文化の新しい視点

国際企業文化研究所所長 大脇準一郎

 文化は通常、「祖先から子孫へ伝承されていく固有の型」であるとして、伝統
を継承することに重きが置かれやすい。地下興しと言えば、麒麟獅子舞、傘踊り
が持ち出されるが、文化は過去だけではなく、未来への挑戦、未来の創造である
ことも忘れないでほしい。今、世界の若者たちを席巻するアメリカ文化は、ヨー
ロッパの伝統文化をかなぐり捨てた人々によって生み出された新しい未来文化で
ある。

 文化論の論客、日下公人氏は、文化の伝統よりは「遊び」(喜び)を強調する。
商業主義にあおられたワン・パターンの遊び、パチンコ、マージャン、赤提灯で
家庭不和の原因となっているのを見るにつけ、新しい「遊び」を創造してもらい
たいものである。 文化は百人百様の定義が出来るであろうが、「環境に対する
人間の自己実現」であることに変わりない。そこで問題になるのが、古来からの
難問「人間とは何ぞや?」にぶつかるのである。今日まで、ホモ・サピエンス、
ホモ・ファーベル、ホモ・ルーデンス等々と言われて来た。最近、ある臨床医は
人間の幸、不幸に影響を与える三大要素として、ふれあい(親密性)=50%▽
達成感(仕事の効果)=40%▽安らぎ(セルフ・アイデンティティー)=10
%という統計データを発表している。 文化を考える場合、見逃してならない三
つ目の視点は、国際的視野である。伝統志向型の孝心文化の韓国、未来志向型の
正直文化の米国に対して、日本は現実指向型の調和(アコモデーション)型の忠
誠文化である。日本は集団としてのパワーはあっても、歯止めがきかない。組織
マンになり過ぎて、人間性を失いやすい欠陥が指摘される。

 百余年前、日本はいち早く西欧物質文明を取り入れ、近代化を成功させ、帰す
刀で伝統に固執したアジア諸国を侵略した。しかし、日本人の奢りは、未曾有の
敗戦により見事に打ち砕かれたのである。戦後、わが国は西欧に追いつき、追い
越せとの経済至上主義の国策を遂行し、経済大国となった。

 しかし再び、日本人の傲慢性を憂える声が、心ある知日家たちの中にあること
を忘れてはなるまい。 われわれは、西欧の圧倒的科学技術力を生み出した文化
的伝統、合理主義、経験主義、個人主義、自由民主主義を謙虚に見つめるべきで
ある。「三人行けばわが師有り」と古人の教えにあるごとく、一人よがりを捨て
て、謙虚に他国の文化に学び、他国の短所は他山の石、教訓として学ぶような、
心の広さが求められている。

 これからの時代は地球文化の時代であり、地球的視野から見て、残る文化あり、
消えて行く文化がある。そして、異文化の交わりの中から、新しいグローバル・
カルチャーが生まれてくるであろう。それは、人間性(ふれあい、達成感、安ら
ぎ)が自在に発揮される、真の自己実現の文化であることは確かである。(鳥取
市)1994年5月10日(火)日本海新聞、『潮流』


シンクタンク設立に望むこと

              国際企業文化研究所所長 大脇準一郎


 現在を良しとし、それを変革する必要がないと思うところに、シンクタンク
(“知の戦車”)は必要ない。今秋、鳥取にもシンクタンクが設立されると報道
されながらも、トーンがダウンしている。地方公共団体を中心とする第3次シン
クタンクブームのせいだけであったのであろうか? 20年来、東京・ワシント
ンでシンクタンクに関わった一人として、感じることを述べたい。

 シンクタンクは、第3次産業(サービス業)に属する知識産業の一分野である。
原材料は材料として加工され、さらに製品化されることによって、初めて市場の
ニードを満足させることができる。資料も情報化され、さらに体系化された知識
となることによってこそ、役に立つ。 「新聞(外国紙を含めて)情報を丹念に
分析することだけで、90%は読める」と、国際戦略問題研究所(英国)は言い
切る。組織工学研究所の糸川英夫氏、中国問題研究家の桑原寿二氏も、自ら新聞
記事をファイルされる中で、事物の本質が見えてくるそうだ。読者諸氏も実験し
てみられてはいかがなものであろうか。

 ワシントンには百余のシンクタンクがある。中でも、プルキングズ(民主党系)、
アメリカンエンタプライズ(共和党系)が有名である。また、影響を与える対象
(政策形成者)に焦点を絞って、ヘリテージ財団(保守系)はタイムリーな説得
活動を展開している。いずれも、行政を政府外の大所・高所から見つめて、提言
している。

 米国は軍事・国際問題を中心とするシンクタンクが多いのに対して、日本では
国土開発・経済・産業問題が大半である。また、米国では政府・大学・シンクタ
ンク間の人的流動が激しい。しかし、日本では70年代当初、相互間の交流はほ
とんどなかった。 80年代初頭、われわれが政策研究グループ「80年代ビジョ
ンの会」(のちに、ビジョン21世紀の会と改名)を設立したのも、自民党政府
と大学界との障壁に風穴を開けることに狙いがあった。シンクタンクは需要者の
ニードを正しく把握して、定められた期限内に知識を加工し、製品として納入し
なければならない。時間との戦争の政界のニードと、厳密性を要求する学会のニー
ドとをドッキングさせることは、当初、至難の業であった。 これからのシンク
タンクに望まれるのは、国際性、総括性、長期展望性であろう。

 先日、ビジョンの会の常連であった竹村健一氏が来鳥し、“5千メートル滑走
路を!”と、21世紀へのロマンを語った。この夢が政策提言とされるには、他
国から見てどうなのか、ハード面のみならず、政治・経済・文化を含めた全体の
中で、なぜ5千メートル滑走路なのかの説明がいるであろう。

 もう一つの例を挙げよう。40年ぶり、北条町へ還故郷された元和歌山県農業
学校長の目に映った鳥取。「つばめ、蝉、蛍、蛙の鳴き声もない。河にはメダカ
もフナもいない。」一見、緑豊かな自然に見えるが、死んだ自然だ。自然に面白
味、深みがなくなった」。全県公園化構想も、自然の生態系のバランスを壊さな
いように気配りされなければなるまい。

 そうでなければ、何の魅力もない大都市のイミテーションに過ぎなくなってし
まう。何よりも、童謡のふるさと鳥取の『ふるさと』『朧月夜』の歌も虚構となっ
てしまい、鳥取の最大の魅力を失ってしまうであろう。 このように、シンクタ
ンクの提言は、広い国際的視野の中で、あらゆる分野から検討された整合性のあ
るものでなければならない。鳥取にも、県政を大所・高所から眺めて、真に県民
に貢献できる自主独立、よりオープンな知的源泉となるような、シンクタンクを
期待したい。(鳥取市)1994年(平成6年)8月2日(火)、日本海新聞、『潮流』


  鳥取とシンクタンク
                     国際企業文化研究所
                        所長 大脇 準一郎     
情報化時代と鳥取

鳥取県は農業をはじめ林業、漁業が盛んで今も第一次産業が主流である。わが国
も江戸時代までは鳥取と同じであったが、逸早く工業化を進め、第二次大戦後、
植民地を失ってもなお江戸時代の3倍もの人口を養って余りある豊かな国となっ
た。このことは第二次産業(工業)、第三次産業(サービス業)の発展と関係が
ある。価値は単なる物の生産によって生まれるのではなく、需要(消費者の要求)
を満たす効果量によって決定する人間の手(工業)、足(運輸)、神経(情報・
通信)から頭脳や情緒をも代行する産業(コンピューター・ファッション・生命
保険)が発展して来た。情報化社会の到来はその典型的な例であるが、鳥取にお
いてはこのことがよく認識されていない。

情報の価値
マンハッタン(N.Y)は巨大な摩天楼が聳え立つ街であるが、生産工場は一つも
ない。資本という怪物が情報を食べて自己増殖している戦場である。野田一夫氏
(日本総合研究所理事長)はアイディア一つでニューオータニの敷地内に8階建
てのビル「ザ・フォーラム」(知的交流の広場)を建て年間1億円以上の純利益
を挙げた。情報は時には国家や企業の存在を決定する程の絶対的価値を持つもの
である。情報は新聞や雑誌等、一般情報からも収集できるが決め手は人脈情報で
ある。情報は読んで字の如く、最もホットな情報は人の心の中にある。これを逸
早くネットワークして引き出すことが出来る人が情報化社会をリードする。社会
科学系の大学や研究機関が少なく、自由な人的交流の機会の少ない鳥取はこの点
不利である。

シンクタンク
第三次産業の一分野である知恵のサービス機関であるシンクタンクは1950年
代米国に誕生した。現代社会のガバナビリティに対する疑問、変革の必要性を感
じ、何らかの変革のビジョンを持ってこれを実現しようとする選択枝を提供する
知の生産機関が、シンクタンクである。鳥取県内にある最大の「企業」は年間4
000億近い金を使い、1000人余りの従業員を抱える県庁であろう。ある市
長は「行政機関は最大のサービス機関である。」と謳っている。収入源の7割近
くを国や大都市住民に依存している「企業体」として県庁職員は鳥取県のみなら
ず、国や大都市住民の要望にどれ程答えているだろうか?

