平成19年(2007年)10月25日・第66回未来構想フォーラム ワード変換

プーチン・ロシアの変身と国際関係の変化
                  
                  07.10.25    兵藤 長雄

T、プーチンの横顔

  生い立ち、インテリジェンス(KGB)志向
  「無名からの一躍大統領へ」の謎 連邦情報長官職の活用
  後継者問題, 明年3月大統領選挙の行方

U、プーチン人気、成功の背景

  エリツィン時代の不の遺産克服、強いロシアの復活
    
治安・社会秩序の混乱、国民経済の困窮、国際政治舞台からの脱落

 
成功をもたらしたもの、
   
中央集権化の推進、議会・政党の大政翼賛会化、言論統制の強化
    「主権民主主義」;欧米型民主主義の大幅な後退、スターリンの再評価

 
経済の立て直し
    
石油価格の高騰という追い風、経済の国家統制の強化、戦略企業保護
     資源ナショナリズム、外資制限(サハリン2その他)
     構造的脆弱性、(一次産品輸出国、汚職、腐敗体質など)

V、大国外交の復活
  
  対米姿勢の転換

  
  9.11テロ以来の協調姿勢の終焉宣言(ミュンヘン演説)
    一極支配への挑戦、大国主義の復活(欧州ミサイルの防衛、コソボ独立問題)

  
露中戦略的パートナーシップの推進
  
  国境問題の解決、露中合同軍事演習、上海協力機構
     経済摩擦の始まり?

  
露中印三国協調の推進

  周辺諸国への高圧的姿勢;

    バルト三国、ウクライナ、グルジア、モルダビア,トルコとイランへの思惑

  
湾岸諸国へのアプローチ

  アジアへの関心、
インドネシア

  対日姿勢の変化

   
領土問題への姿勢の硬化と日本再評価の可能性


  進むロシアの「変身」 ワード変換
   ─ サハリンで感じたこと ─


                 東京経済大学教授 兵藤長雄

対日姿勢の硬化

 今夏、ユジノサハリンスクで開催されたサハリン・フォーラムと呼ばれるサハリン・
州官民代表者との9回目のシンポジウムに参加する機会があった。たまたま第31
吉進丸漁船員の銃殺事件の直後だったので、緊張した雰囲気の中での訪問であった。

 サハリン到着後、わが方総領事館で、国後島で勾留中の第31吉進丸を近くで見て
きた日本人関係者の話として、船体には多数の弾痕が操舵室を中心に目撃され、
日本領海内で起きた意図的な銃撃としか思えない等の話を聞く機会があった。

 領土周辺水域における漁業活動は、領土問題が未解決の中、両国政府が合意した安全
操業の枠の下で行われてきたが、ロシアの国境警備隊による違反船取り締りで、これまで
拿捕されたり銃撃を受けたりした漁船員は少なくない。しかし、第31吉進丸漁船員の銃殺事件は、
根室納沙布岬から目と鼻の距離にある貝殻島近くのわが方領海で起きた事件であり、しかも、
1956年以降半世紀の間、取り締まりで漁船員が銃殺された例は皆無だった事を考えると、
ソ連時代の警備当局でさえ自制していた一線を越えた暴挙であったと言える。

 この事件もあって、シンポジウムでは北方領土問題での議論は厳しかった。日本が始めた
侵略戦争にロシアは多大の血を流して勝った以上、四島のロシア領有は至極当然であり、
問題は決着済みとの姿勢に終始していた。
 北方四島を管轄するサハリン州は、従来から領土問題に対しては最も厳しい立場をとり続け、
モスクワを突き上げてきたが、最近では、モスクワでもこのような姿勢に同調し始める動き
出ている。

わが国が進めている「サハリン2」プロジェクトと呼ばれる石油、天然ガス開発工事も視察する
機会があり、日本側の献身的な努力で工事がかなり進んでいる事が印象に残ったが、その直後、
環境問題を理由にこの事業許可が取り消された。ソ連時代、ロシアは外国との商業上の契約を
遵守する事で定評があった事を考えると、「法の支配」を強調した当初のプーチン路線からの
大きな後退である。この背景には、石油の高騰に支えられて経済に自信を取り戻し始めたロシアが、
再び大国主義志向に傾斜し始め、資源ナショナリズムがこれを扇動する流れがある。

 サハリンでは、もう一つ新しい事実を確認した。13年続いてきた四島ビザなし交流で、北方領土を
訪れた多くの人は、四島に住むロシア人が、本土から全く見放されたかのごとく貧しい生活環境に
甘んじている事に驚かされてきた。しかし、ロシア政府は今年8月、「2007〜2015年クリール諸島
社会経済発展プログラム」なるものを採択した。以前にも同じような計画が発表された事があったが、
これは予算の裏づけがなく画餅に終わった。しかし、サハリン州は、今回は投資総額179億ルーブル
(約7億ドル)のうち、140億ルーブルが連邦予算から支出されるとして、今度こそ近代的な住宅、空港、
港湾施設、道路などインフラ整備に本格的に取り組む姿勢を強調していた。
 色丹島については、36年の日ソ共同宣言で、平和条約締結後にロシアか歯舞群島と共に日本への
引渡しを約束している島であり、特に予算上も冷遇されているとの憶測もあった。しかし、今回サハリンを
訪問中、色丹島で200人の生徒が通う学校の新校舎完成をテレビニュースが報じていた。モスクワでは
四島への外国投資を促進するため、この地域を経済特区にする構想も検討され始めているとの話も
聞かされた。最近のロシアの対日姿勢が、ソ連時代以上に厳しくなっている面を、サハリンを訪れて
改めて肌で感じさせられた。


 右傾化と民主化後退

 しかし、これは日本に対してだけではない。プーチン政権の姿勢の硬化は、内外政策全般に見られる。
昨年から欧米では、ロシアの右傾化、民主化の後退がいろいろ問題となり始めている。最近、プーチン
政権の人権抑圧やチェチェン紛争の内情を暴いた事で多くの外国の賞を受賞し、国際的に評価の高かった
ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんが、プーチン大統領の54歳の誕生日に自宅近くで暗殺された。
彼女は、300人以上の児童が死亡した‘04年ベスラン学校占拠人質事件直後にも、取材で現場に向かう
飛行機の中で毒殺されかかり、一命をとり止めたことがある。今やロシアの主要紙、TVでは、プーチン
政権批判は見られなくなった。言論弾圧はソ連時代に戻りつつある。

