「高天原は何処か?」日本人なら一度は考えた命題であろう。
古来から、「高天原」については諸所の学説があり、安田徳太郎による「高天原ヒマラヤ説」、青木慶一による「高天原皇居説」、「中国の江南地方が高天原」と説いた樋口隆康。「ムー大陸高天原」説もあり、「高天原論争」は百家争鳴の観を呈していた。しかし、昨今、特に注目を浴びてきた説が現れた。「高天原韓国説」である。この説は古代の古墳や、DNA鑑定、発掘品が明らかになるにつれ、支持者が増えてきている。1999年には韓国の加耶大学校の敷地の中に、李慶煕総長が私財を投げ打って「高天原故地」なるものを建立し、日本からも数多くの学者が参加して式典を祝っている。更には、昨年12月の明仁天皇が誕生日に「桓武天皇の生母が、百済の武寧王の子孫」という発言をした事で、「News
Week」が「天皇が結ぶ日韓の縁」と題し、この問題を大きく取り上げている。
しかし、「高天原韓国説」は古くは新井白石や藤井貞幹などが説いており、今に始まったものではない。それが公の認知を受け、着目を浴び出すのは「日鮮併合」以降である。しかし、それ以前にも、それを研究した形跡はある。横山由清・山路愛山・久米邦武・星野恒などであり、また久米邦武の回想によれば、鈴木真年もこの説に同意している。その様にみれば「日鮮同祖論」なる考え方は、1910年以降の政治的発言としてではなく、学者の定見として、成立していたと考えられなくもない。しかし、一躍、日本人の認知するところになったのは、やはり、日鮮併合以降であるところから、多分に政治的発言である事は察して余りあるといえよう。つまり「高天原韓国説」は数ある「状況証拠」の積み重ねにより、成立したる見解であり、明確に断じえざるものであると断言してよかろう。特に小磯国昭は<日本書紀>を研究し「曽尸茂梨」を江原道春川府にある牛頭山の麓の牛頭里と考えた。また<元帥寺内伯爵伝>には「同月二十一日更に漢江を遡りて春川を巡視し素戔鳴尊の降臨せられたりと称する牛頭里その他の古蹟を調査し翌日帰府せらる」とあり、寺内正毅もこの問題に関心を持っていた事が伺える。そして当時、日本人により牛頭山の山頂に「高天原由緒所定地」と書いた石碑を建てたのである。(独立後撤去される)
だが、同時にこれに反発する人も数多くいた。白鳥庫吉や津田左右吉、黒板勝美などである。これらは「神典の内容はその性質上、民族論や人種論に利用すべきではない」といった考え方であり、注目するに値する。元々、記紀とは「天皇の統治する所以を、神である祖先の代に求め」編纂された歴史書という「特殊」な理由に基づき成立したものである。それを「歴史的事実」としてみる事に無理があるのだが、これらの説は何れも「歴史的事実」として論拠している。
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