第5回世界平和に関する国際会議報告
人江 通雅
昨年12月15,16日の両日、東京の経団連会館国際会議場で、日本の世界平和教授アカデミー主催による、きわめて有意義な国際会議が開かれた。
「第5回世界平和に関する国際会議」である。そのメイン・テーフは「平和の戦略」であり、デタント(緊張緩和べの去就が注目されている現在、きわめて時宜を得た会議であったと思う。
会議には、日本、アメリカ、イギリス、韓国、中華民国、フィリピソ、シソガポール、マレーシア、タイ、トルコから、それぞれ著名な学者が出席し、わずか2日間ではあったが、われわれが望んでいる平和とはどのような平和であるのか、そしてそのような「望ましい平和」を確保するためにはいかなるアプローチをとるべきか、をまことに真剣に論じあったのである。
会議の全容は、近く世界平和教授アカデミーから英文の書籍として発行されることになっている。ここではとりあえず、ごく簡単に会議の印象を御報告させていただく。
会議はまず、ロバート・A・スカラピーノ教授(カリフォルニア大学)を議長とし、松下正寿氏 (世界平和教授アカデミー会長)の基調講演、リチャードーウォーカー教授(サウスカロライナ大学)の「平和の神話」と題する特別講演で始まった。
松下正寿氏の基調講演は、別掲の通りのもので、仲々格調も高く立派な演説であった。松下会長は、国際法学者、国際政治学者として内外によく知られているが、同時にクリスチャンとしても著名である。松下氏の基調講演について、チャールズ・B・マーシャル教授(ジョソズーホプキソズ大学)は、その発言の冒頭で、惜みない讃辞を呈していた。これに対して英誌「サーベイ」の編集長でイギリスから参加したラベッツ氏は、松下氏が平和を追求して「心の平安」というところまで到達している点については、そうした意味での平和は、世界平和を考えるわれわれの国際政治の対象外である、と歯に衣着せず批判していた。私も、松下氏の基調講演を高く評価する者の一人ではあるが、ラベッツ氏の批判については、全く同感である。心の平安とか魂の静けさ(エフィメレーヤ)とかいう意味での平和は、たとえば監獄にいれられている人にでもありうるわけで、いってみればそういった精神のありようとしての平和は、本来、政治学の対象外であると思う。心の平和は大切であるが、それは政治学の問題であるよりは、宗教の扱うべき問題であるからだ。
次に、リチャード・ヲーカー教授は、①相互理解が平和をもたらす、③民主主義が平和をもたらす、③法によってこそ平和がもたらされる、④世界政府に平和の希望を託す、④貿易によって平和がもたらされる、④軍縮によって平和がもたらされる、という考え方を神話であり幻想であるとし、それぞれについて具体例をもってそれか神話に過ぎないものであることを論証してみせた。これらの神話は、戦後日本の平和論が大なり小なり依拠してきたものであるだけに、多くの日本人にとっては、そのタブーが次々に打破られるのに衝撃を感じないわけにはいかないであろう。(ウォーカー論文は、アカデミーの提供により雑誌『経済往来』2月号に掲載されている)。
会議においても、シンガポールのショウ教授(南洋大)や日本の湯浅八郎名誉教授(ICU)は、このウォーカー・氏とは違い、依然として、国際理解が平和を増進するという信念を崩さず発言されていたようである。これに対して、私などは、ウォーカー教授と同様、相互理解の増進は必ずしも平和に役立つとは限らないという視点を、会議への論文「平和の条件としての基本的人権」の中で展開している(「平和の条件としての基本的人権」はアカデミーの提供により雑誌『自由』の一月号に掲載されている)。
またフィリピソ大学のボユファシオ教授は、平和確立のためには「闘争のイデオロギー」に替る「平和のイデオロギー」の構築が、自由圏を守るために必要であると述べたが、それに対し入江隆則教授(明治大学)は「現実に闘争をしかけてくる者がいる時、その平和の哲学がどこまで貫けるのか」と問いかけ、デタントに対する自由圏の姿勢の根本にも触れると思われる問題を提起した。
デタントについての活発な論争
ところで、米中ソの最高首脳がそれぞれの理由から交代の時期に来ている現在、それとの関連で、デタソト(緊張緩和)の行方が注目の的となっている。それに、そもそもデタソトの雲行きが怪しくなってきているのは周知のことで、たとえば昨年12月30日のインターナショナル・ヘラルドートリビューン紙は「冷戦第二期に対応する新戦略を要望する」と題するウイリアム・サファイア氏の論文を掲げていたか、その書き出しは、 「1975年とともにデタントは死んだ。第二の冷戦が開始されたのである」と断定していたし,ハーバード大学のパイプス教授も最近、「ニクソンやキッシンジャーの定義に従うとすれば、デタントはもう終ったことになる」と言い切っている。