鳥取の風土
米国カリフォルニア州においてコンピューター産業が花開いたのは一高校生でも
大会社の会長に電話してそのアイディアが生かされる対等対抗、独立、知的競争
を尊重する社会的風土があるからである。この点城下町、官尊民卑の因習の強い
鳥取は不利と言わざるを得ない。「鳥取は全国で何番目に住みよい県」と自己満
足していては発展がない。飛躍的発展、変革は危機感から生まれる。第三次産業、
消費者主体の時代にあって、消費者のニーズに答えられない企業は倒産する冷厳
な事業に目覚め、鳥取の危機を認識することを行政機関の職員に期待したい。個
人の独立意識、ボランティア精神の土壌のある米国でシンクタンクは誕生した。
わが国も65年代からシンクタンクが設立され74年は半官半民のNIRA(総合開
発研究機構)が設立された。NIRAの研究助成によってわが国にもシンクタンクが
育成されていった。鳥取県においてもNIRAの鳥取県版として民間シンクタンクを
助成、育成するシンクタンクの設立が望ましい。市民一人一人のアイディアを対
等な立場で尊重し、オープンにアイディアを競わせる。自由な雰囲気づくりこそ
シンクタンク発展の土壌である。

最後にシンクタンクの成功にとって決定的に重要と思われることはニーズ(欲求)
とシーズ(種子)を結ぶことである。どこにニーズがあるのか?そしてそれを満
たすシーズは何なのかこれを点検し、県内に無ければ県外、国外からでも持って
来てどうつなぐかを考えることである。長年学界と政、財、官、マスコミ、教育
界等各界のパイプ役として「学問の社会的還元」に努めて来た一人として、シン
クタンクは仲人であり、相方に共存共栄をもたらすものであると言える。

平成6年8月25日 旬間 政経レポート

 鳥取の活性化と大学設置
                         国際企業文化研究所所長 尾脇準一郎

鳥取に大学誘致を計って十五年、何故実現しないのであろうか? 誘致に成功し
た市に比べて、資金の準備、市・県議が大学側へ日参するほどの熱意に欠けるこ
と、来る大学側の立場に立った、消費者オリエンテッドな発想に欠けることであ
る。この点、三年前、鳥取市調査レポートで国土庁長官賞を受賞した宮寺氏の指
摘、「鳥取市民気質を引っ込み思案の殿様商売と見た。これが地域活性化のガン
であり、この点を直さない限り、観光開発、企業誘致どれを行っても、うまく行
く保証はない」との指摘は、正鵠を得ている。この打開策は? 「なぜ今、大学
設置なのか?」

先ず、そのニードを分析することである。昨年、隣の島根県には、職業訓練大学
校準備中を含め、三つの大学が、新潟では、今年四つの大学がそれぞれ開校した
が、付和雷同、手前勝手な発想を厳しく分別して、使命感にまで昇華するような
ニードを探るべきであろう。小生は三年前、地元の諮問を受け、鳥取の弱点を長
所に変える“逆転の発想”とも言うべき、“国際社会のニード”に答える「国際
協力大学(国際職業訓練学院)構想」を発表した。当時、外務省筋、国際貢献の
必要性を痛感される全国の有識者から、ご賛同を頂いたことを申し沿えておきた
い。 まず、市・県政に願うことは、大学の位置付けである。鳥取市の予算配分
を見ても、老人福祉に偏っており、これでは若者で賑わう街づくりは、「夢のま
た夢」であろう。

 大学は、教育、研究、奉仕を使命とする。大学は未来社会への対備、生涯教育
のセンター、コンサートなどの市民のイベント、交流、憩いの場、国際交流の最
も有効な拠点でもある。米国では、大学生中心の学園都市がいくつもある。 大
都市からの借り物イベントも、受け皿がない限り、地元に文化、情報、知識は根
付かない。多くの優秀な人材も、その優秀な技能を地元に還元できない。大学は
この受け皿でもある。

 東京で数十年、大学界に携わって、多くの大学の浮沈を見てきた。大学設立に
は、人とビジョンと資金がかみ合うことが必須である。その中でも、大学設立の
教育的使命感に燃えるキーパーソンの存在が最も重要である。 70年代初頭に
設立された筑波大学は、高度経済成長下の日本で、大学紛争、田中政権、東京教
育大の移転という社会情勢の中で、「国際A級の大学を!」という福田信之マス
タープラン委員長を中心とする教授たちの、憂国の情、教育熱から生まれたもの
であった。金も政治も、志あれば付いて来るといった“気概”が重要であること
を、筑波大や新潟の国際大学の例は教えている。先日亡くなられた宮崎正雄先生
(筑波大学参与)は、根っからの教育者であられた。最後にお伺いした折、政治
の話はかけらもなく、ただ教育者としての心構えを、時間を忘れて遺言の如く語っ
てくださった。先生のご冥福を心からお祈りしたい。 (鳥取市)
                   1994年4月22日、日本海新聞『潮流』


大学の地球社会の貢献

7月12日より神戸市国際会議場において、第10回世界大学総長会議(IAUP)が
開催された。今回は49カ国620人(うち海外400人)の参加者。3年に1
回開催される同会議は本年で満30周年を迎え、日本で開催されるのは、初めて
である。 開会式には、地元兵庫県550万人を代表して貝原知事、地元大学を
代表として鈴木神戸大学長の歓迎の挨拶のほか、主催国である日本国を代表して
数名の祝辞があった。高円宮殿下は流暢な英語で21世紀へ向けての国際協力、
国際教育の重要性を訴えられ、森山文部大臣もまた、日本国政府の文教政策、国
連大学への協力の実情を驚くほど流暢な英語でスピーチ、“国際国家日本”の面
目躍如の感があった。

 政治家として最も大変な折、選挙を犠牲にしてこの会に駆けつけた海部前首相
は「今はただの人であるが、当選した暁には、皆さんの討議の成果を政治に生か
したい」と述べ、さらに海部氏は先日のクリントン氏との会談に触れ、「今や1
300億ドルもの貿易黒字を抱える日本は、内需拡大と輸入を増やすことにおい
て、途中経過でなく、結果がほしい!」とクリントン氏から強く要請されたこと
を披露。

 また、「日本の地球的貢献は黒字減らしのほか、今回のテーマである平和、軍
縮、環境問題があるが、今日は地球環境問題に絞って述べたい」と前置きし、
「環境問題の解決に、西洋の二元的発想に対する“東洋的共生の哲学”の導入の
必要性」を訴えた。

 次いで基調講演に立った元文部事務次官の天城勲氏は、大学の本質的機能は
「知識の獲得(研究)」「知識の伝達(教育)」「知識の活用(奉仕)」の三つ
であるとして、外の国際化(諸外国との連携)、内なる国際化(留学生から学ぶ)
に努めるべきであると強調した。また、国連大学のグルグリーノ・デソウザ学長
が、グローバル・ネットワークづくりにおいて、IAUP(世界大学総長協会)と国
連大学の強調の必要性を強調、ユネスコ傘下の国際大学協会を代表して森旦氏
(元東大総長)が、同協会の活動を報告した。

 会議は14日まで行われたが、20世紀の世紀末、東西の冷戦構造崩壊、進歩
と発展から環境破壊の進む中、地球的規模の危機の解決へ向けて大学人が、その
頭脳を結集して、主体的に取り組む姿勢に感銘を覚えた。

