先に述べた「高天原故地」のある加耶大学校の総長、李慶煕氏は2001年の<歴史読本>2月号に<「高天原」の考古学的証明>を特別寄稿したが、それに反論を試みたい。
李慶煕論文は次の要旨から成り立っている。
・馬渕和夫は「高天原」は現在の韓国慶尚北道高靈邑であると主張した。
・瓊瓊杵尊が葦原の中国に降臨したとき、「韓国に向いて」と発言している。それは皇孫が「韓国」に強い関心をもっていたからに他ならない。
・三種の神器は加耶の古墳からいくらでも発見されるものである。
・素戔鳴尊はソシモリで一時暮らしているが、韓国の古代語で加耶地方にある「牛頭山」はそしもりと呼ばれていた。
・「任那」は韓国語の「IMNA」であり、主人の国・お母さんの国という意味である。これは日本が加羅を「任那」と呼んだことから、任那加羅は日本の母国であったのである。
・加羅には辰韓、弁韓など12ヶ国があり、弁韓には彌烏邪馬国と云う国もあった。これは韓国語で「MIO YAMATTO」である。TTOは地方という意味である。邪馬台国も大和も韓国語の発音ではYAMATTOである。このように、邪馬台国も大和も、皆故郷は、彌烏邪馬国であった。
・大分県竹田市から発見された遺跡から、任那加羅製の銅鏡が発見された。その銅鏡には入為的な傷がついており、それは特別な行為があった事を示している。その事は天照大御神が天岩戸から出てきた際、差し入れた鏡に傷がついたという記載と合致する。
・伊邪那伎命の「イザナギ」と加羅地方の始祖「伊珍阿鼓」(いじんあし)はホポ同音であることからも立証できる。
この様な内容であるが、李慶煕論文は、日本の「日鮮同祖論」を踏まえ、韓国の史書・古代史をよく踏襲した上で書かれており、優れた論文であるといえよう。しかし、「記紀」の成立過程を考えれば、高天原を国内外に関わらず、特定の地理上に定めるのは不可能である。神代の話は入間界の話を神の世界に置き換えたらこうなる、という話なのであり、現実世界の話ではない。
確かに記紀には、李慶煕論文にあるように韓国との密接な関係を伺わせる内容が含まれている。しかし記紀の成立が、当時の大和朝廷の豪族が史料を出し合って出来た事から、秦氏などの渡来人が祖先を懐かしみ、母国朝鮮の事を混ぜた事が考えられる。高天原が韓国なら、記紀に新羅や韓国など具体的に韓半島を思わせる記載を明記していながら、何故、果体的に高天原は加耶である、と書いていないのだろうか。更に韓半島を想起させる記載は、<日本書紀>の幾つも挙げられる「一書」の中の「一書だけ」しか韓国との繋がりを書いていない。即ち、具体的に高天原が韓国であるという事を記紀に書いていないという事自体が、高天原は韓国ではないという証拠に他ならないのである。李慶煕論文は、現在の「日鮮同祖論」を代表するものであると考えるので、以下、李慶煕論文への反論を述べる。
・李慶煕氏は論文中に素戔鳴尊が「韓国の故郷には金銀がある」と言ったと解釈している。しかし素戔鳴尊も天照大御神も「高天原」で生まれたのではない。伊邪那伎命が黄泉の国から逃げてきた際、「日向の筑紫の橘の小戸の阿波岐原」で生まれている。これは李慶煕氏自らが「高天原韓国説」を棄てた証拠に他ならず、氏の記紀への読解不足を示すものである。
・李慶煕氏は「任那は韓国語の「IMNA」で「主人の国」或いは「お母さんの国」と云う意味である。日本の大和政府は高靈の地にあった加羅を「任那加羅」と称していた事からも任那加羅は大和政府の母国であったことを十分知り得る」と言う。しかし、「任那」という呼称は日本人だけでなく、韓国人も使用していた。<三国史記>の列伝に強首の言葉として「臣本任那加良人」の一文があり、更に真鏡大師塔碑には「大師諱審希、俗姓新金氏、其先任那王族」と書かれている。また中国の学者、王健群氏によって日本参謀本部の捏造説が否定された「広開土王碑」には「来背急追至任那加羅従抜城」とあり、韓民族が「任那」という呼称を使った事は明らかである。任那という国名を日本だけが呼んでいたのなら李慶煕論文に同意出きるが、韓民族が「任那加羅」と呼んでいた以上、李慶煕説は立証できないものである。
