「任那」について

『雄略紀』以後急に「任那」の用例が 

 『雄略紀』以後急に「任那」の用例が増える。「七年(四六三)是歳(11)」には吉備田狭を「任那国司」に飛ばした話があり、この場合、天皇がその婦を奪って夫を遠ざけようというのであるから、遠隔の地の方が都合がよいと考えるなら、「高霊伽耶」としてよいであろう。なおこの「国司」というのは後世の日本国内の「国司」という語を仮用したもので、『継体紀』三年に出ている「任那日本県邑」を管理する役人ぐらいの意であろう。

 その八年(四六四)二月、新羅が高句麗に攻められ、任那王に助けを求め、「伏して日本府行軍元帥等に救いを請うた」とある。あたかも高句麗好太王碑の記事を反対に日本の側から見たようなことである。ただし、その間に五十年のへだたりはある。そこで「任那王」は膳臣斑鳩<かしはでのおみいかるが>・吉傭臣小梨<きびのおみをなし>・難波吉士赤目子<なにはのきしあかめこ>を勧めて新羅を救わしめた、とある。とすると、「任那王」と将軍達は組織上も場所的にも別の存在であって、将軍達はおそらく「日本府」(安羅にあったか)にいて武力を司っていたであろうし、「任那」は高霊伽耶のこととしてよかろう。日本府には隣国からも頼りにされるような強力な軍隊がいたことになる。この記事を「日本府に関する記述は歴史的事実としては考えられない」とする李永植氏の意見(12)はやや行き過ぎではないか。李氏は「日本府」を武力を持たない外交使節団の様なものと考えていられるが、当時武力を持たない倭の集団が半島の地(たとえ友好国内であったとしても)で存在し得たとは思われない。

 『雄略紀』「二十一年(四七七)三月」の注に、

    日本旧記云、以二久麻那利一賜二末多王一。蓋是誤也。久麻那利者、任那国下★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)県之別邑也。

とあるのは、百済が高麗に攻められて都を熊津、すなわち「久麻那利」に移したという「久麻那利」と、任那の地にあった熊川これも「久麻那利」といったので、混同したことを言っているのである。熊川は今の慶尚南道昌原郡熊川面の地で、広義の任那の域内に一人る。

 『顕宗紀』「三年(四八七)二月」

    阿閉臣事代銜レ命、出二使于任那一於レ是、月神著レ人謂之曰、我祖高皇産霊、有レ預下鎔二造天地一之功上。宜下以二民地一、奉中我月神上。若依レ請献レ我、当福慶。事代由レ是、還レ京具奏。奉以二歌荒樔田一。歌荒樔田、在山瀬国葛野郡也壹伎県主先祖押見宿禰侍レ祠。

とあるのはなにか意味ありげである。ことに阿閉事代が使者として行ったのが任那であり、そこで高皇産霊や月神が現れるのは何を意味するか。「高天原」が「高霊伽耶」であるとする私説には有利の様ではあるが、いまだ十分には考え得ない。

 『顕宗紀』「三年(四八七)是歳」に

    紀生磐宿弥、跨二據任那一、交二通高麗一。将三西王二三韓一、整二脩官府一、自称二神聖一。用二任那左魯、那奇地甲背等計一、殺二百済適莫尓解於尓林一。尓林高麓地也築二帯山城一、距二守東道一、断二運レ粮津一、令二軍飢困一。百済王大怒、遣二領軍古尓解、内頭莫古解等一、率レ衆趣二于帯山一攻。於レ是、生磐宿弥、進レ軍逆撃、膽気益壮、所レ向皆破。以レ一当レ百。俄而兵尽力竭。知二事不一レ済、自二任那一帰。由レ是、百済国殺二佐魯、那奇他甲背等三百余人一。

という事件が任那をめぐって起きた。これには新羅が入っていないから「西三韓」とは高句麗・百済・任那のことかと思われ、とすればこの「任那」は高霊伽耶を中心としていると考えるべきであり、「帯山城」がどこであったかがきめ手になるが、これは鮎貝氏以下によれば、全羅北道井邑郡泰仁の地だという。この「任那」を田中氏は「安羅」としている(13)が賛成し難い。