コロビア大学のブレジンスキー教授も「アンゴラの事態をみても対決の世代が終り平和の世代に入ったというデタントについての従来の政府の説明Jは聞違っており、人を誤解させるものだった」と述べている。イスラエルのメイヤー前首相も最近「私はアメリカが何故デタントというフラソス語を使うのか理解できない。それに該当する英語として冷戦というよい言葉があるのに」と面白いことを言っている。
会議でも当然のことながら、デタソトをめぐって、種々の見解が提起された。概して言えぱ、スカラピーノ教授は、デタント支持派であり、同じくアメリカから参加したマーシャル教授、ウォーカー教授、フラソツーマイケル教授(ジョ-ジ・ワシントン大学)など、デタント警戒派と対立を見せた。だが、そのやりとりを聞いていると、デタント支持派のスカラピーノ教授にしても、決して対ソ警戒心を失っているわけではなく、あくまでもツー・ウエー・ストリートの(一方的でなく双方的な)デタントを主張しているのであり、デタント警政派と本質的に余り違いはないとの印象をうけた。少なくとも、日本でデタントを謳歌している人びとのように、手放しの、つまり一方的軍縮さえ意に介さないような、ナイー・ブなデタント支持ではないことだけは確かである。
また平和ための現実的な方法の一つとして、積極的に兵器コントロールを進めるべきだとスカラピーノ教授は主張したが、これとも無関係でない日本の核防条約批准の問題について、軍事評論家である関野英夫、角田順の両氏から批准反対論が述べられた。両氏の反対論はもちろん反米的なものではなく。日本にも核武装の可能性を残しておくほうが自由世界の安全保障上、賢明だという趣旨であった。
深刻な途上国との格差
会議が沸とうしたもう一つの問題は、南北問題であった。台湾の関中教授(政治大学)が、現在の平和の問題として東西問題が依然として最重要であると強調したのに対して、シンガポールのショウ教授は、南北問題こそ最も重要であるとして、「先進工業国と開発途上国とのギャップ(格差)が存在する限り両者の間の相互理解は不可能であり」共産側に負けてしまうと強調した。このショウ教授の考え方に対して、日本の板垣与一教授(一橋大学)は、「先進工業国と開発途上国とのギャップをなくすることなど絶対に不可能である。開発途上国は先進工業国に追いつくというようなことでなく、自らの着実な成長ということを目標にすべきだ」と助言した。これに対して、ショウ教授は。何度も反論を試みたが、板垣教授は、南北の格差を解消することなど不可能だと述べた理由を次のように説明した。 「国民所得一人当たり千ドルの国と百ドルの国とを見た場合、後者が前者に追いつくための成長率は大変なものである。
先進工業国が仮に5%、開発途上国が5%とした場合、前者は50ドルの伸びであるのに対して後者は5ドルの伸びしかない。開発途上国が50%伸びてはじめて、ギャップが広がらない状態になるのだ」。そうである以上、やはり南北の格差を解消することなど絶対に出来ないという板垣教授の指摘は、冷厳な事実として受けいれざるをえないであろう。
高坂正堯京大教授が、この会議の別のセッションで述べていたことだが「分かっていても分かりたくない」─そういった範疇に、この南北問題 も入るのかも知れない。ショウ教授はそれでも納得せず、「ギャップがなくならないとすれば自由世界の存続はない」と反論したのである。こうしたやりとりの中に私は南北問題の難しさを改めて見た思いがする。
丹羽春喜教授(筑波大学)も、その会議への論文「経済的自由の意義」の中で、自由主義経済体制の優越性と共に、その脆弱性を指摘していたが、自由世界の存続と繁栄のために南北問題への対処が死活的な課題であることは確かであろう。 (丹羽論文は、アカデミーの提供により雑誌『経 済往来』2月号に掲載されている。)
提起された多くの問題点
会議ではまた、異った文化間、国家間におけるコミュニケーッションと、そのための制度的な問題が論じられた。鈴木肇氏(評論家)は共産圏との文化交流の問題点を、加瀬英明氏(評論家)は自由圏内部のマスコミの偏向の問題点を挙げた。ジョージ・デュヴォス教授(カリフォルニア大学)は、個人的な接触で培われた「腐れ縁」こそ、アメリカが世界各地に持つ隠れた財産であると面白いことを言い、高坂教授は、自由圏における道徳的な二重基準は、力に対する弱さと自由に対する自信のなさから来ているのではないか、と指摘した。
これに対し、ラベツ氏は、「マスコミの偏向それ自体が問題なのではなく、偏向というものが、 いくつかあってそれが互いにぶつかりあうことが できるかどうかが問題である、共産圏においては 事実のただ一つの解釈しか許されていないということが問題なのである。知識は力であるからこの点に自他主義社会のメリットがある。」と述べた。