 10年前、神戸は、ボートアイランド構想を進め、山を削って倉吉市規模の小
都市を現出した。そそり立つ近代的構想ビルを見ながら、人知の偉大さと、世界
の碩学を集めて謙虚に学び、さらに一大跳躍を図ろうとする神戸市の意気込みを
感じた。 情報化、国際化の進む世紀末にあって、取り残されないように鳥取の
行政と教育界に一大奮起を促したい。
(鳥取市片原町、国際企業文化研究所所長、大脇準一郎)
              1993年(平成5年))8月、日本海新聞『視点』


 
地方活性化のキー・ワード
                        国際企業文化研究所所長 大脇準一郎

▽ 文化の時代
個人の心理発展段階において、マズローは五段??(生理的要求、安全、??、
評価、自己実現)を述べている。産業の発展においても、第一次(農・林・水産
・鉱業)から第二次(工業)、そして第3次(サービス)産業へと移行している。
国家においても、経済大国から政治大国、そして、文化大国たれと叫ばれるよう
になった。価値は原材料から機械生産、そして人間的価値(文化)へと確実にシ
フトしている。 その一つが、EC諸国の動きである。彼らは日本の高品質、高能
率、安価な工業製品に対抗して、ヨーロッパ固有の文化を付加して、製品を売り
出している。「人間は意味を求める動物である」(フランクル)と言われるよう
に、自らよって立つ基盤、アイデンティティーを求めずにいられない。その意味
で、「人間は文化的動物」である。

 文化は、学問で有れ、芸術で有れ、スポーツであれ、文字通り人が為すもので
あり、人間が最大の価値の源泉である。文化は余暇から生まれ、遊びの中から生
まれる。これからの産業は面白く、??化することだ。鳥取と言えば、山と海、
農業、砂丘、??といったことが??されるが、これらをいかに文化するか、と
いうことが課題となろう。

▽ 国際化時代
 現代は国際化時代と言われ、相互依存の時代である。このような時代にあって、
手前勝手なお国自慢だけしていたのでは、時代から取り残されてしまう。文化は
自己や郷土に誇りを持つことにあるが、これが相手、他国から見てどうなのか?
 いったんは「否定」を通して、自文化を見つめ直す。そこから、個性的であり
ながら普遍的な側面が見えてくる。ただ、その背後には、「自己と自文化の否定」
という苦しいトンネルを抜けなければならなかったのであるが。 人種(血)や
皮膚の色、職業や性格など、差別の歴史を辿ってきた人類は、今や「自己否定と
愛」により、相手の立場に立つことを迫られている。来年完工予定の童謡舘やお
もちゃ博物館も、行政??だけでなく、ぜひ児童の立場からの発想が生かされる
ことを期待する。

▽ 企業性

 科学技術の時代でもある現代は、変化とスピードの時代でもある。新しい情報
・知識を収集・分析して、対象を適正に主管できなければ、時代の加速的変化に
対応できなくなってしまう。 「行政は最大のサービス産業である」と岩?常人
氏は訴える。氏は、個人としてもサービス精神あふれる方である。ニューヨーク
時代、氏はメリル・リンチの上席副社長と言う多忙な地位にありながら、一訪問
者に過ぎない小生のような者に対しても、会った翌日には、膨大な執筆記事をコ
ピーして届けてくださった。市長に就任されてからも、一市民の願望を鋭くキャッ
チして、システムとして素早く実現されている。  ×   ×   ×

 以上、述べた三つのコンセプトを見事に実践されているのが、岩?氏であろう。
氏に限らず、この三つのキー・ワードを、独自に、相互的に、あるいは統一的に
適用することによって、地域活性化はもたらされるであろう。 その良い例が登
美町である。先日、澤田慶三、美喜夫妻の業績を村おこしに生かそうという試み
が、NHK出報道された。沢田慶三が岩美街出身ということを、文化的アイデンティ
ティーとして、元国連大使としての氏の国際性、美喜夫人のエリザベス・サンダー
ス・ホームに見られるボランティア精神を、村おこしの原動力にしようというの
である。後残る課題は、誰のニーズ(要求)に、どう答えるか。シーズ(??)
との結び付け、すなわち、“企業性”であろう。
(鳥取市)1994年(平成6年)8月31日、日本海新聞、潮流


ジゲおこしの新座標軸
                     国際企業文化研究所所長 大脇準一郎

 大西洋時代から太平洋時代へ、そして環日本海時代へ! この推進力は科学技
術力であった。今日、わが国を始め、NIES(ニーズ)諸国は、技術力を基盤とし
た経済発展の著しい成長のゆえに、注目を集めている。現代人の生活に欠くこと
のできない科学技術は、かつての人類と違って、われわれにコペルニクス的世界
観・価値観の転換を迫っている。しかし、その変化があまりにも急激であるゆえ
に、国の指導者層さえその変化の本質を洞察することが出来ず、立ち往生してい
る状態である。 前者の世界観の転換の要請は、交通・通信輸送の発達により、
地球が一日生活圏で結ばれ、地球家族、宇宙船地球号の認識、人類運命共同体と
しての自覚が高まってきたことによる。真の国際化とは、この地球市民としての
世界観を共有することであって、日本の政治・外交には、このグローバルな世界
観が欠落していることが問題なのである。

 後者の価値観の転換は、科学技術文明のもたらす、おもにマイナス面から要請
されているものである。環境破壊、核の脅威、富の偏在、非人間化など。特に非
人間化の弊害は、既に“西洋病”として指摘されてきたことである。 わが国の
近未来の出来事でもあることは、「世界若年意識調査」(1993年)が示して
いる。「どんなことをしても親を養う」が、比80.7%、韓国66.7%、米国でさえ
62.7%であるのに対して、日本は22.6%。自国のためには私の利益を犠牲にして
も良い」も、泰90.5%、韓44.7%、米36.7%に対して、日本11%である。
 このデータは、科学技術文明の最も成功したわが国において、その負の面が顕
著に現れていることを示している。愛と言い、援助と言い、者だけで済まそうと
する最近の傾向は、決して子供からも世界からも感謝されていない。 その典型
的な例が、湾岸戦争に対するわが国の協力姿勢である。当時、日本は総額130億
ドル(1.7兆円)という、ODAの年次援助額をはるかにしのぐ援助(世界分担の2
割強)を迫られた。1991年3月、クウェートは米国のマスコミに感謝の全面広告
を一斉に掲載した。しかし、「ありがとう米国、そして地球家族の国々」の30カ
国の中に、最大の経済援助国日本の名前はなかった。チェコやアフリカ諸国の国
々はあっても、である。これは血の通った人的協力、協力の精神のなきところに
尊敬はないことを示している。

 ものの豊かさにおぼれ、心を失いつつあるわが国であるが、幸い、隣の韓国や
中国をはじめ、アジアの諸国には親を尊び、そのために行きようという“忠孝の
精神”が生きている。今こそ、わが国は近代化130年の歩みを反省し、アジアに
帰り、東洋の精神的伝統と西欧の物質文明を融合した、新しい価値観を樹立すべ
きときである。

 そして、アジアの近隣諸国と共同して、21世紀の地球市民の在り方を問い、ア
ジア重視の外交・政治・教育を実践すべきである。地域の活性化も、このような
グローバルな文明的視座から発想することにより、ユニークなビジョン、活力在
る提言が生まれてくることであろう。
                 (1994年7月4日「潮流」日本海新聞 鳥取市)


    まず内なる国際化を   
        平成6年11月25日   国際企業文化研究所
                                 所長 大脇 準一郎

差別問題の国際的次元

先日、差別と偏見のない社会を目指す「日韓フォーラム」が鳥取県民文化会館で
開催された。朝鮮の被差別民ペクチョン(白丁)は、今日では消滅したというこ
とに対する国際理解を深めることに会の趣旨があったようだ。ところで会のあり
方に疑問を抱いたのは私一人ではなかった。会が終わった直後、多数の在日僑胞
の方々が民団団長に「差別問題を取り上げてくれなかったのか?」と詰め寄る光
景が見られた。今日、我が国には400万人弱の一時入国者、在日外国人も同和
人口を上回る122万人が存在する。この外国人達が有形、無形様々な差別を受
けていることが意外と知られていない。制度上の国際化は日米摩擦、ウルグアイ
・ラウンド等で比較的よく取り上げられるが、問題は心(意識)の国際化である。

 日本人には欧米に対する劣等感(卑屈)とアジアに対する優越感(傲慢)があ
り、この日本人のダブル・スタンダードは欧米の声には過敏に反応するがアジア
の声を無視する傾向となって現われている。

