井上 章三県議と原子力・日本文化を語る。
2011.11.16 吉祥寺
スヴェトラーナ リバルコ氏 ウクライナ 教授:
現在、ウクライナで日本をテーマに芸術学博士号を持っておられるのは、スヴェトラーナ先生お一人です。
先生は、「私が開拓しなくては、ウクライナにおける東洋学の復興をあと何十年待たせてしまうだろうか」と
いう真摯な思いからです。
「ソ連時代に私たちにとって宗教の代わりに心人間性を保たせてくれたのがロシアと日本の文学だった。
松尾芭蕉の俳句にどれほど慰みを得たことでしょう」
スヴェトラーナ先生も、日本文化に普遍的諸要素を感じられるからこそ、今まで研究を続けて来られました。
先生は、「日本文化を理解し自国に伝えることは、人々を幸福にし、社会を良くする活動だ」と確信を持っておられます。
先生は、母として、妻として、講師として、ジャーナリストとして、いつも麗しい人間関係を追及され、人々の心に
愛の光を灯す活動を黙々と続けておられます。このような先生の歩みは平和への奉仕以外の何物でもありません。
先生は「芸術学者は、宗教を受け入れ辛い人の道案内人」とおっしゃています。特定の宗教に属している訳では
ありませんが、人が人として仲睦まじく、美しく、気高く生きる姿を希求しておられます。
私が先生の活動に参加させていただきながら思うことは、「芸術と言われる本当に美しいものは、人を育て、
人を変える力があり、この世で一番美しいものとは、詰る所、深くて広くて崇高な愛で人々が交わるときに
生み出される共鳴する調和の心なのだ」ということです。
今まで、「芸術の中の芸術は人と調和すること」という言葉が実感できなかったのですが、先生にお会いして、
なんとなく分かるような気がしました。また、今、日本人が模索している「世界に発信できる日本らしさ」は、
海外を通してより一層強く認識することが可能になると思います。
野村千恵子(E-mail;owaki111@yahoo.co.jp, 携帯:080-4180−3844
第 7 回 和 の 哲 学 ・ 実 学 研 究 会
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日本文化は普遍性を持ち得るか?
日本文化の深奥を探求するウクライナ日本文化研究者、スヴェトラーナ・リバル
コ教授が、IAJS(京都女子大)IAAPS(アジア太平洋大学)の日本研究の国際学会
参加のため来日されています。この機会に氏の鋭い審美眼で日本文化の本質を語っ
ていただきます。
また日本の美の本質を音の響きを通じて探求中のギター・リス
ト、高谷秀司氏が協賛、特別出演、リバルコ教授とのコラボレーショントークも
あります。ご期待ください。
日 時:平成23年11月19日(土)午後6時から午後9時
場 所:吉祥寺本町コミュニティーセンター3階会議室1,2
東京都武蔵野市吉祥寺本町1-22-2 TEL&FAX: 0422-22-7002
【次 第】
開会の辞 一色 宏
特別講演:「日本のイメージ形成の方法としての芸術─欧米人の視点─」
スベトラーナ リバルコ教授
ウクライナ国立ハリコフデザイン・芸術アカデミー
プロフィール:1990年サンクト・ペテルブルク国立レーピン記念美術アカ
デミー芸術学部卒、芸術学博士、ウクライナにおいて東洋学、
日本学研究の流れを復興しつつある中心人物。今回の講演では、
20世紀から21世紀にかけての日本文化の展示を通して、芸
術が東洋と西洋との対話の土壌となったことをウクライナの
例を通じて強調します。
[論 文]:『日本古典における文化的芸術の普遍性とそれらの徳川時代における
造形芸術への投影』
[著 書]:「古典日本文化」:辞書・便覧(2001)・からし種の中の世界「巨匠達
と侍」「神々の微笑み:日本のミニアチュールな彫刻芸術」「天照大神
の国:着物,根付,印籠」他、
[通 訳] 野村千恵子.芸術学博士、ハリコフ国立舞踊学校卒,ハリコフ国立デザ
イン・芸術アカデミー大学院卒
「世界から見た日本芸術」スベトラーナ教授
