神話時代からの日韓交流史(1)

夢の「高天原故地」から韓国と日本を眺望する

『古事記』と『日本書紀』は日本の最古の歴史書であるが 

 『古事記』と『日本書紀』は日本の最古の歴史書であるが、韓国南部にあった伽耶の国の王子たちが、当時、韓国よりも肥沃な土地に恵まれた九州地方へ向けて、先を争う勢いで舟に乗って、博多方面に向って旅立っていったことを記録している。玄界灘の波を越えて着いたのが、博多地方であった。

 『宗像神社の縁起』(『日本書紀』神代上)によれぱ、天照大神は自ら生んだ三柱の女神の市杵<いつき>島姫命を玄界灘にある沖の島にある沖津宮へ、田心<たごり>姫命を筑紫の宗像郡大島村の大島にある奥津宮へ、湍津<たずつ>姫命を海浜にある、今日、福岡県宗像郡玄海町田島の宗像<むなかた>(「胸形」とも書く)の辺津<へつの>宮に住まわせた。三柱の女神はそれぞれ任務を与えられたが、天孫降臨の経緯として「三女神を筑紫洲<つくしのくに>に天降らせて、三ケ所の神社におくり、『汝三の<いましみはしらの>神は道のなかに降り居まして、天孫を助け奉<たてまつ>りて、天孫の為に祭られよ』」と書かれている。

 天孫とは、伽耶と百済から玄界灘を渡って、九州地方に着いた王族や、官僚たちの群のことであった。そのために、天孫の「天」と「海」の音は、ともに「アマ」と読まれる。当時の日本に築かれた古墳が韓国の古墳の形と似ているのと、副葬品としてやはり極似した舟の埴輪などが多く出土するのも、古墳時代から伽耶族と百済族が舟で波浪を乗り切る冒険をしながら、九州地方へ渡ったことが偲ぱれる。これらの埴輪や、銅矛、銅鏡、石製紡錘<すい>車、石鏃<やじり>は、時には一度に数万人を数える多人数をもって、九州へ向けて海原を渡った人々の名残をとどめている。

 これらの人々が日本人となり、先進文化と古代韓族の精神を伝えることによって、日本の初期の土台を築いたのであった。

 ほとんど一時に数万人が渡ったというと、人数が多すぎると訴るかもしれない。しかし、大和朝廷が七世紀後半に百済を救うために出兵した時には、四万人を送っている。たとえ人数に誇張があって、その半分だったとしても、数万人が一時に海を渡ったことになる。

 今年六月に兵庫県の日本海側の出石町の遺跡から、十五隻の丸木舟の船団の姿を線刻した板が発見されたが、この町には新羅の王子の天日槍<あめのひぼこ>の渡来伝説が残っている。耳を澄ませると、船を操る人々の掛け声が聴こえてくるようだ。


HOME