在日僑胞の訴え
 在日外国人の中で実に57%が韓国、朝鮮人である。これらの人々の大半は永
住者であり、日本の不幸な歴史の犠牲者である。

 彼らは願わずして日本に強制連行され、帝国臣民として酷使された人々および、
その子孫である。これらの人々に対し、我が国は自分の都合が悪くなると国籍条
項で日本人から排除し、無保証の生活に追いやった。その後、難民条項批准に伴
い外国人にも適用されるようになったとはいえ、当時60歳を超えていた高齢者
は除外された。鳥取県でも26名の高齢者の方々が今も無年金者である。

 我が国は今も地方公務員、教諭の採用において在日外国人に固く門戸を閉じて
いる、就職において在日僑胞の差別問題は深刻である。

 欧米諸国では3年以上滞在する全外国人に地方自治体の選挙権、被選挙権を与
えることが常識化しつつある。スウェーデンでは実に100人以上の外国人県議
が活躍している。 以上の数項目の国際化の要求は、民団側が長年要請してきた
ことであるが、行政側の反応は鈍い。日本はもうそろそろ脱亜入欧の近代化の夢
から醒めて、アジアの一員としてアジアの声に耳を傾け、アジアから尊敬される
国際国家日本を目指す時ではなかろうか。


まず日韓の国際理解教育を

 今やボーダレスは物だけではなく、人の移動においてもいえる時代となった。
転勤や留学、国際結婚が増えればなおさらである。このような国際化時代におい
て求められるのは、日本人の心の国際化である。民族的排他性を克服して、地球
市民としてあらゆる人種、民族を受け入れる雅量が問われているのである。未来
の世代が異なる文化に対する尊敬心を持ち、自文化に対する誇りを持てるような
国際理解教育が今、求められている。このことが最も必要なのが、とりも直さず
日韓関係においてである。


同和問題の国際化

 今回のフォーラムのように、同和問題の推進者達が国内だけでなく国際的視野
を広げられていることは喜ばしいことである。願わくばさらに一歩進めて、差別
と偏見で同じく苦しんで来た同法が国内外にいることをさらに勉強され、幅広い
国際連帯のもと、地球上から差別と偏見のない真の平和世界の実現を目指す普遍
的運動に昇華して下さることを希望する。

 そのための橋頭堡として、まず内なる国際化、日本最大のお客さんである在日
僑胞70万人人々の差別、偏見問題解決のために共闘されてはどうであろうか。
今回がその出発点となれば幸いである。
旬刊『政経レポート』1994年(平成6年)11月25日


教育目標の大転換を

               国際企業文化研究所所長 大脇準一郎

 外務省はわが国が国際協力をしなければならない理由として、(一)先進国と
しての道徳的義務(二)資源のないわが国は国際協力なくしで生存できないとい
う総合安全保障上の理由(三)市場の確保ための自由貿易、民主化の支援(四)
国際社会への恩返しーの四つを挙げ、国際協力にも、(一)物資の援助 (二)
人的援助 (三)教育的援助の三段階があり、今後は援助対象国自体の人材育成
が最大の課題であると見ている。

 したがって国際協力の成果を挙げるためには、従来の(一)政府の財政支援だ
けでは不十分で、(二)地方自治体の現場のノウ・ハウ、(三)民間の迅速な行
動力、(四)マスメディァによる世論の喚起の必要性を挙げている。しかし、教
育機関の人材養成の必要性を取り上げていないのはどうしてであろうか?今日、
日本経済発展の第一の要因である教育力(人的資源)の開発≠もって世界に
貢献すべきではなかろうか? ところで日本の教育の成功は同時に世界に摩擦と
批判をも生み出している。一人勝ちの世界から国際社会との調和、コミュニケー
ションが、今日本に求められている。このためには第一に教育目標の大転換が必
要である。即ち、就職のための教育から国際社会に役立つ教育への転換である。
このことは、知識詰め込み型の教育から情操豊かな文化教育、奉仕の喜びを体験
させる実践教育の三つ、知・情・意のバランスのとれた全人格的教育を意味する。

 教育が変革するためには企業が海外ボランティア経験者を優遇する雇用制度、
新しい企業倫理を確立する等、企業側の変革が求められている。又、この企業の
変革のためには、企業の社会貢献に弾みをつける税制優遇措置、法的規制の簡素
化を図る、大蔵をはじめ、各省庁の行政改革が必須である。政府の重い腰を上げ
させるためには、国民の自覚、世論の喚起が必要であり、そのための有識者、政
治家等のりーダーシップが求められているのである。最近の一連の官僚汚職事件
は、早く「官尊民卑」の悪習から抜け出よ!との天の警告である。ある経済専門
家の試算によれば、特殊法人だけ解体させるだけで、消費税を取らなくても余り
があるのである。

 教育に求められる第二の大転換は従来から言われていることではあるが、語学
教育の改革である。人は生まれればまず目で「見」、耳で「聴き」そして物真似
して「話」をする。文字を覚えたりするのはずっと後のことであり、文法などは
最後である。ところが、わが国の外国語教育は「読む」ことを「文法」から始め
る。ヒヤリングやスピーチは後の後である。このような自然の法則に反した語学
教育の成果を望むのは「百年河清を待つ」のたぐいである。先生が「話す」こと
も「聴く」ことも出来ずしてどうしてそれ以上を生徒に期待することが出来るで
あろうか?文部省の国際化、外務省との連繋が鍵である。

 教育改革の第三のポイントは教室内での純粋理論の教育から、現地教育(フィー
ルド・エデュケーショーン)の重視である。ここから、現実は理論通りには行か
ないこと、現実対応能力が啓発されることであろう。情報、通信、交通手段の発
達した今日、地球は一日圏、一家族である。ローカル、ナショナル、グローバル
な地域の垣を自由に越えて、移動しながら、現場を学ぶことこそ、新しい国際化
時代の教育の方向でなければなるまい。本年がそのような教育の大転換の年、そ
して希望あふれる新生日本の出発を記念する年となるよう祈念しながら、新年の
御挨拶といたします。
(「私の教育論」『政経レポート、旬報』)平成9年1月5日、第663号

「子供の教育については、勉学の欲望と興味とを喚起することが一番である。
    でないと結局、本を背負った驢馬を養うことに終わる。」 モンテーニュ

「日本を改革するには、2個のダイナマイトがある。即ち、学校と教会である。」
                                      新島 襄


キブツと本稿の著者について


「私の信仰とパレスチナ問題」の著者、アズリエル・ナティーブさんは、キブツ、
ニールデビットのメンバーである。キブツではファーストネームを縮めてアズイ
と呼ばれている。1990年代、全国の村造りのリーダーの方々と何回かイスラエル、
キブツ研修に通訳として同行した。1995年、5月、ニール・デビットを訪問した
折、小生は、キブツの1人、アズイと宗教問題、中東問題についても、突っ込ん
だ議論をした。そのとき、時間切れになった点につき、アズイ氏は下記のような
文章を送ってきた。時間の無い小生に代わって翻訳・タイプをしてくださった百
瀬・安東両氏に謝意を表したい。ここに公表するのは、今回、歴史的な平和行進
・大会が開催されるに当り、ユダヤ人の人々がどのような気持ちでいるかを少し
でも参考になればと思ったからです。 日本ではいつも天気が気になるように、
中東では平和が最大の関心です。それゆえ挨拶も「シャローム(平和を)!」で
す。

神様の創造目的、蕩減という観点からみないアズイの見解は、さもありなんと考
えさせられる所がある。キブツの人々は、少数の宗教キブツを除いて、一般に非
宗教的である。けれどもみなが皆、信仰と無縁であるかというとそうでもなく、
アズイのように聖書の教えに基づいて「イスラエルは土地を犠牲にせよ!」と主
張する人がいたりする。大学教授夫妻や医師、建築技師といったインテリもおり、
皆はっきり自分の意見を持っていることが印象的だった。

最近、中東情勢、テロも納まらず、さらに緊迫した昨今ですが、貫けるよう空の
青さの背後に宇宙的な神の愛がさらに近づいているのを実感します。真の平和は
近い!!12月18日から23日、一連の中東における平和大会の大成功をお祈りしま
す!!    2003年12月16日記