だが日本のようにその自由主義社会のメリットを生かせず、意見の多様性が浮かび上ってこないこともやはり深刻な問題というべきだろう。
また、久保田信之教授(学習院大学)は教育学の立場から「知識の増大とそれを使いこなす心とのギャッをどう埋めるかが大きな問題である」と述べ、古川哲史教授(亜細亜大学)は「マスコミ偏向 は結局そのような新聞を読む読者をつくりあげた 教育の問題であり、今後の会議では自由、個人主義、道徳教育などの問題点をもっと掘り下げる必要がある」と有益な提言をおこなった。
韓国の韓 太寿教授(漢陽大学)は、アメリカの世界的な位置の後退と日本への期待を述べ、各国がその主権を尊重した上で自己本位から相互本位で努力する必要があると説き、台湾の陳
進福教授(明治大学)からも、東洋思想、三民主義に基づく平和論が述べられた。
岡本幸治教授(大阪府立大学)も、平和の戦略を考えるにも西洋的な考えだけでなく、東洋的伝統を踏まえた捉え方が必要であるという、きわめて重要な観点を提起した。
現代の平和を考える時、これまでの世界政治を動かしてきた西欧的思考の欠陥を東洋の英知で埋めていく努力が大切だと私も考えさせられたことである。
このほか会議では、現代の平和を考えるうえで、きわめて有益な意見が種々提出されたのであるが、紙数の関係でここにそのすべてを紹介することはできなかった。アカデミー事務局から近く発行される報告書をお読みいただければ幸いである。
(産経新聞より引用)
The 5th Interenatinal Conference on World Peace (5th ICWP)
< 論 文 一 覧 表 >
(第一セッション)
松下 正寿(世界平和教授アカデミー) 平和の戦略
リチャード・L・ウォーカー(サウスカロライナ大学) 平和の神話
ロバート・スカラピーノ(UC Berkeley ) 二十世紀後期の平和の問題
アドゥールーウィチェソチャロIソ(シルバコーン大学/タイ) 平和の戦略
アーマンドFボエファシオ(フィリピン大学) 方法論・イデオロギーと平和
関 中(ジョソCクワソ)(政治大学/台湾) アジアにおける平和の戦略
粛 慶威(K・E・ショウ)(南洋大学/シンガポール) 平和の戦略
湯浅 八郎(国際基督教大学) 平和問題への新しいアプローチ
(第二セッション)
入江 通雅(京都産業大学) 平和の条件としての基本的人権
フランツ・マイケル(ジョージ・ワシソトソ大学) 勢力均衡で平和は可能か
チャールズ・マーシャル(ジョンズ・ホプキンズ大)デタソトー新しい名の下の古い冷戦?
角田 順(評論家) デタソトー過程か目標か
李 基遠(国防大学院/韓国) アジアの平和戦略
城 仲模(政治作戦学校/台湾) 平和の意味と内容
カナン・ネア(マラヤ大学/マレーシア)平和の一方式としての中立化―東南アジアの経験
関 野英夫(評論家)・倉前 盛通 核抑止力と東南アジアの安全保障
徐 仲錫(慶煕大学)・李承恩(建国大学) 東北アジアの平和体制と韓国の役割
(第三セッション)
丹羽 春喜(筑波大学) 経済的自由の意義─「優れた体制」対「強力な体制」
加藤義喜(日本大学) 日・韓・華の産業構造と経済の安全保障─デッサンを試みる─
小貫範子(東京工業大学) 共同プロジェクト
黄金茂(台湾大学/台湾) 共同プロジェクト
王昭雄(チアナソ薬科大学/台湾) 世界平和のための漢方医学の研究
(第四セッション)
鈴木肇(評論家・日本) 共産圏との交流戦略
加瀬英明(評論家・日本) 新聞批判
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落 合忠士(沖縄大学) 前衛党支配のイデオロギーは大衆デモクラシーに超克される
古 田昭作(大阪商業大学) 平和な人類社会のシステム計画について
森本 憲夫(愛媛大学) 世界経済と平和-世界経済の立場から─
金 南石(漢陽大学)(韓国) 世界平和への提言・私の平和観
金 智勇(首都師範大学) 韓国の平和統一の道と日本の努力
金 雲泰(ソウル大学) 私の平和観
金 斗煕(慶北大学) 世界平和への提言・私の平和観
金 相善(中央大学) 私の平和観
金 鏞詰(高麗大学) 私の平和観
kim Yong Min(ソウル大学) 世界平和への提言
姜 寿遠(ソウル大学) 私の平和観
文 時亭(明知大学) 私の平和観
任 慶彬(ソウル大学) 平和戦略と科学者
趙 慶哲(延世大学) 私の平和観
鄭 漢沢(ソウル大学) 私の平和観
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