・李慶煕氏は「天の八重雲」を(海の波)と解釈しているが、その方が自説を立証しやすいのだろうが、これは「記紀」の内容を理解されていない証拠である。日本語の「八重」とは折り重なるという意味がある。つまり「天の八重雲」とは天に幾つも折り重なった雲を指しており、海の波を指したものではない。「古事記」には素戔鳴尊が「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という歌を歌ったとあるが、つまり「八重雲」という言葉は「八雲」であり、もし、李慶煕氏が「天の八重雲」を「海の波」と主張されるなら、単なる憶測ではなく「記紀」の文中において、それを立証するべきである。
・李慶煕氏は素戔鳴尊の言葉として、『からくにの故郷には金銀が有る。我が児五十猛神を使わしてそれを取ってこようか」と解釈しているが、原文は「韓卿の嶋には、是金銀有り。若使吾が児の所御す国に、浮寶有らずは、未だ佳からじ」である。つまり「韓卿の島には金銀がある。もし私の息子の治める国に舟がなかったらよくないだろう」が原文である。李慶煕氏の解釈と原文に大きな開きがあることが分かる。だが、ここで注目すべきは李慶煕氏自身がこの素戔鳴尊の言葉、「韓卿の嶋には是金銀有り」を「からくにの故郷には金銀がある」と解釈している事である。これは高天原は韓国であると主張している李慶煕氏が自らその説を棄てた事を意味する。記紀には、素戔鳴尊は高天原で生まれたのでなく、伊邪那伎命が黄泉国から逃げてきた際、その体を清めようと筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にて禊をされたときに生まれたと書かれている。その後伊邪那伎命は素戔鳴尊に「汝は海原を知らせ」と言い、海を治めさせられている。つまり、素戔鳴尊の言う「故郷」とは「海」か、小さく見積もっても「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」であり、高天原ではない。李慶煕氏が素戔鳴尊の言を「からくにの故郷」と解釈したことは、李慶煕氏自身が「高天原はからくにではない」と明言した事に他ならない。この矛盾を如何に思われるのだろうか。
・李慶煕氏は「「韓国の史書「東国與地勝覧」高靈篇によると大加耶の始祖を「伊珍阿鼓」(イジンアシ)といったという。国際日本文化研究所センターの上垣外氏によれば、この伊珍阿鼓と日本神話のイザナギはほとんど同音」というが、伊邪那伎命の「イザ」は誘う言葉。ナは助詞ノにあたる。キは男性を示す接尾語とされている。すなわち、伊邪那伎命、イザナギの言葉にはきちんとした日本語の意味があり、伊珍と阿鼓と同音であるとしてもそれは何等意味はない。伊珍阿鼓には如何なる意味が込められているのか、李慶煕氏に向学の為御教えを賜りたい。更に日本古代史は伊邪那伎命、伊邪那美命の二神により成り立っている話である。伊珍阿鼓と伊邪那伎命が同じだとするならぱ、「東国與地勝覧」高靈篇には伊邪那美命は如何に書かれているのであろうか?女神がいて、それが伊邪那美命と同音なら一考の価値もあろうが、何も記載されていなければ伊珍阿鼓と伊邪那伎命が同一人物と言われても、説得力を欠く。「記紀」には伊邪那伎命同様、伊邪那美命も重要な位置付けがされている。安直に、伊珍阿鼓の妻、というような解釈は出来ないはずである。
・李慶煕氏「任那は韓国語の「IMNA」で「主人の国」或いは「お母さんの国」と云う意味である。日本の大和政府は高靈の地にあった加羅を「任那加羅」と称していた事からも任那加羅は大和政府の母国であったことを十分知り得る。」というが、「任那」という国名は広開土王碑(414年)に「任那加羅」とあるのが一番古い。
即ち、広開土王碑を見る限りこの「任那加羅」という国名は日本だけが「任那」と呼んでいたのではなく、韓国の人々も「任那加羅」と呼んでいる。任那という国名を日本だけが読んでいたのなら李慶煕氏の説に同意は出きるが、韓国人も「任那加羅」と呼んでいた以上、李氏の説には同意できない。それを裏付けるものとして、高靈朝に書かれた最古の朝鮮史書「三国史記」の列伝において強首(650年頃の人)の言葉として「臣本任那加良人」の一句があり、更に真鏡大師塔碑(924年建立)には「大師諱審希、俗姓新金氏、其先任那王族」と書かれている事からも立証できると考える。任那にどのような意味かは知らないが、韓国人が自らつけた国名を日本人がその呼称で呼ぶ事に何の問題があるというのだろうか。故に、李慶煕氏の論点は的を外していると考える。
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