キブツとはヘブライ語でグループを意味し“生活共同体”と訳されている。イス
ラエルでは、生産・所有・消費・生活の共同化された独特の村造り“キブツ”が
栄えている。一つのキブツは、人口500人前後で約300のキブツが全土に散
在している。イスラエル人口500万の3%(15万)に満たないキブツが、国
の農業総生産の40%、工業品の7%以上を生産している。どこのキブツも果樹
園、小麦畑、綿畑、畜産、養殖から付加価値の高い大工場(プラスチック、ラベ
ル、ジュース、金属加工)を持っており、さらに最近ではサービス産業(観光、
ホテル、レストラン、プール)に進出している。またキブツは平均5〜600ヘ
クタールの土地を国から借りている。95年5月、われわれが宿泊したキブツでは、
この広大な土地を利用してオーストラリア動物園をこの秋から開設する計画が進
行していた。 金回りの良いキブツは人気が高く、メンバー志願者が列をなして
いる。しかし、全体的には激動する国際変動に対処して行くのは容易なことでは
なく、経営に苦労しているのはどこの集団でも同じである。

 今回イスラエルから学んだ教訓を2つだけ述べておきたい。一つは「国を忘れ
た民は滅びる!」ということである。半月振りに日本に帰って見てウンザリした
のは、相変わらずのオウム事件の報道である。世界には色々な問題があり、日本
が今何を為すべきか、問われても良いと思うのであるが、オウムの事件報道から
何が得られるというのであろうか? ただ国民に暗雲を投げかけるだけではない
のか? おまけに「不戦決議」の国会採択、言葉の弄び、党利党略が先行し、そ
こには国を担う重さが感じられない。1936年、監視塔、防柵付のキブツ、ニー
ル・デーヴィットが一日にして完成された。この方式は全国に広がった。この頃
ナチの大虐殺を逃れてキブツが急増した。1948年、イスラエルの建国もまた、
容易ではなかった。建国のお祝いをしている最中、周辺のアラブ5カ国が一斉に
攻めかかり、イスラエルは奇跡的に勝利を収めた。以後5次に渡る戦争の後、イ
スラエルが占領したゴラン高原(シリア)、ウエストバンク(ヨルダン)を返還
するかどうか今も国際問題となっている。ゴラン高原は高さ400メートル、ガ
リラヤ湖から水を上げ農業、牧畜をやっている3.4万人人口、35の集落がある。

 ゴラン高原のキブツに住むデーヴィト君は米国からイスラエルの軍隊に入隊
(イスラエル人は3年間の兵役の義務がある)、除隊の後イスラエルの前線を守
るためにキブツに入植したという。かつてイザヤ・ベンダサンが「日本人は水と
安全はタダだと思っている」との名言を吐いたことを憶えておられる方も多いと
思う。国が滅びるということがどういうことなのか、幸か不幸かわが国はたった
一度の敗戦、占領軍の歴史上かつてなかったほどの寛大な占領政策によって、か
えって経済的にはかつての保護国、米国を脅かすまでになった。国の守りを米国
に肩代わりしてもらい、自衛隊は軍隊ではないと苦しい言い訳しながら、補完的
防衛を行っている。

 今、わが国に問われているのは国の誇り(アイデンティティー)、愛国、そし
て国防ではなかろうか? このことはかつての偏狭なナショナリズムへの回帰や
軍備拡張をいうのではなく、万国から歓迎される国家、国際情報を含めたソフト
重視の総合国家戦略の確立を意味することは言うまでもない。貧困の中で両親の
苦労を見て育った世代は、家庭や父母の尊さを知っていた。しかし、豊かさの中
で甘やかされて育った世代には、自分勝手な行動が多い。国の守り、家庭の守り
も、今その屋台骨を失っているように思われる。 第2にイスラエルから学んだ
ことは村造りのあり方である。車道を村中に貫通させたことは日本の国土計画の
大失敗ではなかろうか? 老人や子供が車にひかれたという報道を聞くにつけ、
当人や運転手の責任もさることながら、行政側にも多少の責任がないとは言えな
いであろう。キブツでは子供達が自由に羽を伸ばして遊んでいるし、老人は自転
車、手押し車、電気自動車で悠々と行き来している。キブツは全体が一つの広大
な公園で花は咲き乱れ、小鳥はさえずり、この世の花園である。食堂を中心とし
た芝生、あるいは街路樹、それぞれのキブツの景観には特徴があり、それぞれの
文化を誇っている。

 コンクリート詰めの地域開発の進むわが国であるがであるが、是非キブツを参
考にされることをお奨めしたい。 確かに飽食の時代の政治は難しい。多様な大
衆の欲望をどのように集約して望ましい方向に導くことができるのか? あるい
は大衆の欲望のままに漂流して、かつてのギリシャやローマのように瓦解して行
くのであろうか? 諸先輩の御高見を賜れば幸いである。旬刊
『政経レポート』1995年(平成7年)7月5日大脇記

「私の信仰とパレスチナ問題」アズリエル・ナティーブ(Asriek Nativ)

私の信仰

 私は神を信じています。宇宙創造の神、万物創造の神としてです。
  しかし、神が全能な、神聖、冒すべからざるものとは思えません。もし神が
そのようであったとしたら、地上に悪をはびこらせることなどなかったでしょう
から。 私が神を信ずるのは、神の手が働いたとしか説明のしようのない数々の
経験があるからです。

 しかし、逆に祈ることは無益なことだと思っています。神はホロコーストやそ
の他のむごたらしいことを地上から退けることができなかったからです。 私が、
確信を持って言えることは、神につかえる最良の方法は、神の創造したものをい
つくしみ守るところに有るということです。

 何事が起こったとしても、明晰な理性にのっとった科学的な解釈が可能である
という立場に立つように努めたいと思います。非合理主義や神秘主義に流されて
はなりません。この立場から見ると、サタンの存在は無視することができます。
地上の悪はサタンのせいではありません。善とか悪とかは単に物事の解釈のため
に我々人類が使ってきた言葉に過ぎません。

 たとえば、細菌は我々を病気にさせようと体内に侵入するわけでもなく、悪の
権化だというわけでもありません。細菌にとってみれば、自分の存在のためにそ
うしているだけです。 同じことが鹿を殺して餌とするライオンにも言えます。
ライオン自体は悪ではありませんけれども、鹿にとって悪です。もし鹿が逃げお
せたら、それは腹の減ったライオンにとっては悪となります。

 生活のために猟をするエスキモーがいます。しかし狩猟が趣味でサファリに行っ
て動物を殺しまくるハンターは悪でしょう。 しかし、これでは納得の行く説明
にはなりません。人類の歴史はいわれのない殺戮の繰り返しです。それならば悲
惨なことをもたらさざるをえなかった根本の原因に到達する試みがなされない限
り、将来においてもその再発を防ぐことはおぼつきません。極悪と見える行為で
も、社会心理学的な考察が可能であり、善・悪という言葉に惑わされては、先に
進めないと思うべきです。善悪の判断だけでは、人間性を傷つけるようなことに
対して効果的に反撃できません。


 ユダヤ人であることの意味


次に、私個人のこだわりの問題です。
 私(私と子供たち)はなぜユダヤ人でありつづけなければならないのか。反ユ
ダヤ主義と言われものは、文書に残されているだけでも二千年にわたって存在し
続けています。その間、キリスト教に転向したユダヤ人たちは、ユダヤの民の列
から外れたとしても、彼らと彼らの子孫は人類の一員として存在しています。

 ユダヤ人でありつづけることに、何か特別な理由があるのでしょうか。苦しみ
を受けたり、与えたり(この場合はアラブ人たちに)しながら。

 私にとってユダヤ人であり続ける理由は、ユダヤの民が神に召命され使命を与
えられた民であることを皆が悟るのを待ち望むからに外なりません。つまり、我
々には他の民族よりも倫理的に高潔に行動することが課せられているのです。利
己的ではなく、家族や自国のことばかりではなく、他の人々のことを思いやるや
ることができるようになったらと夢見るのです。それがユダヤの教えの応用と実
践であるでしょう。