 ロシアは内政だけではなく、周辺の旧ソ連邦共和国に対する姿勢も硬化させている。サハリンのレストランで、
ソ連時代親しまれていたグルジア・ワインを注文したところ、「そんなものはこの1年見た事もない」とそっけない
返事であった。バラ革命の民主化路線を進め、欧米接近を強めるグルジアに対する締め付け策の一つ、
グルジア・ワイン全国輸入禁止の硬化を実感した。
 最近のグルジアによるロシア陸軍諜報将校4人の逮捕に対するロシアの過剰反応は象徴的だ。短期間で
4人は釈放されたにもかかわらず、ロシアは郵便物や陸海空のすべてのルートによる両国民の出入国停止、
ロシア在住グルジア人の送金停止やロシアの大都市の小中学校に通うグルジア人児童の調査など、
ソ連時代にも考えにくかった激しい反応を示している。
 プーチン大統領のイラリオノフ経済担当顧問が昨年12月に辞任後、ロシアは全く違う国に「変身」しつつある
と警鈴を鳴らした事を本誌(6月20日号)でも紹介したが、今回サハリンを訪れて、彼の警鐘を具体的に肌で
感じさせられた気がした。   (「世界週報」2007/11/14「日本と世界の安全保障」46−47頁)



マクナマラ氏とハネムーン  ワード
       
         
2004年11月8日  東京経済大学教授  兵藤 長雄

 咋年の長編ドキュメンタリー部門でアカデミー賞に輝いた「フォッグ・オブ・ウォー」
で、久方ぶりに注目を集めたマクナマラ元米国防長官は、私の学生時代には、ベトナム
戦争の先頭に立つ悪の権化のように思われた存在だった。私も罵詈雑言を浴びせていた
一人だった。そのマクナマラ氏と、はからずもここ数年、ある国際会議を通じて定期的
に食事や散策などを共にする奇遇に恵まれた。そして親しくなるにつれ、ジョンソン大
統領のベトナム強硬策にはついていけないと国防長官を辞めた後のマクナマラ氏の辿っ
た人生、その心の軌跡、接してみて知った氏の誠実な人柄に私は惹かれていった。

 ハーバート大学の経営学助教授からフォード社長に登りつめた途端、ケネディ大統領
に請われて国防長官となったマクナマラ氏は、持ち前の合理的な経営学的手法で、ハイ
テク兵器と特殊部隊を駆使して最小のコストでベトナム戦争を勝てると判断した。しか
し、結果は膨大なコストと莫大な犠牲で敗退した。「何故か?」この問いに自ら答える
為、1995年、彼は自らハノイに乗り込んで、ベトナム戦争を指揮していたボー・グ
エン・ザップ将軍をはじめ旧敵指導者達と率直に体験をすりあわせ、自分が如何に間違っ
ていたかを確認する。マクナマラ氏ならではの画期的な試みだ。彼はベトナム戦争で犯
した過ちへの自らの懺悔を回想録の形で綴っている。回想録は40年愛し合って先立っ
た妻の霊に捧げられている。

 彼のハノイ訪問は、それ以前、彼の提唱でキューバ危機について米・ソ・キューバの
当時の責任者が体験をすり合わせた貴重な経験に基づいている。その時、カストロ首相
やソ連の関係者から、当時キューバには核弾頭が実戦配備されていたと聞かされ、腰を
抜かさんばかりに驚いたと述懐している。マクナマラ氏がキューバ危機を語る時は鋭い
目、深刻な表情に変わる。文字通り危機一髪で第三次世界大戦に突入する可能性が現実
にあったと、核兵器の恐ろしさを強調し、核の思い切った削減、究極的には全廃を主張
する。 マクナマラ氏は第二次大戦でグアムに従軍中、B29爆撃機の低空からの日本各都
市の絨毯爆撃を、最も効率的な攻撃として提案したとされるが、3月10日の東京大空
襲で10万人の市民が犠牲になったことについて、「戦争に勝つ為なら、一晩で10万
人もの市民を殺してよかったのだろうか。われわれは戦争犯罪人だった」と今率直に語
る。

 このような自らの体験を通じて知った戦争の残酷さと無益さが、彼の良心を目覚めさ
せ、その後の彼の人生を大きく変えていった。彼は政府を去った後、世銀総裁として世
界の貧困、教育、保健衛生の問題に、ベトナム戦争での罪を贖うかのようにエネルギッ
シュに取り組んだ。

 ところで彼と知り合った国際会議とは、福田赳夫氏が首相引退後始めたOBサミットと
通称される会合で、毎年、世界の指導者OB有志が集って本音の議論を20年以上続けて
いる。その過程で、戦争の悲劇が繰り返される背景には、今の世界は権利と自由のみが
主張されて責任感が欠落し、指導者達には倫理感が欠如しているとの反省から、「世界
責任宣言」なるものを国連総会で採択して世界人権宣言を真の意味で補強しようとの動
きが具体化しつつある。 マクナマラ氏を惹きつけたのは、まさに政治指導者への責任、
倫理感の追求、「世界責任宣言」の採択を求めるOBサミットの姿勢であった。彼はこの
動きに共鳴し、OBサミットの特別ゲストとして議論に積極的に参加している。昨秋、ワ
シントンで次回の事務的な準備会合が開かれ、筆者も福田元外相の秘書官を勤めたご縁
で参加した。

 驚いたことに、その事務的な会合にマクナマラ氏も出席していた。更に驚いたことに、
会議前の晩餐の席に、彼はヴェニス生まれの美しい中年の御婦人を連れて現れ、一週間
前、イタリーの教会で結婚式を挙げてきたばかりと新婦を紹介したのである。晩餐会は
再婚祝賀パーティに早変りした。翌日、会議を終えて、これからニュー・メキシコに新
婚旅行に発つと言って子供のように無邪気な笑顔をみせたマクナマラ氏は、今年、米寿
を迎えているとはとても思えなかった
。(了)



外交とインテリジェンス
  ─
個人的経験を中心に考える  」
   講師:兵藤長雄先生(前 東京経済大学教授)
 4月21日(土)午後2時〜4時 東京経済大学1号館A−306教室 出席者:98名

