である」と述べている。『三国志』も扶余族(韓族の前身)について「その入達は性質が至誠であり、欲張らないながら、廉恥がある」と讃えている。

 後漢の事跡を記した史書の『後漢書』の『東夷伝』には「扶余の人達は体は大きく強いばかりでなく勇敢でありながら、謹厳であり、盗む事なく、通行する人は夜・晝もない程であり、歌声は絶える事なく明朗である」と讃え、東沃沮(朝鮮半島北部にいた高句麗系)に対しても「人間の性質が正直で勇気がある」といって、「夷」の字を使わずに、代りに「従大従弓」(大きな弓をもって歩く人々)と呼んでいる。扶余族が武勇の民であり、君子の国であるとしてほめたたえていた。

 扶余族は「紳士国」として讃えられたのであった。

 韓族はこのように旺盛な活力を持っていたのに、七世紀以降と、また十四世紀に衰退し始めた。仁・義・礼・勇が充溢していたのに、民族内部の裏切り者による背叛によって、敵であった隣国の属領になり下がった。


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