「任那」について

さて、いわゆる倭五王の宋朝に対する 

 さて、いわゆる倭五王の宋朝に対する除正請求の中に「任那」が出てくる。宋太祖元嘉十五年(四三八)、倭王珍(反正)は「都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事(7)」を自称し、除正を求めた。この中に秦韓・慕韓という様な、当時はすでに無く往時に存在した国名をわざわざ掲げたのは、数を増やして賑やかにしようという心算があったかも知れないが、それぞれ新羅と百済に吸収されつつあったけれどもなお少数の残りがあったかもしれない。それはともかく、ここに「任那」が出てくるのに「伽羅」は無い。伽羅諸国は合わせて一国と考えられて「任那」で代表したのであろうか。なお、この申請はそのままは認められなかった。元嘉二十八年(四五一)倭王済(允恭)に対しては「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が認められた。つまり前の六国には「伽羅」の名は無いが、当時の倭では「任那」といえば「任那伽羅」で「伽羅」の代表名と思っていたのであろうが、宋朝では「任那」と「伽羅」とは別の国と考えていたであろう。それぞれを一国と計算している。倭でもそれにあえて異を立てず、武王(雄略)の時には「倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」の七国の諸軍事都督たらんと申言したが、その中より百済は削られて六国の軍事都督のみ除せられた。けだし百済は、宋朝と交通のあった半島の二国の中の一国であった(もう一国は高句麗)から、これは認めなかったのが当然であろうが、あとの諸国は宋朝にとってよく実情がわかっていなくて、いわばどうでもよかったのであろう。だから「任那」と「伽羅」は別の国と思ったであろうし、倭では倭で、「任那」の他に「伽羅」と呼ぶ国はいくつもあったから一括して「伽羅」でよいと思う様になったらしく思われる。


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