外務省志望の動機―

昭和三十年代初期は冷戦時代の真っ直中であり、マルクス主義イデオロギー全盛時代であった。
時は小田 実の「なんでも見てやろう」の時代とも重なり、自分自身も一度はソ連の正体を自分の
目で確かめたいと思うようになり、外務省へ入省ソ連に関する専門官にならんと欲した。

入省を果たすと何人も語学研修が課せられるが同僚がケンブリッジ・オクスフオード゙ に行くのを
尻目に、自分は何故か英国陸軍学校に回されロシア語の研修が始まった。約一年間がその期間で
あったが、後で分かった事はその学校は英国陸軍の諜報官を養成する機関であった。

その場所で一年、その上級学校で二年の研修を受け、いよいよ本場のモスクワ大学へと赴く筈で
あった。筈であったというのは見事に大学から入学を拒否されてしまった。後日分かった事だが、
恐らく在モスクワの新入り日本人外交官がすでに英国インテリジェントスクールで研修を受けて
いたことが、当局にばれていたと思われる。

冒頭から出てくるインテリジェンスとはいろいろな解釈があるが、ここでは広義の情報蒐集を含めた
活動と理解されたい。合法、非合法、工作活動、諜報活動をも含めた事を指すものと理解してほしい。
当時のソ連当局が如何に巧妙にアプローチし、否応なしにインテリジェンス工作の渦中に引き込まれ
たか実例をご紹介したい。 


A) レニングラード゙行きの夜行列車 

当時外交官はモスクワ市内より50kmを越えて旅行または移動する場合、全て事前に当局の許可を
取得しなければならなかった。

これは政府の役人のみならず旅行者、ビジネスマン 学生 等に課せられた移動制限条例であった。
この条例に従いレニングラード行きを申請したところ、夜行列車をリコメンドされ二人用コンパートメント
の下段ベッドを予約し車中の人となった。

上段の客は未だ来ていないので一人旅行を期待して発車を待っていると、やっと自分のコンパートメント
を見つけた妙齢の女性が入ってきた。何かの間違いと車掌を呼び確かめたが切符に間違いはないとの
こと又今夜は寝台は満席であった。

件の女性は愛想良く飲み物等々を出し色々と奨めたが、当方は元よりKGBの差し金を感じ、隠しカメラの
標的にならぬよう細心の注意を払い座席車両に移動した。尾行に対する警戒並びにこの種の接近に対
する対処の仕方は、多少なりとも英国での研修が役に立ったものと思える。 
この種の誘惑作戦をセクスピオナージと呼ぶ。 


B) キノコ狩り

ある日或る場所で日本語の新聞を読んでいると、モスクワの大学で日本語を勉強しているという学生が

拙い日本語で話しかけてきた。誠実そうな態度であり学生のことであるので、こちらも気軽に会話に応じた。

芝居、音楽会等の安い切符を時々探してくるので、こちらも気軽に方々案内してもらったりして多少の付き
合いにと入っていった。 そしてある日キノコ狩りへ行こうと誘ってきた。 

モスクワではシーズンになるとキノコ狩りは庶民のリクレーションで、郊外の森へ行きキノコを取って帰り食
する一種の市民ハイキングであった。相手は学生であるので当然郊外へはバスか電車でいくものと思い、
待ち合わせ場所に行ってみると、黒塗りの乗用車が居るのでびっくりして学生に訳を尋ねると、叔父は官吏
で何時もこの車を使っているが、今日は出張なので自由になるという返事であった。

車は走り出したが50kmの距離制限など気にも止めず郊外目指して突っ走るので、距離制限の件を持ち出すと
そんなものは気にする必要もなしという返事。当方は気が気ではないが為すすべもなく、そのうちキノコの森についた。

その時気づいたがその場所は市民など近寄れないような立派に管理された森であった。これで又多少KGBの
影を感じたが確信までには至っていなかった。しかしはっきりその影を確信したのは、運転手が物陰からカメラで
狙っているのに気づいたときであった。距離制限を越える罠にはまったがその時は如何ともすることが出来なかった。

モスクワに帰った後はこの学生との付き合いに多少の距離を置くようになり充分注意していたが、そのうちその
男は何処ともなく姿を消した。   


C) 渡り掛けた危ない橋

移動には前述の距離制限があるので時として人々は外国へ向かう。隣国フインランド゙に家族で出かけた時の
事である。国境には厳重に管理された無人ベルト地帯があり、そこを車で通過する者は可及的速やかに通過
しなければならない事になっていた。

そのことを心がけ運転しているうちに、小用を催し一時停止せざるを得ない事態になった。道路から多少入った所
まで行くと、眼前に何やら見慣れない偽装を凝らした小山のような物体が現れた。目を凝らして見ると長い筒の
ような物が突き出ている。戦車がカムフラージュされて隠されていたのである。

小用もそこそこに兵隊などに見つからぬよう車に帰り、運転を続けたが冷静になって道路標識を見ていると、
何とも道路標識とは似ても似つかない標識が等間隔で出てくる。次の不明標識でストップして子供と一緒に道路
際を分け入ると、果たせるかな又戦車が隠されていた。

あの標識は戦車の隠し場所を示す標識であった。隣国との間に一旦緩急あれば直ちに戦車部隊が動き出す態勢
である。正に危ない橋にさしかかった瞬間であった。この事実をモスクワ、ヘルシンキの日本大使館に情報として
流し、フインランド国防省にも資する事となった。

以上在モスクワ時代の忘れ得ぬインテリジェンス活動の一端をご披露する。その後のマニラ大使館時代の対ソ
情報蒐集でもかなり危ない橋を渡り掛けたが、これら情報蒐集上のリスクは全部個人の責任において実行され
るものであり、国としては一切責任を負わない。


U 外交とインテリジェンス ―我が国の態勢 

日本国内ではインテリジェンスはタブーであり、ギブ&テイクの世界は分かっているものの大ぴらに出来るもの
ではなかったのも事実である。昨今は我が国のインテリジェンスに対する対応も多少は変化があり、外務省内
にも国際情報局が設置されその任に当っているが、警察庁・防衛省・法務省 等にもかかる機関が設置され、
インテリジェンス対応の窓口となっている。 

