神話時代からの日韓交流史(1)

夢の「高天原故地」から韓国と日本を眺望する

韓国と日本の交渉が遠く神話時代に遡ることは 

 韓国と日本の交渉が遠く神話時代に遡ることは、周知のことである。韓日間には垂仁天皇の治世に天日槍が来朝したのをはじめとして、深い交渉があった。日本が帰化人から当時のアジアにおける進んだ文化を摂取したことは、唐の『晉<しん>書』に、「東国(注・日本)に文字無し、高句麗独り之を有す」と記されているのによっても分かろう。

 『日本書紀』のなかで、人工の灌漑施設である韓人池が登場するが、日本の歴史において高麗人の名がもっとも早く載っているものである。應神天皇七年秋に、高麗人、百済人、新羅人が来朝して、武内宿禰が詔を奉じて、これらの帰化人に池を造らせて「韓人池」と名付けた。

 『高麗神社と高麗郷』は、「高句麗が新羅百済と共に、我国文化の精神物質両方面に、如何に多く貢献する所があったかは、多言を要せぬことであらう」と説いている。

 高句麗は好太王の治世に、国勢がもっとも振った。高句麗は国土を開拓しながら南下して、朝鮮半島の北半分を平定した。その子の長寿王は、都を国内城から平壌に移した。この時の版土は、現在の忠北、江原両道以北の瀋陽、長春のあたりから、遼東以東の遼東半島一帯、東は遠くウラジオストックまで及んだ。そして北方の強国として、隋、唐にも屈せず、隋の煬帝を破り、再戦して唐の太宗に勝った。太宗をして「魏徴若し在らば、我れをして此の行あらしめざりけんに」と、悔恨せしめたほどだった。

 この先進国だった高句麗は、日本の文化の向上に大きく貢献した。『日本書紀』によれぱ、仁徳天皇十二年に、高句麗より鉄製の盾と鉄の的を贈られた。日本の武器の進歩に、大きく貢献した。

 仁賢天皇六年には、日本から派遣された使者日鷹吉士の要請に応じて工匠を送り、建築工芸の上に著しい進展をもたらした。

 推古天皇十七年には、僧の曇徴<どんちょう>が来朝し、三十三年には僧恵灌<えくわん>を送って、日本の仏教文化の発展を促した。曇徴は五経に通じ、聖徳太子に仏教を講じた。また、彩色、筆墨をつくる技術に長じていたが、碾磑<ひきうす>も伝えて、日本の国民の生活を大きく向上させた。

     「この東方の文化国、強剛四隣に鳴った雄邦の高句麗が建国後七百余年、我が天智天皇の御代、高句麗国王第二十八代實蔵王の代に到って、唐新羅の連合軍の来冠により、遂に亡国の悲運に際会した。(略)高句麗の貴族と住民が続々と海を渡って我国に亡命し来った。(略)未開拓の荘漠たる大武蔵野を、彼等に開拓して貰ふことが、最も策の得たるものと考へられたのであらう。かくして新に置かれたのが高麗郡であった。そして此の高麗郡に移された高句麗人の首長となって彼等を統率したのが、続日本紀文武天皇大實三年四月の條に『乙未従五位下高麗若光賜王姓』とある高麗王若光その人であった。」(『高麗神社と高麗郷』)
 高麗王が武蔵野に入ったのは、高句麗が滅亡してから四十年後だったから、王もかなりの高齢であったろう。故国を去る時は、日本の援けを借り、義軍を率いて祖国に還って高句麗王国を再興しようと心中固く期したことだったろう。しかし、王は王国回復の希望もまったく絶えて、武蔵野の一隅にあえなく没したのであろう。暗涙を誘うものである。


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