http://www.youtube.com/watch?v=7aXPuf2bsHA&feature=related
http://www.e-gci.org/20110326.html
http://www.miraikoso.org/before/78mirai/svitlana/purpose%20of%20visit/Svitranaprofile.html
スバトラーナ教授のサイト:http://rybalko-orient.com.ua/
サイトの右上、「ロシア語を常に翻訳」のボックスをクリックすると日本語で見ることができます。
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小さい頃は父母に連れられてよく墓参りをした。さまざまな形で居並ぶ祖先の墓を見ながら「どんな人達だったのだろう」
と、子供心に興味深げであったと覚えている。
約30年ぶりに故郷に還り、町長職を務めることになった。都会での生活が長かっただけに、ふるさとの空気と水、風土は
懐かしさで一杯だった。そんなある日、隣に住む本家のおじが墓の話をした。
「曾祖父の彦五郎さんの墓には『丁丑ノ乱 西郷隆盛ニ従ヒ 2月11日出兵 明治10年旧4月18日肥後人吉ヨリ八代
ニ通ズル間道テイカク岡ニ於テ戦死 行年44』となっているが、このテイカク岡という場所がどこなのか、どうにもわからない。」
この時から、私の祖先の足跡を探す旅が始まった。熊本県の人吉市は県境の峠を越えた地であり遠くはない。種々の
機会に人に尋ねて見るが、どうもよくわからない。戦死した日を頼りに戦さの場所を辿るなかで「わかった」との知らせが
来た。テイカクは「照岳(テルカク)」だったのだ。そこは、人吉市上原田町馬草野近くの岡だった。
明治10年5月30日(旧4月18日)の前後に、この地で「照岳の戦い」と呼ばれる激戦があった。当時について古老の
話では、「家の近くまで鉄砲の弾が雨あられのように落ちてきた。後で岡に登ってみたら、人の頭がゴロゴロしていた。」
などと、その当時のすさまじい状況が語り伝えられていたとのこと。そしてその時の戦さにより村は全部焼かれてしまって
いた。驚いたことに、集落では、その時から今日に至るまで毎年、その日を「焼けよけ」(焼けたための休み)と呼ぶ慰霊祭
を続けてきているのだという。
平成15年の7月、私は家内と共に、土地の古老に案内してもらいながら、その岡に登った。天候は悪くなかったはず
だったが、途中から雨が降り出し、雷までゴロゴロと鳴り出した。私たちは、線香と花を手向け、記念の写真を撮って岡を
下った。
翌16年4月18日、私たちは再び馬草野に向かった。なぜかその日も雨がひどかったが、照岳に登っている間は雨が
止んだ。そして念願の「焼けよけ」の祭りに参加した。西南の役から127年目の「焼けよけ」記念日、馬草野の人々は
大変喜んでくださった。
彦五郎氏は、明治4年に始まった特定郵便局制度による初代の局長だったが、西南戦争が始まると、息子に代わり
自ら出征した。44歳、最年長だったと聞く。息子 の納治郎氏(私の祖父)は小さい頃足を怪我し、戦さには不向きであった。
「激闘田原坂秘録(肥後評論社)」は、次のように締めくくっている。
「222日にわたり死闘が続けられた西南戦も、この日終焉した。官軍の死者6843名、戦傷者は9252名に達した。
薩軍の死傷者もこれに劣らず1万5千名を数え、両軍で3万を超える尊い犠牲が払われた。思えば、これほど悲惨な
戦いはなかった。討つ方も討たれる方も、ともに維新の偉業を成し遂げた盟友であった。親兄弟が骨肉相はみ、中の
良かった同郷の親友たちも敵味方に分かれて戦った。のちに、戦場の跡には地元の人たちの手によって、記念碑や
石碑が建てられ、死者は厚く葬られたが、いまも香煙が絶えることがない。」
明治維新、戦後の改革に続く第三の改革期といわれる今日、英知をもって最小の犠牲で新の改革が実現することを
期待して止まない。
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