 『継体紀』「三年(五〇九)二月」に「在任那日本県邑百済百姓」という語が見える。これも百済から移住してきた百姓のいる「日本県邑」ということであるから、高霊伽耶がふさわしく、いわば「移民地区」の様なものがあったかと思わせる。それと前に示した「任那国司」とはおそらく関係があるのであろう。

 『継体紀』「六年(五一二)十二月」に、百済が任那国の上★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)・下★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)・娑陀・牟婁の四県を自分の国に併合する様、★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)国守穂積臣押山<おしやま>に働きかけて日本の天皇に申し入れてきて大伴金村も同調し、物部大連麁鹿火<もののべのおほむらじあらかひ>を以って勅宣を使者に下そう(つまり許可しよう)とした。これに対して物部大連の妻がいさめて、

    夫住吉大神、初以二海表金銀之国、高麗・百済・新羅・任那等一、授二記胎中譽田天皇一。故大后息長足姫尊、与二大臣武内宿祢一、毎レ国初置二官家一、為二海表之蕃屏一、其来尚矣。

ゆえにその地を百済に譲ってはならぬと言ったとある。この件は百済の史料によって書かれたとする説もあるが、しかし、ここで大連の妻が語った様な、神功皇后朝鮮遠征説話が当時の倭国に、一部であったにせよ存在したことは確かであろう。したがって、これが倭側の記事であることも注意しなければならないが、それはともかくとして、ここで「任那」を「高麗」「百済」「新羅」と並立しているということは、おそらく「任那」をもって伽羅全体を指している様である。しかしまた、これらの文辞は『紀』編纂時の作文であろうから、これをもって五一二年に諸伽羅国を一括した名称として「任那」を使用したと直ちに言えないかもしれない。大体この四県は任那領であったのか、倭に統治権があったのか(「★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)国守穂積臣押山」などとある)不詳であるが、倭が百済の南進を公認したことは任那にとって大打撃であった。

 翌年(五一三)百済はさらに、己★(左:さんずい/右:文)・滞沙の地を要求し、認められる。同時に任那の一国である伴跛国も申し出たがこれは不許可になった。これらのことにより、任那は憤激して倭から離れ、伴跛国は東西で暴れるという事件(14)が起きる。伴跛は星山伽耶のこととする通説と、「高霊」中の一地域とする説(16)とがある。

 『継体紀』「二十一年(五二七)」には近江毛野臣が六万の兵を率いて「任那」に往(岩波大系本「住」。朝日増補六國史により訂す)き、新羅に破られた「南加羅<ありひしのから>」「★(左:口/右:碌のつくり)己呑<とくことん>」を復興し任那に合併しようとした。ところが筑紫の国造磐井が叛乱を起して毛野臣は進むことができなかったので天皇は大伴大連金村<かなむら>・物部大連麁鹿火<あらかひ>・許勢<こせ>大臣男人<をひと>等を遣すことになった。この大伴金村・物部麁鹿火は前に見たごとく親百済派であるから、ここでは「南加羅<ありひしのから>(金海)」「★(左:口/右:碌のつくり)己呑<とくことん>(不詳)(15)」などが新羅に破られたのを百済の力を借りて復興させようというのは首肯できる。したがってこの「任那」はまだ日本が勢力を維持していた高霊伽耶・安羅などの、伽耶の中心部である。そのくせ一方では、『継体紀』二十三年((五二九)によれば、「加羅多沙津」(蟾津河□)を百済に与えている。そこは「加羅」にとっても重要な海港であったので、「加羅」の憤激をまねく。

    於是、加羅王謂二勅使一云、此津、従レ置二官家一以来、為二臣朝貢津渉一。安得三輙改賜二隣国一。違二元所レ封限地一。

と抗議をし、「加羅」は倭を離れて新羅に近づくことになり、「加羅王」は「新羅王女」を娶ることになる..