これらの機関は国家安全上不可欠な機能であるにも拘わらず、冷戦時代は特にタブー視され前述のごとく細々
と個人の責任において行っていたに外ならない。 

さてソ連が崩壊し冷戦時代が終わりを告げると、インテリジェンス対応はまた当然の事ながら変化を来した。 

脅威の拡散とグローバル化、テロ、大量破壊兵器の拡散防止ビジネスの多国化に伴うビジネス・インテリジェンス
の管理等、冷戦下では考えられなかった事態に対応せざるを得なくなってきた。 

これはコンペテイヴ・インテリジェンスとも呼ばれ、大幅な組織変更を余儀なくさせられた。 これは日本に限った
ことではないが、情報管理上困ったことは縦割り行政の弊害である。各国とも情報の共通化がなかなか実現
できていない。A省で取った情報はその省で抱え込んでしまい他省にはなかなか届かない。アメリカに於いても
同様であり、前アメリカ国連大使であったネグロポンテ氏が各情報機関を束ねる責任者のポジションについた
ものの、何時しか又国務省に戻ってしまっている。

日本もようやく1998年内閣情報会議等を設置し情報を束ねる方向に向かいつつあり、日本版NSCも中間報告
にまで漕ぎ着けている。情報の蒐集には人的情報、信号情報、画像情報(humit,signit,imagit)と三本柱があると
されているが、人的情報源(humit)がその最たるものと考えられる。 そうであればその秘密保護体制を如何に
構築していくかは大変大きな問題と目される。 スパイ防御法等も整備されていない日本においては、今後
大きな議論の的となるであろう。 


V 国家の尊厳とインテリジェンス

歴史上各国のトップが絡んだインテリジェンス事件を見てみると、まず東西ドイツの融合に心血を注いだ西独
ブラント首相の事件がある。 

長年首相の下で働いていた秘書が実は東独のスパイで゙あったことが露見し、約二週間後に彼は職を辞している。
英国のプロヒユーモ事件もナイトクラブで知り合った女性がKGBコネクシヨンであったらしいという疑惑からその
職を辞している。 

戦中のゾルゲ事件では、ゾルゲが在東京ドイツ大使館や日本政府より信任され、ソ連のための情報活動を
行ったが、遂に露見し日本官憲により処刑された。なかでも1941年6月21日の独軍ソ連侵攻の情報は、
その正確さから時のスターリンを驚愕せしめた。

翻って現在の日本はどうであろうか。前述のように日本のインテリジェンスに拘わる言動はまことにタブーで
あり、この禁を犯すとやれ警察国家の萌芽であるとか特高の再来とか非難が起こることは必至である。
当時の大新聞はあまり触れていなかったが、橋本元首相の周辺に中国人女性の影がちらつくとの報道が
あったのをご記憶であろうか。 

その後判明したところによると、この女性は明らかに中国公安当局の関連スタッフであったとのことである。
 しかしその後のこの問題に対するジャーナリストの扱いは周知の通りで話題にもならなかった。 

これも又インテリジェンス・タブー のなせる業なのか? 国家の尊厳とゆう点から見ても心許ないように思われる。

現在に至ってようやく安倍内閣は憲法問題・集団自衛権の問題を議論の場に持ち出そうとしているが、
憲法第九条の問題はさておき集団自衛権とインテリジェンス・タブーの問題をどのように解決して行くのか
今後を見守りたいものである。


Q 共産主義は資本主義のまえに崩壊したと理解して良いのか? 

A 現在一番問題になるのは中国であるがマルクス・レーニン主義とはほど遠い状態にあるのは周知の事実。
 経済は欧米型の市場経済を容認し政体は許す限り一党独裁の現行状態を保ってゆきたいのが本音ではないか。 
はっきりしたマルクス・レ−ニン主義を貫いた政体は存在しなかった。

Q 先日訪日した温家宝首相の発言のなかで戦略的パートナーシップという言葉が聞かれたが、戦略的パート
ナーシップとはどのような意味に用いられたのか?


A 最近色々な国家間で戦略的云々という言葉が用いられるが、殆ど具体的に詰めた意味の言葉ではない。
 現在狭義のインテリジェンスを問題にするなら、中国は正にその該当者であり刻々と情報蒐集態勢を固め
つつある。これに対し我が国はいかに対抗してゆくのか問題は山積している。過日の上海領事館の自殺者
問題等の場合、在日中国大使館のスタッフの国外退去を求めるぐらいの対抗策は外交の常識とされている。 

Q 北方領土問題―終戦時におけるソ連の不可侵条約破棄及び参戦についてはどう解釈するのか? 
ソ連からの説明はあったのか?


A 本題から離れた質問であるので別の機会にお話ししたいが、この問題は大変厳しい状態にある。
 日本政府の発言は四島一括返還で終始統一している。 動きがあるまで見守るほかなし。                                                                    (文責  野崎博多)
―欅友会HPへ―http://www.geocities.jp/viva_keyaki/Hyoudou074.htm
(jackamano@mpd.biglobe.ne.jp Tel&Fax:042-325-0025)

欅友会 ;国分寺市市民大学講座同窓会で創った一般市民の生涯学習の会

国分寺市国際協会(KIA)事務局営業時間 :月-金 9:00AM〜5:00PM
〒185-8501 国分寺市戸倉 1-6-1:042-325-3661 Fax:042-325-3669
Email: kia@mrj.biglobe.ne.jp



マルクス・レーニンの幻想   兵藤 長雄   ワード変換

私が大学に学んだ1950年代後半は、マルクス・レーニン主義の全盛時代でした。大学には「資本論」
や「帝国主義論」を読まねば人にあらずといった雰囲気が漂っていました。大勢に遅れまいと「資本論」
を古本屋で買って読み始めたところ、予備知識の無い自分にとっては歯の立たない難解な文章で、
七転八倒したのを想いだします。途中で「共産党宣言」を読んで、やっとマルキシズムなるものが少し
解ってほっとしたものです。

大学の中には、米帝国主義者が明日にでも戦争を始めると言わんばかりに煽り立てる先生も居ました。
社会文化系の教授陣はマルキストが優勢で、授業もマスクス経済学はじめ、唯物史観などを叩き込ま
れたものです。
しかし、人類の理想に向けて進んでいると教えられたソ連と、実際に新聞、ラジオが報ずるソ連の実態との
ギャップが大きいのが次第に気になり始めました。例えば、平和愛好勢力ソ連と戦争勢力アメリカの対比が
強調される中で、1956年のハンガリー事件が起こります。

