先に李慶煕論文を批判したが、李慶煕氏は、大分県竹田市の古墳からより発掘された埋葬物が加耶と同一性のものであったとし、それを自説の正当性の根拠としている。しかし、日本と韓国の文化交流は古代からあったことは誰もが認める事であり、それが大分県竹田市の古墳から発見されても取り立てて騒ぐほどの物ではない。日韓両国の親密さを物語る史料として貴重であるとは思うが、それを以って「三種の神器」と断定するのは上記に述べてきた理由をもって早計であると断じざるを得ない。第一、三種の神器は明治以降、誰も見た事がないのである。嘗て、文部大臣をしていた森有礼が、伊勢神宮にある神鏡を見て「天照大御神はユダヤ人であったか」などといったという説があるが、文部大臣如きが、神鏡を見る事が出来ようはずも無く、ただ伝えられているのは神鏡の寸法のみであり、現物は誰も見た事がないのである。まして、三種の神器が見つかったというのなら、中国から渡来した鏡なども古墳から見つかっており、李慶煕説が立証されたとするには少々無理があるように思える。
また、「韓国版日鮮同祖論」を提唱される方は、蘇我氏などの例を挙げ、韓国からの渡来人が如何に大和朝廷の基礎を創ったかを力説されておられる。確かに、渡来人の方々は、日本国家形成上に非常に尽力されており、その点に異論を挟むものではない。しかし、韓国の史書である<三国遺事><三国史記>を読めぱ、韓国においても日本からの「渡来人」が建国に大きく関わっていることが分かるのである。
新羅の高官に「瓠公」という人物がおり、彼は<三国史記>に
瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰。度海而来。故称瓠公。
と書かれており、日本人であることがわかる。この瓠公は、<三国遺事>によると、新羅の都の西から真夜中に鶏の鳴き声が聞こえるという怪事があった為、瓠公に調査を命じた。瓠公は、夜中に林の中で、白い鶏が鳴いているのを目撃し、更に、黄金色に輝く小さな箱を見つけた。瓠公が国王に報告すると「その箱を運ベ!」と命じた。
その箱を王宮で開けると、箱の中から童子が現れた。国王は「これは天が授けたわが息子だ!」といい、養子とし、姓を箱にちなんで「金」、その聡明なことから「閼智」と名付けられた。この金閼智の子孫から新羅国王も生まれくる。そして、その子孫は分派していき、慶州、安東、光州、江陵、延安にいるそれぞれの金氏は、このを金閼智を祖としているというのである。この故事に、日本人である瓠公が関わったのは大変、興味深い。日本は韓半島の「金氏」の最大の功労者となるからである。日本では、韓半島・中国からの渡来人の影響を説くのみで、日本からの「渡来人」が如何なる活躍をしたのかは触れていない。これではまるで、日本だけが韓半島の恩恵を受けいていたように錯覚してしまう。
また、金首露の妻となる許黄玉王妃は自ら「阿踰?国」から来たと言っている。私の持っている「完訳 三国遺事」には、王妃の出身は「インド」であると注しているが、少なくとも、現在、日本の文化をつくった人々の祖父、祖先が「渡来人」であるだけで、日本をつくったのは韓民族と主張する論法を当て嵌めさせて頂ければ、韓国、少なくとも加羅を創ったのは、インド人である、と言えなくもない。「高天原韓国説」を説く方はこの問題を如何にお考えになるのであろうか。
私が述べたいのは、今の観点から「渡来人問題」を考える事に対する疑問である。当時、果たして国家という概念がどこまであったのだろうか。記紀にみえる数々の渡来人だけでなく、韓国の為に尽力した<三国遺事><三国史記>に見える外来の高官は、国家という意識があって尽力したのであろうか。国家、領海という概念がないのなら、多くの物的・人的交流が日本と韓国との間で、自然とあったとみる方が普通ではなかろうか。つまり、加羅にしても、新羅にしても、日本にしても「渡来人」という意識で渡来したのではないのではないか。我々が「高天原韓国説」をみるときは、そういう観点が必要な事を説くものである。
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