    由レ是、加羅結二儻新羅一、生二怨日本一。加羅王娶二新羅王女一、遂有二児息一。新羅初送レ女時、并遣二百人一、為二女従一。受而散二置諸県一、令レ着二新羅衣冠一。珂利斯等、嗔二其変一レ服、遣レ使徴還。新羅大差、飜欲レ還レ女曰、前承二汝聘一、吾便許レ婚。今既若レ斯、請、還二王女一。加羅己富利知伽未詳、報云、配二合夫婦一、安得二更離一。亦有二息児一、棄レ之何往。

つまり、新羅から王女についてきた百人の従者を諸県に散置して新羅の衣冠を着させた。これを知って「阿利斯等(17)」が嗔り、その新羅人をめし集めて新羅に返した。そこで新羅は、「お前の方から結婚を申し込んできたので許したのだ。そんなら女を返せ」といってきた。これに対して、加羅の「己富利知伽」が答えるのに、「夫婦となり、子供までできたのに、どうしてそんなことができようか」といったというのである。この「己富利知伽」は「郡の長」の意で(18)あろうから、この「伽羅」の有力な重臣の一人であり、新羅に対して「伽羅」を代表して返答をしているのである。

 さて、この「阿利斯等」が誰かということはこの事件の経緯を明らかにするために大事なポイントなのであるが、従来、次に掲げる『紀』の文によって任那王の名と考えられてあまり問題にされていなかった(19)が、実はそうではなくて、その時日本府にいた、後の「火葦北郡刑部靫部阿利斯等」であろう、というのが私見である。すなわち、『紀』の次の四月の条に、

    任那王己能末多干岐来朝。言二己能末多一者蓋阿利斯等也。

とある。この「己能末多<このまた>」は「巳能末多<いのまた>」の誤りであったろうとし、『新増東国輿地勝覧』「高霊県」に引く「釈順応伝」に

    大伽耶国月光太子、乃正見之十世孫。父曰二異脳王一、求二婚于新羅一迎二夷粲比枝輩之女一、而生二太子一。

とあるのによって、「異脳王」が新羅より「夷粲比枝輩之女」を迎えたのだとする説(20)は十分妥当性がある。それは、丁度これに符合する記事が『三国史記』新羅法興王九年(五二二)春三月に、

    加耶国王遣使請レ婚。王以二伊★(左:冫/右:食)比助夫之妹一送レ之。

とあるからである。ただしこの女性を前者では「夷粲比枝輩之女」とし、後者では「伊★(左:冫/右:食)比助夫之妹」としているが、「夷粲」は新羅の第二等の位階で「伊★(左:冫/右:食)」と書くのが普通であり、あるいは王族であったかも知れない。また、「比枝輩」と「比助夫」とはp−s−pという者の類似から同一人かと思われるが、「女<むすめ>」と「妹」との違いを強く見れば「比枝輩」は「比助夫」の父であるかもしれない。

 問題となるのは「己能末多と言へるは、蓋し阿利斯等なり」という注の文の「蓋し」という字の意味である。もし「任那王己能末多干岐」が「阿利斯等」と同一人ならば「蓋」の字は不用である。ところが任那王は上掲文のごとく、新羅の風俗を取り入れた人、「阿利斯等」はそれに文句を付けた者であるから明らかに別人である。よって思うに、一つの考えでは、この『紀』の文は、倭の記録によったか、百済の記録によったかはわからないが、「任那王己能末多干岐来朝」という本文を置いたが、紀編纂者の思うには、ここで任那王の来朝というのはおかしいから、「阿利斯等」の誤りではないかとして注したとすることである。も一つの考えは、後世の編纂のこととて右の事件の経緯のわからぬまま、「任望己能末多干岐」は「阿利斯等」のことかと注したとするのである。しかしそれではあまりに安易に過ぎる様に思われるが、しかし他の注文の中の「蓋」の用法を見ると、『欽明紀』「二年秋七月」に、