そのような中で、自分自身の目でソ連という国、社会の実態を直接見てみたいという欲望が強くなっていきました。
その頃、若い世代の小田実氏の「何でも見てやろう」という世界見聞記がベストセラーになったりした時代でした。
しかし、当時は共産党や社会党の後押しでもなければ、モスクワ大学に留学することは不可能な時代でした。

結局、外務省に入ってソ連の専門家になる道が一番手っ取り早いことが判ってきました。外交官は若い頃から
漠然と憧れていた職業でもありました。
外務省試験は第一回目は落ち、留年して二回目になんとか合格通知を受けることができました。しかし、
外務省に入って果たしてソ連の専門家にしてもらえるのか、という不安が大きくなりました。そこで意を決して
外務省の人事課長に面会を求めて会いに行ったのです。当時は須之部量三課長という大変立派な人格者で
した。 私は外交官試験を受けた動機について正直に話をし、「外務省に入省したらソ連の専門家にしていただ
けるでしょうか」と単刀直入に質しました。「君にソ連の専門家にすると、ここで約束するわけにはいかない。
しかし、君の話と熱意は判った。それ以上のことは言えない。」これが人事課長の答えでした。この後、迷いなが
らも「君の熱意は判った」という一言に賭けて外務省に入りました。

入省後、須之部課長より「ソ連の専門家になりたいという君の熱意を容れてロシア語を研修してもらうことにした。
ついては英国の陸軍学校でロシア語をマスターして欲しい」と言われて度肝を抜かれました。ここはソ連を対象
とする諜報将校養成コースの候補者に、徹底的にロシア語を詰め込む特殊な語学学校でした。英国での研修を
終えて、三年目をモスクワ大学で研修できないかという私の秘かな願いは、ソ連当局の峻拒にあって実現しませ
んでした。 そこで、研修最後の一年は、モスクワ大学志望の受験生に公開されていた夜間の予備校講座に潜り
込みながら、モスクワや外国人にも旅行が許されていた地方のソ連社会の実態を、できる限り観察し、把握する
ことに専心しました。これこそ私が本来求めていたことでした。そして日本の大学で抱いたマルクス・レーニンの
幻想と日々の生活の中で具体的に見る現実との格差の大きさに改めて驚き続けました。

四十年近い外務省生活では何処に勤務していても、ソ連は基本的な関心事でした。その間、ソ連の社会自体も
大きく変わっていきました。今でも印象に残っているソ連のインテリとの会話があります。マルクス・レーニンの幻想
について議論していた時、彼がマルクスの理想に最も近い社会を実現したのは実は日本ではないかと言ったのです。
高度成長期の日本では、労働者階級の所得は確実に上昇し、所得格差の最も少ない平等社会が現出しつつある
というのです。形式主義にとらわれない慧眼だと感心しました。

私がライフ・ワークと決めて外務省に入った、その対象そのものが消滅することになるとは、夢想だにしなかった
ことでした。熱弁をふるっていた多くのマルキスト達の素早い、見事な転身も驚きでした。ソ連が崩壊した今、
大学時代から追い続けたマルクス・レーニンの幻想とは結局、何だったのか。学生であった私の純な心を惹き
つけたもの、それはマルキシズムの根底に流れるヒューマニズムだったのではないか。マルクスもレーニンも、
各々生きた時代の矛盾、暗黒面をえぐりだし、それを理論化して理想的な人類社会を希求しようとした。搾取や
戦争で虐げられた弱者への激しい憤り、これに多くの若者の心が惹きつけられたのだという気がします。
                                    (了)
 
兵藤長雄:ユーラシア研究所研究所理事、元外務省欧亜局長、元駐ベルギー、ポーランド大使 
「 視点」 ERI21より   http://www.eri-21.or.jp/other/
方領土問題教育者全国会議・特別講演:平成19年3月17日 東京弘済会館 

━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…
領土交渉の後退と教育者会議への期待」   
ワード形式
         領土問題対策協会研究会委員     
         東京経済大学 教授          兵藤長雄 氏

、ロシアはプーチン大統領が二期目で、大変な変身をしつつあります。二週間前にも地方選挙が
ありましたが、プーチン政党の圧勝で、支持率は八一l。加えて経済は以前好調です。
それを背景にして保守派が巻き返してきて、大国主義が色濃くなってきている。かってプーチン
大統領の下で仕事をしてきた補佐官が、「ロシアは今や全く別の国になった」と新聞に書きました。
そういう中で対日姿勢も急速に硬化して、北方領土交渉も大幅に後退しています。

2005年、プーチンが来日した時に、北方領土問題についてはコミュニケなどの文章すらも作れなかった。
前代未聞のことです。それくらい姿勢が厳しくなっています。プーチン政権は、日ソ国交回復交渉を
始めた五十年前の頃に逆戻りしたとさえ思われます。日本への姿勢は一般的に硬化している。
ロシアと正式な契約で開発を進めていたサハリンの天然ガスの開発も、環境問題を理由に許可を
取消され、或る意味では液化ガスプラント事業を乗盗られたということになります。ソ連時代には
なかったことです。プーチンはソ連時代にもしなかったことをやったのです。あの漁船員の射殺事件
についても、以前には威嚇射撃ということはありましたが、あの事件では十数発もの実弾を打ち込んだ。
これもソ連時代にはなかったことです。プーチンが、この一月にインドを公式訪問しました。
その帰路にウラジオストックに立ち寄った時、重要な演説をした。「これからロシアは極東の開発を
重視する」として、「五年間に、日本円にして四、六00億円ぐらいを投資する。最高責任者として、
首相をその任に当てる」と。これは大変なことです。

私は昨年9月に、対話集会のためにサハリンに行きました。ロシア側は、これから北方四島のインフラを
本格的に開発して行くことを強調しました。尤も、過去にも同じ事は言っていましたから、いつものことかと
思っていましたら、今回はプーチンお墨付きの予算の裏付けがあると言う。ということは、極東重視という
ことが、いよいよ本格化してきた、という感じを持ちました。そうなると、ロシアの日本に対する姿勢は
一段と高圧的になる可能性があります。