 見返りも罰も無い、まったく無償の行動を通じて、我々は自分が生命組織の中
の一個細胞であるということに気づかざるをえないでしょう。組織が健全である
ためには、すべての細胞が健全でなければなりません。一個の細胞だけでは価値
はありません。しかし、その一個のする善い、無償の行いによって、その一個が
利益を得ることはありませんが、その行為のむくいは全組織が受けるのです。あ
る個体は苦しめられるでしょう。(ちょうど病原菌の侵入に対抗して組織を守ろ
うとして自分も死んでゆく白血球のように) ここパレスチナの地は、過去四千
年にわたりさまざまな国の軍隊が通過し、さまざまな文化が競合してきました。
この特異な地理的位置に我々の国が建設されたことによって、シオニズム(ユダ
ヤ国家建設)の意義は、我々ユダヤ人が誇り高く倫理的価値観を守り抜き、語り
継ぐことができるようになったことにあります。

 私の言うところの倫理的価値観とは、直接的で具体的なものです。夢やセクト
主義や儀式や祈りすら排除されるべきです。我々は目的に向かって全精力をもっ
て直接行動を起こすべきです。他のどんなことも言い訳に使ってはなりません。
すなわち、先にも述べたとおり我々の隣人の現在と未来に我々は責任を負ってい
るからです。祈りの前に、サタンを恐れる前に、まず、働きかけ、行動すること
が重要だと信じます。


アラブ人とユダヤ人の間での平和について

この対立を二国間の紛争と見ないで、二つの宗教の争いと見るならば解決を見出
すことができるでしょう。

 二つの宗教間の決定的な対立の元はといえば、ユダヤ人はイサクが父アブラハ
ムによって犠牲に供されようとしたとし、アラブ人はそれはイシュマエルだった
とすることです。そのため、マホメッドの民に与えられたコーランこそが正しい
神の言葉であり、ユダヤ人に与えられたトーラー(聖書)ではないとしています。
(私の信ずるところによれば)我々ユダヤ人は具体的行動を通して、自分達が神
に選ばれたものであることを示す必要に迫られています。儀礼、セクト主義、祈
りから脱却し、浄化されたユダヤ教が望まれるところです。つまり、個々人が常
に理性的に直接行動することをユダヤ教徒である限り義務づけられているのです。

 犠牲ということに関しての私の考えを説明しておいたほうが良いでしょう。我
々の祖先は時として自分たちの子供をいけにえとし、後には動物をいけにえとし
て神をなだめ、鎮めようとしてきました。 しかし、今ではそれに対して180度
の転換が必要です。自分の願いを神々や主に聞いてもらうために犠牲の血を流し
てはなりません。我々の目的はそれによって自分たちの利益を図ることであって
はなりません。隣人達のために自分達の義務を果たすことが求められています。
 私の言う犠牲とは、自分たちにとって大切なものであっても、他の人たちがま
だ持っていないものだったならば、その人たちに分かち与えるというものです。
 よって私はイスラエルに提案したい。

 我々の歴史と聖書にゆかりの地であっても、その土地の支配と領有権を犠牲に
しようではないかと。 我々に土地を犠牲にする用意があったら、ユダヤ人と非
ユダヤ人の間の流血は止まり、我々の信仰は一歩深まるのです。またそれにより、
ユダヤ人が選ばれた民であろうと努めていることが証しされるのです。 義務と
は与えられるものではなく、自分から引き受けるものであることが分かるでしょ
う。
 我々は土地を得るために犠牲の血を流すことをやめて、土地を犠牲にして流血
を止める方向に自ら変わって行かなくてはなりません。 このような私の考え方
は、信ずる主のために自分の息子イサクをも犠牲にしようとしたアブラハムにな
らっています。つまり、彼は自分が信ずるもののために、自分にとってかけがえ
の無いものを犠牲にしようとした、ということが大事なことなのです。

 アブラハムの末裔を自称するわれわれユダヤ人には、唯一の神への信仰を守る
ことがかせられているばかりではありません。アブラハムの精神を受けつぐため
には、それ以上のことが求められています。全人類的価値観を高めることに努め
なければなりません。 今や人類は、地上の被造物を食い尽くさんばかりに肥大
化し、全地の破壊を引き起こしかねない時だからこそ、アブラハムの精神になら
うことは、社会的、世界的意味において、重要な一歩となりうるのです。

 人間の価値観のどこか深いところでの転換が早急に求められています。われわ
れの地上での使命は、神を助けて地を保っていくことの他になく、ここより他の
地もありません。だから、すべての人々に心を定めてもらいたいのです。命を救
うために一片の土地を犠牲にすべき時だ、その逆ではありえないと。私はユダヤ
人とアラブ人がこうした態度で協調し、戦争が終結し、生きとし生けるものすべ
てが愛を分かち合う時代が必ず来ると信じています。 
訳・百瀬 直彦、タイプ・安東昌敏


鳥取県の活性化策―大学・農村・パソコンそして“志”ー

                 国際企業文化研究所所長 大脇 準一郎

 Uターン者を中心に、『鳥取自由自在の会』が発足して2年近くになる。その
間、あらゆる角度から、鳥取の活性化策を探ってきた。その中で、大学設置、農
業、農村の活性化、パソコン教育の三つがキー・ポイントのように思われる。 
最近、鳥取県東部の有志により10万人を超える署名が集められ、大学設立の動
きが盛り上がっていることは喜ばしい限りである。全国の過疎地域の研究データー
によっても、教育費に予算を投じないことが、過疎の主原因に挙げられている。
また、大学設置を起爆剤に地域の活性化を図った例は多い。

 ただ、“何のための大学なのか?”その“志”を明確にすることが大切である。
明治以来、東大を頂点とした国家官僚養成の教育体制は未だ続いている。196
0年代末、大学紛争の嵐の中で問われたものは何であったのか? 東大の廃校案
もあったが、根源的反省もなく、“元の木阿弥”的状況が続いている。東大の世
界大学ランキングが160位以下であって、それ以上ではあり得ないことを国民
のどれだけの人々が、真剣に受けとめているのであろうか? 米国の一流大学へ
留学する大蔵官僚も半年は授業がまるで聞こえない。彼らに劣等感を抱かせる前
に、翻訳中心の語学教育の改革を考えるべきであろう。

 今、大学に問われているものは、国際社会に役立つ人材養成と地方活性化の拠
点的役割であって、富国強兵策の先兵としての国家指導者の養成は、過飽和状態
にある。国際的人材養成の大学づくりの夢は、80年代、外務省、通産省等各省
庁が描いたが、構想や、形を変えた中途半端なものに終わっている。

 他方、地方活性化の拠点としての大学構想は、“地方の時代”の波に乗って各
地に具現化している。その機能として、生涯教育、文化(憩い)の中心、産学共
同的機能が益々強化されるであろう。 農業、農村活性化策において、土地整備
や補助金制度のような、環境整備から、農村に住む一人一人の心の復興、家族の
ライフスタイルの転換、ソフトに重点がシフトし、“魅力ある、住み良い村づく
り”の方向に向かっていることは、新しい時代の波である。図書館設置、よそ者
にも開かれた交流の場づくりの動きはこの流れに沿うものであろう。阪神大震災
のボランティアたちが求めていたものは、お互いに価値観を共有できる土俵、コ
ミュニケーションであった。せっかく盛りあがった善意の灯を消さないためには、
教育、職場、一般社会が、ボランティアを受け入れる枠づくりを急ぐことである。
海外青年協力隊として何年か、貴重な海外体験をして帰った青年の受け皿が、あ
まりにも小さいのを見ても、日本はまだまだだと痛感させられる。

 先日上京して印象深かったのは、大学を退官された名誉教授が、「アカデミッ
ク・ボランティア・ユニオン」なるビジョンを熱っぽく語られたことである。
「年金があるから生活には困らないが、何か世の中に役に立つことをしたい」。
“国際・学際・業際”の看板を掲げて「人材養成塾、全国移動大学をやりたい」
「鳥取をそのモデル県にしてはどうか」と話しかけられた。静岡にも、年金者を
中心に農業を守る“報徳文化村づくり”をなさっている方も居る。先日、大手商
社を退職された方が、自分の国際経験が多少でもお役に立てばと手弁当で勉強会
に来てくださった。「迫り来る高齢化社会にどのように対処すべきか?」新しい
生き方が模索されている。

 何度か、全国の農業者と訪問したイスラエルのキブツ(生活共同体)は“生命
や財産よりも大切なものがある”というとを実感させる大胆な村づくりの実験で
ある。300近くあるキブツ村には、日本人を含め、世界のボランティア青年が
常住している。村おこしの元祖、大分県大山町は、イスラエルのキブツから刺激
を受けた。今も相互の交流が続いていると言う。

