学術発表会は午前十一時から除幕式が行なわれたうえで、午後七時まで続けられた。なかでも参加者の関心をひいたのは、馬淵和夫・筑波大学名誉教授と、郷土史家の金文培氏と、李慶煕総長による「大加耶と高天原の故地」に関する研究発表であった。
李慶煕総長は『古事記』と『日本書紀』から豊富に引用しながら、伊弉諾尊<いざなぎのみこと>、伊弉冉尊<いざなみのみこと>、天照大神、高皇産霊尊<たかむすびのみこと>」の諸神が、九州地方へ渡ったという形跡はまったくなく、現在でも高霊にある高天原に居住していて、渡ったのは「素戔鳴尊<すさのおのみこと>」と天孫である「瓊々杵尊<ににぎのみこと>」らの神々だったということを、骨子とするものだった。
李総長は『日本書紀』に天孫が降臨した「櫛触峯<くしふるたけ>」と「櫛日の二上峯<くしひのわたかみだけ>」の「くしふる」が、伽耶の地にある「亀旨峰<クジボン>」のことであり(『古事記』では、「久士布多気」と表記されている)、「添山<そほりのやま>此云曽<そ>褒<ほ>里<り>能<の>耶<や>麻<ま>」が新羅の王都「徐伐<そぼる>」(現在のソウルの語源)であって、「高皇産霊尊<たかむすびのみこと>」の名も「大伽耶・高陽・霊川」から縁起したと指摘した。そして大伽耶の始祖の「伊珍阿鼓王<いじんあざおう>」と、天照大神の父神の「伊弉諾尊<いざなぎのみこと>」が同一の神であると論じた。
馬渕教授の発表は、百済、伽耶から発した「天孫民族が精強な武器を用いることによって日本国中を征服して、大和朝廷を建てた」というものであった。
高霊は大邸から西南へ、三十四キロ行ったところにある。高霊地方は慶尚北道の境の西にひろがる伽耶山国立公園のなかの名山として知られる伽耶山麓の一帯の地域を指すがへここに大伽耶の首都だった高霊があった。伽耶山には海印寺があるが、高麗時代の「八万大蔵経」(別名「高麗大蔵経」)という、彪大な量の木板を所蔵していることによって知られている。この「八万大蔵経」は、韓国の代表的な文化遺産の一つである。小渕前総理も昨年、訪韓した時に、海印寺を参観している。
私は富山県の顧問をつとめたことがあるが、県の日韓親善友の会が毎年の行事として訪韓して、海印寺に仏教の古跡巡礼の一環として立ち寄り、私が教鞭をとっている加耶大学でしばし休憩することになっている。
高霊は現在では人口十万人で、農業を主な地場産業としているが、意富伽耶の王宮跡の復元工事が進んでおり、観光地として活性化することが期待されている。大邸から馬山まで結ぷ邸馬高速道路を使えぱ、三十五分ほどの距離にすぎない。
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