では、何故これほどにロシアの姿勢が高圧的になるのか。ご承知の通り、過去十年以上、日本からは
間違ったシグナルが発信し続けられてきました。最近の例では、麻生外務大臣が質問に答える形の中で、
「北方四島を面積で等分すると、択捉島の南の辺りで線を引くことになる」と発言。こともあろうに日本の
外務大臣の発言でしたから、ロシアはそれを受けて「今や日本政府の姿勢も変わった」と受け取ります。
それがために大きな誤解を生んでしまいました。

外交交渉には「落とし所」と言われるものがありますが、交渉当事者が具体的な妥協論を交渉中に口に
出すということは外交常識ではありえないのです。ロシアはいろいろなことを言いますが、交渉の手の内は
絶対に明かしたことがありません。ロシアの要求は厳しくなることがあっても、落としどころは一度も言って
おりません。それにも拘わらず、今言ったような誤ったシグナルが日本側から先に発信されているのです。
それからもう一つは、小泉首相が昨年、ロシアの「対独戦勝六十周年祝賀式典」出席のためわざわざ
モスクワに出かけましたが、私自身はそれに産経新聞でロシア大使と公開論争をして反対を唱えました。
その日本の首相が、一方で「北方領土の日」の全国民大会には二年連続欠席したのです。これをロシア側
はどのように受け取ったか。

このように日本側からの間違ったシグナルも手伝って、ロシアはどんどん高圧的になりました。その一方で、
日本には「もう北方領土を返して貰えるのか、四島返還の可能性は無くなったのではないか。いつまで
頑張ればいいのだ。二島という声が出ているのなら、この際それで手を打ったらどうか」、等という声が、
国会も含めてジャーナリズムの世界などで聞かれるようになってきました。

北方領土が返る見込みはなくなったのか、という点について私の四十年間外務省で領土問題に関わった体験
から言うと、そんなことはない。ソ連時代もロシアになってからも、ロシア側は日本の国内の動き、同時に世界の
動きをよく見ています。日本と中国が国交を回復した、或いは福田内閣時代に日中平和友好条約を結ぶ、
そういう時にはグロムイコが来日したり、話し合いましょうと言ったり、或いは田中首相が訪ソした時には、
ブレジネフが「領土問題は存在する」と公言しました。そのように世界の政治情勢をにらみながら敏感に態度を
変えて来た、というのが私の体験です。
振り返って見ますと、基本的に「領土問題は存在せず」というソ連時代の姿勢が変化したのは、ゴルバチョフの
訪日前後からです。当時私は、欧亜局長の職にありました。その後一九九三年、エリツィンがやって来て「東京宣
言」が出ますが、 あの時は領土問題の窓がかなり開きかけた時期だったと、今でも思っています。

昨年のことですが、ゴルバチョフ時代に政権内部に居た人達で行われた北方領土問題に関するフリーディスカッション
の中身を暴露するような本が出ました。その中で、当時のゴルバチョフの補佐官の一人が、「日本の主張は
正しい。だからいずれは四島を日本へ返さなければならない」、というようなことを主張したと書かれているのです。
それからシュワルナッゼという政治家が居ました。ゴルバチョフ時代の外相をした人ですが、「独裁が迫りつつある」
と言って突如外相を辞めた人です。それから、グルジァの大統領になりましたが、外相を辞めてから当時の中山外相に、
「自分は日本の主張が正しくて、最終的には四島を日本へ返さざるを得ないと思っていた」と述懐しているのです。

ゴルバチョフが訪日後の八月クーデターで実権を失い始めました。それか
ら半年間、ソ連が崩壊する迄は二重権力構造でした。ゴルバチョフがソ連の
大統領、エリツィンはロシア共和国の大統領、二人の大統領という時期に、
私は中山外務大臣のお伴で訪ソしたことがありましたが、その時ルツコイ・
ロシア共和国副大統領のオフィスに行った時に、腰を抜かすようなことがあ
りました。副大統領の執務室に地図が掛けてあり、その中の北方四島は日本
領土の色になっていたのです。日本領土として色づけしてある地図を公の執
務室に掛けて居たというのは、象徴的なできごとです。この時こそは領土問
題が前進できる機会だと思いましたが、不運な事にエリツィンの健康問題が
浮上しはじめていました。それにエリツィンの政治基盤の脆弱さ、それに対
する保守派の巻き返しということがあって、北方領土問題は再び逆流し始め
ます。

ではそうなった以上は、北方領土問題解決の可能性の窓はもう開かないの
か。私は決してそうではないと思います。何故なら、国際情勢というものは、
私達の想像を超えた動きをします。振り返ると一九四九年、中華人民共和国
ができて、ソ連と永遠の誓いをたてた。中ソの間で永遠に戦争は起こり得な
いという雰囲気でした。それがいつしか中ソの国境争いで、互いに大砲を撃
ち合うようになりました。誰が予想し得たでしょうか。さらに、私はヨーロ
ッパ勤務が長かったのですが、ドイツ再統一などは当時は全く考えられない
ことでした。西側でも「統一させてはならない」とまで陰で言われていまし
た。更に又、ソ連邦の崩壊など、とても考えられないことでした。それが実
際に起きてしまったのです。そういうことが今後とも無いとは誰も言えませ
ん。それが国際政治の歴史が教えるところです。私は、四十年に亘る外務省
での体験から、今でもこのことを確信しています。

では、何故、我々は北方領土の返還を要求するのかということですが、そ
れについて、子供に教える以前の問題として、大人の意識そのものが混乱し
てきています。ですから子供たちはきちんとしたことを理解することができ
ていません。どういうことかと言いますと、私は日本の経済界の人々ともい
ろいろに付き合ってきましたが、その財界人が私に言いました。「兵藤さん、
どうしてあんな北方領土にこだわるのですか。あそこにどれだけの経済的価
値があるのですか」と、こんな質問を何回も受けました。つまり日本の財界
人は、そのレベルの意識で北方領土を考えているのです。ソロバンを弾いて、
価値がないものは要らない。仮に日本に戻って来ても、大変な投資をしなけ
ればならない、何の得があるか、そういう発想です。