 第三に、コンピュータ化する時代の流れにどう対処すべきか? 今や小学生に
もパソコンが導入される時代である。機械はわれわれに快適な生活を与える魔法
の杖であるが、私も含め、中々パソコンにはなじめない。そこで学校教育をはじ
め、パソコンを手軽に利用できるような事業を考えている。Uターン者がUターン
したくても受け皿がない。需要を喚起して事業を起こすこと(起業)が求められ
ている。有為な青年にどんどんUターンしてもらえる受け皿づくり、そして彼ら
に思う存分活躍していただくことによってこそ、活力ある鳥取の未来は拓かれる。

 国際化、情報化、高齢化の時代の波にどのように対応すべきか、大学・農業・
パソコンの3点に絞って述べてきたが、最も大切なことは“志”。近代化120
年余の日本の歩みを反省し、“誇りある日本人”の原点をどこに見出すかであろ
う。明治維新の元勲、西郷のアジア主義(東洋的道義国家の道)や福沢の先進的
近代国家の道(国民のレベル・アップ)を捨てて、大久保、伊藤の後進国的近代
国家の道(富国強兵策)を驀進した日本、敗戦により鉄槌を食らわされたものの、
明治以来の中央集権的行政システムは残存し、東京一点集中、地方衰退の戦後5
0年であった。教育、産業、政治、いずれにしても日本近代史を再検討して、誇
りある日本、活力あるふるさとづくりの元年、平成8年(1996年)であるこ
とを祈念する。旬刊『政経レポート』1996年(平成8年)1月5日


「キブツ」から学ぶもの(1)
                          国際企業文化研究所所長 尾脇準一郎

 農村活性化に頭を痛めているのは,わが国だけではなく、世界共通の問題であ
る。社会主義の実験の失敗から立ち直ろうとする中国、向こう5年間に6兆円
(日本円)を投じて農村活性化を図る韓国、いずれの国においても同じである。
 今、農村活性化のキー・ワードとして“都市と農村の交流”が唱えられている。
多子化に農村は都市の生み出す商品化(量、質、コスト)の必死の努力、快適な
買い物のできる雰囲気造り(ホスピタリティー)等、都市から学ぶ面が多く、生
産・生活・文化を一体化した村造りが試みられている。他方、都市では大衆化、
合理化の潮に流されて、環境破壊、非人間化が進行している。そこで生き甲斐と
いう観点から都市と農村の生活を捉え直そうという試みが注目を浴びている。都
市の便利さと農村の豊かな自然とを融合しようというのが最近の村造りの基本方
針となっている。

 日本の農業、農村活性化のためには、これに加えて、グローバルな観点から共
生・共栄の国策を積極的に遂行しなければならない。経済の先行き、日米摩擦の
高まりを見るに付けてもその緊急性を痛感するのは、小生のみではあるまい。 
海外協力も明らかに自国への利益還元と見られるような短絡的、商社先行型の物
売り援助から、その国の発展の基盤となりうる人材育成に重点を移すべきであろ
う。 今回、全国の村造りのリーダーの方々とイスラエル、キブツ研修に同行し、
学ぶところが多かった。キブツとはヘブライ語でグループを意味し“生活共同体”
と訳されている。イスラエルでは、生産・所有・消費・生活の共同化された独特
の村造り“キブツ”が栄えている。一つのキブツは、人口500人前後で約30
0のキブツが全土に散在している。イスラエル人口500万の3%(15万)に
満たないキブツが、国の農業総生産の40%、工業品の7%以上を生産している。
どこのキブツも果樹園、小麦畑、綿畑、畜産、養殖から付加価値の高い大工場
(プラスチック、ラベル、ジュース、金属加工)を持っており、さらに最近では
サービス産業(観光、ホテル、レストラン、プール)に進出している。どこのキ
ブツも5〜600ヘクタールの土地を国から借りている。われわれが宿泊したキ
ブツでは、この広大な土地を利用してオーストラリア動物園をこの秋から開設す
るそうである。

 金回りの良いキブツは人気が高く、メンバー志願者が列をなしている。しかし、
全体的には激動する国際変動に対処して行くのは容易なことではなく、経営に苦
労しているのはどこの集団でも同じである。 今回イスラエルから学んだ教訓を
2つだけ述べておきたい。一つは「国を忘れた民は滅びる!」ということである。
半月振りに日本に帰って見てウンザリしたのは、相変わらずのオウム事件の報道
である。世界には色々な問題があり、日本が今何を為すべきか、問われても良い
と思うのであるが、オウムの事件報道から何が得られるというのであろうか? 
ただ国民に暗雲を投げかけるだけではないのか? おまけに「不戦決議」の国会
採択、言葉の弄び、党利党略が先行し、そこには国を担う重さが感じられない。
旬刊『政経レポート』1995年(平成7年)6月25日


「キブツ」から学ぶもの(2)

 紀元73年マサダ要塞で96人の老若男女が自決し、国が滅びて以来、ユダヤ
民族は2000年間流浪の民と化した。それは差別と迫害の歴史であった。19
世紀後半、ロシア、東欧でのユダヤ人迫害が激しくなり、これを契機として、2
000年前の故郷の地パレスチナに帰ろうというシオニズム運動が起こった。当
時、ヨーロッパに台頭したマルクス主義、社会主義、ナロードニキ(ロシアの急
進的農本主義)、トルストイなどの思想の影響の下、ヨーロッパの上流階級(弁
護士、裁判官、教師)であったユダヤ人達は、パレスチナに入植できる方策とし
て農業を学んだ。こうして1910年、デガニアに12名の若者によって最初の
キブツが設立された。

 砂漠地帯、石だらけの谷間、マラリア発生の泥地という悪環境条件もさること
ながら、ユダヤ民族にとっては、異母兄弟であるアラブ原住民からの攻撃が大変
であった。1936年には監視塔、防柵付のキブツ、ニール・デーヴィットが一
日にして完成された。この方式は全国に広がった。この頃ナチの大虐殺を逃れて
キブツが急増した。1948年、イスラエルの建国もまた、容易ではなかった。
建国のお祝いをしている最中、周辺のアラブ5カ国が一斉に攻めかかり、イスラ
エルは奇跡的に勝利を収めた。以後5次に渡る戦争の後、イスラエルが占領した
ゴラン高原(シリア)、ウエストバンク(ヨルダン)を返還するかどうか今も国
際問題となっている。ゴラン高原は高さ400メートル、ガリラヤ湖から水を上
げ農業、牧畜をやっている3万4000の人口、35の集落がある。

 ゴラン高原のキブツに住むデーヴィト君は米国からイスラエルの軍隊に入隊
(イスラエルは3年間の兵役の義務がある)、除隊の後イスラエルの前線を守る
ためにキブツに入植したという。彼の勇気に34ヶ国から来た国際会議の参加者
達は、一様に感銘した。かつてイザヤ・ベンダサンが「日本人は水と安全はタダ
だと思っている」との名言を吐いたことを憶えておられる方も多いと思う。国が
滅びるということがどういうことなのか、幸か不幸かわが国はたった一度の敗戦、
占領軍の歴史上かつてなかったほどの寛大な占領政策によって、かえって経済的
にはかつての保護国、米国を脅かすまでになった。国の守りを米国に肩代わりし
てもらい、自衛隊は軍隊ではないと苦しい言い訳しながら、補完的防衛を行って
いる。

 今、わが国に問われているのは国の誇り(アイデンティティー)、愛国、そし
て国防ではなかろうか? このことはかつての偏狭なナショナリズムへの回帰や
軍備拡張をいうのではなく、万国から歓迎される国家、国際情報を含めたソフト
重視の総合国家戦略の確立を意味することは言うまでもない。貧困の中で両親の
苦労を見て育った世代は、家庭や父母の尊さを知っていた。しかし、豊かさの中
で甘やかされて育った世代には、自分勝手な行動が多い。国の守り、家庭の守り
も、今その屋台骨を失っているように思われる。

 第2にイスラエルから学んだことは村造りのあり方である。車道を村中に貫通
させたことは日本の国土計画の大失敗ではなかろうか? 老人や子供が車にひか
れたという報道を聞くにつけ、当人や運転手の責任もさることながら、行政側に
も多少の責任がないとは言えないであろう。キブツでは子供達が自由に羽を伸ば
して遊んでいるし、老人は自転車、手押し車、電気自動車で悠々と行き来してい
る。キブツは全体が一つの広大な公園で花は咲き乱れ、小鳥はさえずり、この世
の花園である。食堂を中心とした芝生、あるいは街路樹、それぞれのキブツの景
観には特徴があり、それぞれの文化を誇っている。

 “全県公園化構想”の進む鳥取県であるが、是非キブツを参考にされることを
お奨めしたい。
 確かに飽食の時代の政治は難しい。多様な大衆の欲望をどのように集約して望
ましい方向に導くことができるのか? あるいは大衆の欲望のままに漂流して、
かつてのギリシャやローマのように瓦解して行くのであろうか? 諸先輩の御高
見を賜れば幸いである。
                旬刊『政経レポート』1995年(平成7年)7月5日


 奉仕で新世紀を拓こう!
         二十一世紀こそ、理相世界の実現を!