    紀奈率者、蓋是紀臣娶二韓婦一所レ生。因留二百済一、為二奈率一者也。未レ詳二其父一。他皆効レ此也。

とあり、また、『欽明紀』「五年三月」に、

    己麻奴跪蓋是津守連也

とあるところをみると、単なる推量の場合が多い様であるから、ここも撰者の単なる推量と考えてもいい様である。そうとすれば、それは撰者の誤解ということになる。

 ともかく、継体天皇二十三年(五二九)に日本の政府は「己能末多」を「任那」に送り、あわせて「任那」にある近江毛野臣に詔したとあるから、この任那はおそらく高霊加耶をさしており、ここを拠点として「金官伽耶」など三国の復興を計ろうとしたのである。しかし新羅は上臣伊叱夫礼智干岐を遣して3千の兵をもって毛野臣を威圧せんとしたので、毛野臣は会おうとしなかった。新羅の上臣は、金官・背伐・安多・委陀(一本に,多多羅・須那羅・和多・費智の四村という)を抄掠してことごとく人間をつれ去って新羅に帰った。これらの地域は、金海およびその近傍と考えられているが、多分これによって金海伽耶は壊滅的打撃を被ったのであろう。

 さて、前にもどって、日本は近江の毛野臣を半島に派遣したのであるが、それは南韓の南加羅・★(左:口/右:碌のつくり)己呑・卓淳を再建するためであった。ということはおそらくこの三国は再度の新羅の蹂躙にあって、ほとんど壊滅的打撃を受けていたからであろう。(実際に金官国が消滅したのは新羅法興王一九年(五三二)のことである)

 しかし毛野臣は失政を重ね、「阿利斯等」からも見放されて、本国へ召還されることになり、対馬で病没する(五三〇年)。「任那」は毛野臣を追放するために、百済と新羅の力を借りたため、この両国に領土を奪われることになって、ますます力を弱めることになった。

 『宣化紀』「二年(五三七)」

    天皇、以三新羅寇二於任那一、詔二大伴金村大連一、遣二其子磐与狭手彦一、以助二任那一。是時、磐留二筑紫一、執二其国政一、以備二三韓一。狭手彦往鎮二任那一、加救二百済一。

 この時はもう金官およびその近辺の伽羅は滅亡しており、伽羅の国でなお残っていたのは、安羅および任耶(すなわち高霊加耶を中心とする若干の国)で、その他の国は東は新羅に、西は百済に侵略されていたのである。したがって、『欽明紀』元年(五四〇)に、大伴金村が「自分は任那を滅したと言われている」として朝廷に出なかったということがあったが、けだしこれまでの金村の行状からみれば世評は当を得たものであろう。

 『欽明紀』「二年(五四一)」以後、いわゆる百済聖明王の「任那復興会議」なるものが提唱され、「任那日本府」「安羅日本府」なるものが出てくる。これらは百済側の資料が多いのでそれだけをそのまま鵜呑みにすることは注意を要する。またこれ以後の『紀』の記述は複雑であるので、主として「任那」という名称に関する部分についてのみ考察する。

 欽明天皇二年(五四一)四月に、百済は、「安羅」「加羅」「散半奚」「多羅」「斯二岐」「子他」の早岐と「任那日本府吉備臣」とを集めて日本天皇の詔書を聴かせており、そのことを「百済の聖明王任那の早岐等に謂ひて言はく」と書き、その聖明王の言に対して、「任那の早岐等対へて曰はく」と書いていることから、この「任那」は前の六国を合わせて言っていることになり、これらをひっくるめて、総顧問の様な形で「任那日本府」があったことがわかる。