その他にも、最近、中国とロシアが、長年の国境の紛争地域を半々に分け
合って国境問題を解決した例があります。日本も同じようにしたらいいでは
ないか。或いはヨーロッパでも、国境紛争について解決した例がいろいろあ
るが、大方五十・五十でやったではないか。このような論が出てくるのは、
北方領土問題の基本的な所を理解していないがためです。中ソの国境問題は
歴史の中でいろいろに変遷しているのです。清時代の中国、帝政ロシア時代
に国境線はいろいろ変わっているのです。またヨーロッパに目を向けて見て
も、例えば独仏国境地帯はある時はフランス領であったり、またある時には
ドイツ領であったりしています。そういう外国の事例と一緒にして見てしま
うというのは、北方領土問題についての基本的な問題を押さえていない証拠
だと思います。

北方領土問題の本質は、国家の尊厳の問題です。子供に話す時に、その本
質に触れることは大事なことですし、歴史の事実が大切です。例えば北方領
土に上陸してきたソ連兵が真っ先に言ったのは、「アメリカ兵はいないか?」
「アメリカの国旗を見なかったか?」ということだったという証言が沢山あ
ります。何故かと言いますと、もともと北方四島は、アメリカが占領統治す
る地域内であることをロシアが認識していたからです。更にこの証言に負
けず劣らず大事な証言がありながら、実はなかなか紹介されず、教材にも乗
らない証言があるのです。

それは終戦になりまして、スターリンがカムチャッカ駐在のオルロフ参謀
長に対し、千島列島の武力解放を命じます。それを受けて北の方から武力解
放するということで、シュムシュ島からずっと南下して来ます。その時にソ
連側は地理的事情が分からないので、日本人の水先案内人を付けます。選ば
れたのが水津満という陸軍参謀でした。この人がその時の体験を本に書い
て残して居りまして、今その本を皆様にご覧にいれるように回覧します。
其処に大事な証言が書かれています。水先案内人としてオルロフ参謀長の艦
船で一緒にずっと南下して来て、次は択捉島だと思った時に、その船団が一
八0度方向転換をして北の方へ戻り始めた。「次が択捉島だが行かないのか」
と言ったら、オルロフは何か文書を見ながら、「自分の任務は此処迄で、エ
トロフから南はアメリカの占領下だ。だから自分の任務は此処迄で終わった
から引き上げる」というわけです。引き上げて帰った二週間後に、オルロフ
はよくやったと評価され、二階級の特進をして表彰されているのです。もし
も、スターリンの訓令が北方四島にまで及んでいたのだとすれば、オルロフ
は訓令をきちんと履行しなかったとして首になった筈です。シベリア送りで
す。これは、当時のスターリンの訓令、これはソ連の外務省の意見に基づい
て作られたものだと思いますが、それは今皆さんが生徒達に教えておられる
ような歴史的事実や条約、外交文書を踏まえて、四島は日本固有の領土だか
ら、ソ連が占領する地域の対象外になるんだということをソ連が認識してい
た何よりの証拠です。私はそのことを水津参謀から直接に聞きました。それ
は是非本に書いてくださいと頼みました。そうやってできた本が、今皆様の
手元に回覧されている本です。書かれていることは、貴重な歴史の生き証人
だと思います。(「北方領土奪還への道」日本工業新聞社昭和五十四年)
北方領土の問題は、国家の品格に関わる問題で、その点が中露の国境問題
とは違う重要なポイントですが、そのことが明確に説明されないままに、「固
有の領土」ということがいわれますが、その辺の事はもつと具体的に説明す
ることが必要だと思います。いろいろな協定・条約を並べ立てて説明するの
もいいのだけれども、事実の重みという点をもって言えば、今言ったような
事であります。ソ連がしぶといのは、オルロフの艦隊が北上した後、サハリ
ンの別の部隊が四島にアメリカ軍が居るか居ないか四島周辺で懸命に偵察し
ていたことです。どうも居ないらしいと判断して、九月三日にミズリー号上
で降伏文書に署名する時までにと、一気呵成に四島に上陸し、占領したとい
うのが歴史の事実です。夜陰に乗じて突然に家に踏み込まれて乗盗られてし
まったという話で、まさに日本という国家の尊厳の根本に関わる問題で、そ
の認識を持てば結論は自ずから出てくる筈だと思います。

そのような事実をよく知っているのは島民であり、今も周辺で漁業をして
いる方々であります。そして北方領土返還運動を、命をかけてやってこられ
た人々です。こういう人々が中心になって五十年にも亘り頑張ってこられた。
ところが、こうした方々が高齢化してこられました。その一方で、日本政府
の対応が非常に曖昧になっている。日本政府は本当にやる気が有るのかと、
運動を進められてきた人達は疲労感を深めておられます。

戦後の日本を振り返りますと、沖縄返還までの間は北方領土の問題がその
影に隠れていました。その中で「あれは根室の問題だ、北海道の問題だ」と
いうような声が出てきました。本日の皆さんのご報告の中で、生徒さんから
「北方領土問題は北海道の遠いところの事なので・・・」云々という声があ
ったというお話でしたが、そういう感じ方は子供だけではないのです。今で
もそう思う大人が沢山居ます。北方領土のことは根室・北海道の問題で、自
分とあまり関係ないというような意識です。これは実は国家の尊厳に関わる
問題だということを納得すれば、全国民の問題になって行くはずです。
教育界では、北方領土問題を騒ぐのは反ソに繋がるという日教組の姿勢も
あり、何かと圧力を受けた。北方領土問題の授業をやりたいのだけれども、
そういう否定的な空気の中でやりずらいという声は、当時、私も随分耳にし
ております。そのことを思えば、今日はこうして教育現場の実践者ご自身が
全国から集まれるようになっているということは、大変な変化でありますが、
それでもなお未だにソ連時代の残滓のような空気があるというお話でした。
そういう偏見がどうして生まれたかと言いますと、この問題の本質がオープ
ンに議論されない儘で、北方領土の主張や教育は反ソに繋がるという流れで
走って来てしまったということです。

ここで政府が、根本論にもどり、国の尊厳に関わる問題だということを再
確認し、まず政府自らが、口先だけでなく具体的にその姿勢・態度を示す必
要があります。本当にそういう問題であるなら、何故北対協は年々予算が減
らされるのか。国の根幹に関わることを進める団体に対して、何故他の一般
的な団体と同様にしてしまうのかということです。