                    国際企業文化研究所・所長  大脇準一郎 

 ついに21世紀に突入しました。日本歴史有史、2000年の枠を超え、人類歴史は、
4000年、さらには、6000年の文明史の足跡を残している。他方、わが国の現政権
は、教育を最大の政策課題に掲げ、国家100年の大計に取り組んでいる。日本の
英知を結集し、討議を重ねている、教育国民会議に対して、先ず痛感することは、
百数十年前の、明治維新の教育ビジョンの枠から抜け出ていないことである。日
本が、列強に飲み込まれないよう、必死に富国強兵に励んだ時代と、今日との大
きな違いは、日本も国際社会に組み込まれ、世界との共存なしでは済まされない、
グローバルな時代に生きているということである。世界の60億の民がひしめく、
地球星が、我が村、我が故郷とすれば、我々の第1の課題は、この地球村の安寧
であろう。

 この観点から、紛争地域での難民支援、自然災害による避難民の救済、女性、子
供などの社会的弱者の自立支援、悪化する地球環境の保全等、あらゆる諸問題に
対し、教育、医療、物資の支援が行われている。国連や、世界各国、又一部の日
本の人々は、必死でこの地球的課題の解決に取り組んでいる。しかしながら、国
民の模範であるべきわが国の国会は、政権争奪に明け暮れ、マスコミはこれに迎
合するのみ、教育を論じられる論客達も、この世界のグローバルな現実の土俵を
下りて、日本の土俵で、教育を論じていられるようだ。 現時点で最も大切なこ
とは、教育の目標を「国家や企業に有意な人材を育成」することから、「国際社
会に貢献する有意な人材育成」に転換することである。創造性、問題解決能力、
コミュニケ-ション能力も、世界のニードに答えようとする必死の努力の過程で、
自然と備わるものであって、昨今の教育論議は、本末転倒・それこそ"時代錯誤"
のような気がしてならない。

 教育国民会議で、「奉仕活動の義務化」が提案されたが、巷から批判の声が上が
ると、「大学生年齢を撤廃し、小・中・高、全員に奉仕活動」とトーンダウン。
「奉仕の義務化は時代錯誤」との声が大きくマスコミで取り上げられたが、奉仕
の義務化を時代錯誤というご当人達は、国防の義務のため、未だ徴兵制も国も多
い、世界の現実をどう捉えているのであろうか?お隣りの韓国でも、2年半、
(北鮮は5年から10年)の徴兵制があり、忙しい芸能家であろうが、海外留学生
であろうが例外がない。米国や英国にように志願制の国もあるが、ドイツのよう
に20歳になれば、徴兵か、奉仕活動かを選択できる国もある。いずれにしても、
軍隊入隊経験者は、社会的に尊敬されていることが、日本との大きな相違点であ
る。ある韓国の青年が、「日本の若者は、骨のないくらげのように、漂って、青
春を無駄に過ごしているようだ」と指摘したように、敗戦後、国軍を解体し、名
誉の剥奪された自衛隊の放置こそ、バックボーンのない、日本の元凶ではなかろ
うか? 

 今年は、日本政府の提言により、国連の「国際ボランティア年」である。国内に
おける高齢化、少子化の傾向から見ても、ボランティア活動のニードは、益々高
まるであろう。しかし、青年は、国内の"豊曉の海"に安住するのでなく、世界の
荒野を目指して欲しいものである。
小生、昨年も、半年間、南米ブラジル、パラグアイのボランティア活動に出かけ、
この1月帰国した。本年、久しぶりに日本の四季の変化を楽しませて頂いている。
 

 その間、インターネット・ビジネス研究所の立ち上げ、無料プロバイダーの立ち
上げのお手伝いした。今後、インターネット・ビジネスから、ITの教育・地域活
性化への役割に関心も持って、同志とネットワークを構築している。ITは、徹底
的にカスタマー・ニードを志向する。かつての産業革命を上回る、IT革命、流通
革命が驚くべきスピードで進んでおり、この大変動は今、始まったばかりである。

 以上述べてきた教育目標・ボランティア活動・ITの三つに共通するのは、グロー
バル化でである。一人勝ち、帝国主義的植民地主義の時代は、過ぎ去り、今や、
共存・共栄・共生の時代、地球一家族の時代を迎えた。生甲斐に充ちた人々が、
麗しい人間関係を結び、快適で安逸な生活環境を造成する理想社会は、直ぐ其処
にある。

 身近な家庭から始めて、郷土、日本、アジア、世界に至るまでグローバルなビ
ジョンを立てて、奉仕の精神で、希望あふれる21世紀を拓こうではありませんか!
  「政経旬報2001、新年号」

顧問(潟Cンターネット・ビジネス研究所 http://www.xes.ne.jp/、


新しい国家目標の明確化
                           国際企業文化研究所、大脇準一郎

 先日、“国際協力の日”にちなみ、東京の日比谷公会堂で「本音で語ろう! 国
際協力」というシンポジウムが開催され、パネリストには外務省の課長などNGO
(非営利の立場から地球的規模の問題に取り組む市民レベルの海外協力団体)の
代表の人が参加した。そこで痛感したことは、政府官僚が引っ張っていった時代
から、政府も民間の立場を認知せざるを得なくなった時代へと変貌したことであ
る。このことは女性の社会進出の時代と呼応している。男性の知識、権力中心の
一人勝ちの時代から、女性の感性を尊ぶ共生の時代、すなわち官尊民卑や男尊女
卑の“差別の時代”から対等の“パートナーシップの時代”に突入していること
を意味している。

 では、政府と国民は何を中心(核)として協力し合うべきであろうか。明治以来、
欧米に追いつき、追い越すという後進国並みの国家の目標、あるいは戦後の経済
復興に代わって、今誰にも明らかにみえてきている国民的コンセンサスともいう
べき国家目標は、“国際協力”(国際貢献)と“地域活性化”(魅力ある町づく
り)であるといえるであろう。

 今日の政局の混迷、教育の荒廃、産業界の不安定感は、誰しもこの新しい時代の
方向を明示することも、設定することもできないで時代の流れに漂流していると
ころにある。今こそ国際貢献、地域の活性化を国家目標の二大柱にすえて、政府
は国民とともに大改革を行うべき時である。

 この目標達成のための障害になっている点のうちで次の三つが要と思われる。

 一つは、政府の寄附行為に対する規制だ。この緩和を断行し、国民のボランティ
ア精神を、税制改革を通じて支援することである。平成元年からNGO団体にもODA
資金が分配されるようになったとはいえ、いまだODA総額の0.45%に過ぎない。

 二つ目に、学校教育、社会教育におけるボランティア活動を教育評価し、ボラン
ティア活動を教育カリキュラムに導入することである。戦後半世紀が経過し、戦
前の超国家主義の反動とはいえ、教育は安逸な就職のための手段に成り下がり、
新しい時代の要請とかけ離れた知識の詰め込み、受験地獄に明け暮れしているの
が教育国の嘆かわしい現状である。

 第三に企業がボランティア活動を評価する措置をとることである。自企業のイメー
ジアップ、宣伝という次元から企業目的として社会貢献を第一義とすることであ
る。企業がボランティア活動経験を優遇する措置をとることによって、学生たち
の教育目標も正されるであろうし、政府がそのような企業を優遇する税制措置を
とることで、NGOの活動はさらに発展するであろう。

新生日本の誕生を、共生の感性豊かな女性と未来へ挑戦する勇気あふれる青年の
リーダーシップに期待したい。
         『旬刊、政経レポート』平成9年