 ついで百済王の檄文が載っているが、この中の「任那」の指す意は右述のものと同じでよいと思う、またこの文中に、

    遣二下部中佐平麻鹵、城方甲背昧奴等一、赴二加羅一、会二于任那日本府一、相盟。

という文があるが、これによると「加羅」とは「任郡加羅」を指している様であり「任那」とは加羅諸国全体を指している様である。(『欽明紀』「三月」には「任那之国」という語も見える。)そしてこの文意による限り、百済と協力して、任那をもとの姿に復建しよう。新羅に滅ぼされた三国はそれぞれにその原因があるのであってその轍を踏んではいけないと言っているのである。

 ところが、当時の安羅日本府は親新羅派が大勢を占めていたらしく、百済には気に入らず、よって安羅日本府から邪魔物を追い出そうと計っているのが同年七月に見える長文の記事である。

 『欽明紀』五年(五四四)三月には百済が盛んに任那再建の大義名分を得ようとし、日本政府に使を遣したり、任那日本府や任那の執事におどしをかけたりしている。ことにその障害となっている安羅日本府の日本人や韓腹の者を親新羅派だとして日本や本貫の地へ戻させようとしているのである。

 ここで注意すべきは、任郡日本府はどこにあったかということである。このあたりの記事に「任那日本府」「安羅日本府」(『欽明紀』「二年秋七月」)の二つの名が出るので、この二つは同じものか別のものか間題になるが、これは同一のものとしてよいであろう。というのは『欽明紀』「二年夏四月」に百済聖明王の招集に応じて任那日本府の代表として出ていった「吉備朝臣」の名が左の如く同年同月の『紀』にのせる百済王の天皇宛文書に、

    今的臣・吉備臣・河内直等、威従二移那斯・麻都指ヒ一而巳。移那斯・麻都、雖二是小家微者一、専壇二日本府之政一。又制二任那一、障而勿レ遣。

とあり、他の人々と共に安羅日本府にいたらしく思われるからである。右の人々の中、「的臣」は

    日本府百済本記云、遣二召鳥胡跛臣一蓋是敵臣也与二任那一。倶対言…(『欽明紀』五年三月)

とあるのによって、任那日本府の日本人であったらしく「河内直」「移那斯」「麻都」は、

    河内直・移那斯・麻都等、猶住二安羅一、任那恐難レ建之。故亦并表、乞移二本処一也。(『欽明紀』四年十二月)

とある(その文の直後にもう一か所同趣旨の文がある)ごとく、百済王から極端に忌避されていた当時の安羅日本府の実力者(かつて『応神紀』に記されていた「木満致」のごとき者か)で、任那の政治をも左右していたらしいのである。よって吉備臣のいた任那日本府は、安羅日本府と同じものであったことが判る。思うに、「安羅」はその所在地、「任那」は、伽羅諸国を統合した政治的名称であったのであろう。

 なお、当時「任那日本府」の勢力は「任那」全体(勿論、新羅に侵略された三国は除一)に及んでいたらしく、そのことを示すよい例は、『欽明紀』「五月二日」に、百済聖明王が、任那日本府と任那諸早支に日本天皇の詔勅を得たとして召集を呼び掛けたのに一向に集まろうとしなかったのに対し、聖明王が激しい非難のことばを浴びせたが、それに対する日本府の答えは次の様な冷然たるものであった。

    任那執事、不レ赴レ召者、是由二吾不一レ遣、不レ得レ往之。(中略。日本天皇はかえって新羅へ行って天皇の勅を聴けといっており、百済には、百済が占拠している下韓の地を出る様にといっているということが書いてある)故不レ往焉、非二任那意一。於レ是、任那旱岐等曰、由二使来召一、便欲二往参一。日本府卿、不レ肯二発遣一。故不レ往焉。(下略)

 つまり当時「任那」の動向はもっぱら、「任那日本府」の意向に左右されていたのである。そして日本政府は百済も全面的には信用してはいなかったのである。また「任那旱岐ら」が「行きたかったのだが日本府のお偉ら方が承知しなかったので行かなかったのです」というのは、本心か、単なる言いわけ、私には後者の様な気がする。

