SAPIO誌 平成14年5月22日号(小学館)
偽史 日本歴史のルーツを韓国に求める「捏造旧跡」が増えている

石垣島の英雄生誕地としてテーマパークを建設 

 韓国の南西部、全羅南道の長城郡には「洪吉童」に関する遺跡があり、この「洪吉童」があたかも石垣島の「ホンガワラ」と同一人物であるという主張がなされている。と言っても何のことやらお分かりにならない方が大部分であろう。

 「洪吉童」とは李氏朝鮮王朝中期に詐埼(1569〜1618)が著わしたとされる朝鮮最古のハングル小説、『洪吉童伝』の主人公である。洪吉童は「遁甲術」という忍術を使い、「活貧党」という盗賊集団を率いて、悪徳な官吏から財物を奪い貧民に分け与える義賊である。朝鮮の朝廷は洪責童を捕まえようとするが、失敗を繰り返し、仕方なく洪吉童に官職を与えて懐柔する。

 その後、洪吉童は中国の南京を経て南洋に浮かぶ「律島国」を発見して征服し、その国の王となったというのが小説の大まかなあらすじである。長城郡では数年前から洪吉童は実在の人物で、洪吉童の生家が長城郡にあったと主張し、毎年5月には「洪吉童祝祭」という祭りを開催している。『朝鮮王朝実緑』などの文献資料によると西暦1500年に洪吉童は朝廷に捕縛され、その年の11月に「南海3000里」に島流しに処されたと記録されている。

 ところで琉球王朝の歴史書である『球陽』には「オヤケ・アカハチ・ホンガワラ」という人物が記録されている。「ホンガワラ」は波照間島で生まれたが、その後石垣島に居城を構えて島をほぼ制圧した。「ホンガワラ」は前里王府への朝貢を姫否したとして、1500年に王府の派遣した討伐軍に制圧された。琉球王朝の記録では「ホンガワラ」は反逆者とされているが、石垣島では民衆の指導者として崇拝の対衆になっているという。

 長城郡は「ホンガワラ」と洪吉童は同一人物で、小説『洪古承伝」の内容は島流しになった洪吉童が石垣島の王となったことを反映したものであると主張しているのである。

 こうした長城郡の意を受けて洪吉童と「ホンガワラ」を関連づける研究をしているのが薜盛m・延世大教授(国文学)と梁権承・韓国族譜学研究所副所長である。

 梁権承氏の主張を要約すると、(1)「ホンガワラ」の語源は「洪家王」であり、これを韓国漢字音で読むと「ホンガワン」すなわち「洪吉童(ホンギルドン)」となる、(2)八重山地域に朝鮮式の墳墓や草葺きの住居が残っている、(3)久米島には韓国式の相撲や綱引きが伝えられている、といったものである。また琉球王朝が久米島の統治者を任命したという歴史的記録は1600年以後のものであり、1506年の琉球王朝による久米島制圧から100年も後である。これは洪吉童の建国した王国が100年以上存続したことを示しているという。

 また蒔盛現教授は、『洪吉童伝』の作者である許★(上:竹/下:均)の兄が琉球王朝の使臣と接触しており、許★(上:竹/下:均)は兄を通じて洪吉童が南の島に渡って王になったという情報を得て『洪吉童伝』を著わしたと主張している。

 しかし洪吉童と「ホンガワラ」が同一の人物であるとか、洪吉童が石垣島の王になったと記録した史料は存在しないのである。唯一、洪吉童が南の島に渡ったと記している『洪吉童伝」には洪吉童が「穣島国」の王になって30年後に72歳で没したと書かれており、長城郡の主張とは全く異なる。結局のところ長城郡の「ホンガワラ=洪吉童」という主張は『朝鮮王朝実緑』『洪吉童伝』と「ホンガワラ」に関する日本側の記録を適当に結合して作られたものなのである。このようなあやふやな根拠にもかかわらず、長城郡のホームページ( http://www.jangsong.jeonnam.kc )には「ホンガワラ」と洪吉童が同一人物であるという王張が確固たる学説であるかのように説明されているし、昨年には石垣市の市長らを招いて洪吉童に関する「学術セミナー」も開催された。現在、長城郡は12億8000万ウォン(約1億2800万円)の予算を投じて「洪吉童テーマパーク」を建設中である。


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