韓国民は“韓国病<ハングクピヨン>”によって苦しめられてきたが、金大中大統領も、その前任者の金泳三大統領も、「韓国病」という言葉をしばしば使って政官財界の綱紀を正すこ士に努力してきたのにもかかわらず、成果が容易にあがらない。
換骨奪胎<ファンコルタルチ>という言葉があるが、韓国にとっては縁遠い話である。しかし、これができないかぎり、韓民族はけっして栄光ある紳士の国になることを望むことができない。中国の軛<くびき>を断ち切って、国民精神を三国時代の高句麗と百済の昔へ戻さねばならない。
「統一新羅<トンイルシンラ>」という言葉は美しく響くが、新羅は当時の東洋の模範的な国家であった高句麗と百済を、外国勢力である唐軍を引き入れて、不意討ちして倒した。百済が六六〇年に惜しくも滅びた時には、日本の大和朝廷が四万人の陸海軍を朝鮮半島に派兵して、「白村江の戦い」を戦ったことが、『日本書紀』に詳細にわたって記されている。新羅が唐の力を借りて百済を攻めた時には、新羅は倒れかかっていた。そして六六八年に羅唐連合軍が、版土が北朝鮮から満州・シベリア沿海州にまでわたった高句麗を滅ぽした。
私はこのような戦いを、民族反逆戦争と名づけたい。
新羅は高句麗の満州からシペリア沿海州までわたっていた全国土を放棄して、「国土統一」を成就させたのだった。韓国古代史は統一新羅を美辞麗句をもって謳歌していながら、新羅が高句麗と百済の遺民を分散させ、自らを「大唐国新羅郡」と卑下したことを記録している。このような環境のもとで、国を失った遺民の心境は、その後、紳士どころではいられなかった。中国に対するか“事大思想<シデササン>”は、今日でもいまだに韓国で幅をきかせている。
百済と高句麗が滅びた時に、両国の多くの遺民が日本を目指した。『日本書紀』は「百済の遺民二十万人程度が白馬江、錦江、海浜を伝わって日本へ渡って行った」ことを、詳しく伝えている。また、高句麗の遺民一万余名は、若光王の指揮のもとで援軍を頼みに、日本へ向かったのであった。
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