 『欽明紀』五年(五四四)十一月に、百済聖明王は再び日本天皇の詔書なるものを示して「任那」再建を議するために、「日本府臣」「任那執事」「安羅」「加羅」「卒麻」「斯二岐」「散半奚」「多羅」「子他」「久嗟」それぞれの重臣といってもよい人々を招集した。そこで三策を示したが、そこに出席した吉備臣は「帰って日本大臣、安羅王、加羅王に計ろう」といった。

    日本大臣謂下在二任那一即日本府之大臣上他

とあるので、任那日本府には「大臣」というべき「長官」がいたのである。前出の「的臣」か。

 さてここに「任那」の八国が揃ったのであるが、それならば「任那執事」とは何者であろうか。それは文脈から判断すれば、

  日本府臣=吉備臣

  任那執事=諸国の早岐および君たち

となるから、任那諸国の政府責任者ということになろう。

 ところが、ここで百済王が示した任那復興の三大策の第三策に、

    又吉備臣・河内直・移那斯・麻都、猶在二任那国一者、天皇雖レ詔レ建二成任那一、不レ可レ得也。請、移二此四人一、各遣二還其本邑一。

というのがあるが、その排除の四人の中に入っている吉備臣が、その案を結構です(「愚情に協ふ」)といって承って引下っているというのは、どうみても滑稽である。

 その結果どういうことになったかよくわからないうちに、百済と高句麗との間に火急の紛擾が起きた。これは『欽明紀』「八年(五四七)夏四月」によれば「救軍を乞ふ」とあるが、実はその前々年(五四五)に、「欽明紀」に

    是年、高麗大乱、被二誅殺一君衆。百済本紀云、十二月甲午、高麗国細詳与二麁群一、戦二于宮門一。伐レ鼓戦闘。細群敗不レ解レ兵三日。尽捕二誅細群子孫一。戊戌、狛国香岡上王麁也。

とあり、次の七年(五四六)には、

    是歳、高麗大乱。凡闘死者二千余。百済本紀云、高麗、以二正月丙午一、立二中夫人子一為レ王。年八歳。狛王有二三夫人一。正夫人無レ子。中夫人生二世子一。逸舅群也。小夫人生レ子。其舅氏細群也。及二狛王疾篤一、細群麁群一、各欲レ立二其夫人の子一。故詳死者二千余人也。

とある。この事件については『三国史記』「麗紀」には何も記するところは無い。よって思うに、百済側としては高句麗が世子争いで大乱に堕入っているのを奇貨として、これを攻めて北方の守りを安定せしめんとしたのではないか。しかし『紀』および『三国史記』の伝えるところでは、五四八年、高句麗が百済の独山域(末松氏は、これを『紀』に言うところの「馬津城」であるとされる。)を攻め、百済は新羅の将軍朱珍の援けを得て麗兵を破ったことになっている。百済は日本政府に対しては散々に新羅の悪口を言いながら、いざとなると新羅の助けを借りるという巧妙な外交戦術を使っていたわけである。そして『紀』によれば、倭も任那もこれに参加する意向は示したが、結局は間に合わなかった様である。ところが、その戦いで捕虜になった高句麗の者の口から安羅国と日本府とが高句麗にけしかけたからだという噂がもれ、百済はこれを楯にとって、日本府から「延那斯」「麻那」を放逐することを日本政府に要望することがあった。これらの経過から見ると、いつも「日本府」と「安羅」とは協同した行動をとっており、任那諸国の中では安羅が日本府の後楯のあったせいか、一番に勢力もあり、活動的であった、このことは『欽明紀』「五年(五四四)三月」の百済聖明王の檄文中にも、

    夫任那者、以二安羅一為レ兄、唯従二其意一。安羅人者、以二日本府一為レ天、唯従二其意一。百済本記云、以二安羅一為レ父以二日本府一為レ本也。

とある。

 百済が新羅・任那と協力するという状勢は、五五一年までは続いたらしい。『欽明紀』「十二年(五五一)是歳」に、

    百済聖明王、親率二衆及二国兵一、二国謂二新羅・任那一也。往伐二高麗雇一、獲二漢城之地一。又進レ軍討二平壌一。凡六郡之地、遂復二故地一。

とある。

 ところが、その翌年になるとまた状勢が変ってきて、百済は、高句麗・新羅の連合に脅威を感ずる様になる。そして翌五五二年には、漢城と平壌とを放棄し、新羅が代ってそこに入った。百済は結局日本に援けを求めるより他に方途が無くなる。

 『欽明紀』十三年(五五二)五月、百済・加羅・安羅が使を日本に遣して天皇に奏していう。

    高麗与新羅、通レ和井レ勢、謀レ滅三臣国与二任那一。故謹求二請救兵一、先攻二不意一。軍之多小、随二天皇勅一。詔曰、今百済王・安羅王・加羅王、与二日本府臣等一、倶遣レ使奏状聞訖。亦宜下共二任那一、并レ心一上レ力。

ここでも「百済・安羅・加羅・日本府臣」は並記してあるが、その他の任那諸国は名前が出ていない。「よろしく任那と共に心を并せ力を一にせよ」とあるが、「任那」は、伽羅・安羅の他にあるべくも思われないから、これは百済に対しての詔と考えられる。

 ついで、『欽明紀』十四年(五五三)に百済から使が来て、言う。新羅と高句麗と通謀して言うことには、百済と任那とが共謀し日本の援助を得て新羅を討とうとしているから先制攻撃して安羅を取って日本からの補給路を絶とう、と言っている。状勢切迫しているから一刻も早く援軍を送れというのである。ついで矢の様な催促がくるが、百済としては、高句麗と新羅の両方から攻められて必死だったのである。しかし百済王子余昌が戦略を誤り、聖明王は新羅に捕えられて斬首され、百済は潰滅的敗戦となり、聖明王の策した「任那復興会議」は霧消してしまう。時に欽明十五年(五五四)である。

 ついで『欽明紀』「二十三年(五六二)正月」には

 新羅打二滅任那官家一。一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞★(左:冫/右:食)国・稔礼国、合十国。

とあるごとく、五六二年に任那は滅んだのであるが、これは『三国史記』新羅真興王二十三年(五六三)に、

    加耶叛。王命二異斯夫一討レ之。斯多含副レ之。斯多含領二五千騎一先馳二入栴檀門一、立二白旗一。城中恐懼不レ知レ所レ為。異斯夫引レ兵臨レ之、一時尽降。論功斯多含為レ最。王賞以二良田及所虜二万一。斯多含三譲。王強レ之。乃受二其先口一放為二良人一。田分二与戦士一国人美レ之。

とあるのと同じ件である。ここで「加耶」といっているのは、同眞興王の十二年(五五一)に「加耶国嘉悉王が干勒に十二曲を製せしめた」とか、法興王九年(五二二)に「加耶国王に伊★(左:冫/右:食)比助夫の妹を婚せしめた」とか、その十一年(五二四)に「王に加耶国王が来り会した」とかある様に、「高霊伽耶」のことと解してよいであろう。新羅からは、「加耶」(高霊伽那)「金官国」(金官伽耶)以外の伽耶は一つの国とは認めていないが如くであり、また「任那」という名称も見られない。これに対して『紀』の方では「任那官家」とあるごとく、調を取り立てるところにその存在意義を認めていた様である。したがって、表面上は「任那」という国は消滅したに拘らず、『紀』にはその後も孝徳天皇大化二年(六四六)まで八十四年間、「任那の調」というものを新羅に請求する記事が見られること末松保和氏(20)の詳細に論ぜられた通りであり、その時代になっても「任那」の地は倭に調を貢進する習慣が継続しており、倭は、その地の統治権が新羅に移っても、それを要求できる権利、あるいは強制力を持っていたことになる。おそらく任都の調さえ貢進すれば新羅の任那統治を認めるという約束でもあったのであろう。新羅も倭と事を構えるよりは、というのでその約束を結んだと思われる。これらのことの経緯については末松氏の著書に詳しいので省略する。


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