国家の尊厳ということでは、竹島問題も変わりません。しかし竹島問題に
北対協は関わることができません。日本の政府・外務省は、竹島問題につい
てパンフレットを作ったことすらない。しかたがないから、島根県が自腹を
切って冊子を作っている現状です。政府・外務省は作っていないのです。こ
こで姿勢をきちんとして行くということの中には、そういう領土問題を一本
化して、少なくとも北方領土問題と竹島問題は一本化して、北対協は領土問
題対策協議会に拡充し、政府も一括して対処するようにならなければならな
い、私はそう考えます。ところが国会内には、沖縄・北方対策委員会という
時代遅れの組織が未だに残っているのです。そろそろ此処で本気に考えない
といけない時です。

私が四十年間ソ連・ロシアを見て来て思いますのは、北方領土問題返還の
可能性の扉は閉ざされてしまってはいないということです。先に紹介したと
おりに、ソ連時代の外務省の担当者が「いつかは返さなければならない」と
漏らしたことなどを考えると、まだまだ可能性は閉ざされていないのです。
そのために必要なのは、先ずはロシアとの信頼醸成。四島ビザなし交流も大
きな力です。或いは今は北海道の公立病院がしている四島ロシア住民の急患
の医療行為を、根室に国の総合病院を設立してそこが対応する。地方の病院
不足は全国的な問題ですが、根室地域も深刻です。そこに友好を兼ねた病院
を建てることを通じて信頼醸成を推進する。

或いは配布資料に、「機会の窓を開く忍耐強い戦略」と記しましたが、要
するに日本側が、ロシアの内外情勢や国際情勢を正確に、冷静に判断しない
ままに動く愚を繰り返さないことです。例えば、エリツィン・橋本会談での
エリツィンの多分に思いつき的な発言、「二000年までに解決する」に飛
びついて、これをプレイアップして国民に幻想を抱かせてしまい、それに自
縄自縛になって、そう打ち出した以上は「なにがしかの結果を出さねば」と
焦って、「川奈提案」なるもの、大事なカードの一つを切ってしまった。拙
速の愚策です。

麻生外務大臣も「プーチンの間に問題を解決しなければならない」と言わ
れますが、これはそういう質の問題ではないということです。つまり、今の
政権の間に解決したいとか、自分が外務大臣の時に、といった様な姿勢で云
々できる性格の問題ではないということです。今後、ロシアにそれ相当の指
導者が現れ、そしてゴルバチョフ時代に見られたように国際情勢が大きく転
変して行き、その中でロシアが、もう一回この問題を考え直す時が来る、そ
のとき迄忍耐強く頑張る、そういう戦略が大事です。
しかしそれ以上にもっと大事なのは、その時になってそういう可能性の窓
が開かれる時になって、その時に、実は日本の方が「あれはもうどうでもい
い」というような空気になっていたならば、ロシアはもう絶対に返しはしな
いということです。

ロシアは日本のことを実によく見ております。ロシアの大使館やKGBは、
あらゆる手を尽くして日本のことをよく調べています。それは驚くほどです。
日本の国会議員が、とんでもないことを発言したことがありました。「北方
領土返還運動に関わっている者は、それでビジネスをしている。もとから実
現不可能な要求をロシアに投げつけて、それで金儲けをしているのだ」と、
そんなことを言った日本の政治家が居たのです。それは直ぐロシアに伝わり
ます。大事なのは、長い大きな流れの中での可能性という点に目を向けて、
北方領土問題は他の国の領土問題とは違い、日本の国の尊厳に関わることな
のだ。面積で等分するなどということで、世界の尊敬を得ることはできない。
そのことを次の世代に受け継いで行くことが肝要です。
北方領土問題解決の推進者の間にも、高齢化という問題はあります。いろ
いろな問題は絶えずありますが、本日こうして全国の教育現場の方々が一堂
に参集して、そしていろいろな苦難の中で北方領土問題教育に尽力していた
だいているということを知っただけでも、私は非常に感慨深いものを感じる
次第です。

この問題を長い目で考えて、これを正しく若い世代に伝えていくこと、今これが一番
大切なことだと思います。
     (2007年8月15日更新)
  
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ォーラム・ポーランド Forum “POLSKA”Konferencja 2005: “Powrot do Europy”
「ヨーロッパへの回帰」報告要旨・2005年度シンポジウム資料
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《ヨーロッパ回帰》の夢と現実」
        
兵藤長雄 (東京経済大学現代法学部教授、)

* 以下の報告要旨は暫定版です。日本に帰国する9月下旬に最終的な報告要旨を掲載します。 
  季報・随想集 季報2003年度冬号
  JFSS 日本戦略研究フォーラム〒160-0002東京都新宿区坂町26-19

大学教育での驚き

JFSS 政策提言委員 兵藤 長雄 (元ポーランド駐在日本国大使
[last updated: 2004/02/12 ]

外交の世界に終止符を打って、東京経済大学で若い学生達との毎日を始めてから四年になる。
最近の大学生については、わが子などを通じてある程度のことは承知しているつもりだったが、実際に
授業を通じて今の学生に接してみると、やはり思わぬ驚きや発見にショックを受けることもあった。
ここではその二、三を披露して御批判を仰ぎたい。

大学生活を始めて間もない頃、九時から始まる一年生の少人数の授業(文献講読)に毎回大幅に遅刻
してくる学生がいた。あまりにも度重なるので注意する必要を感じ、ある日この学生を研究室に呼んで
事情を聞いてみて私はショックを受けた。この学生は新聞配達奨学生であった。毎朝二時半に起床して、
彼の受け持ちの朝刊各300部の一つ一つに広告セットを挿入し、それを終えると直ちに配達に向かう。
朝刊は団地でも一軒一軒個別のドアまで届けねばならず、すべてを六時までに配り終えることが至上
命令なので毎朝が必死である。彼の場合、更に午後五時には夕刊配達が待っている。夕刊は広告が
なく、団地では入り口の郵便受けに一括配達が認められるので朝刊より遥かに楽だと言う。

彼は関西に住む病弱な母親に育てられた一人っ子で、母親には彼への仕送り能力はなかった。
だから彼は新聞配達所に住み込んでこのアルバイトをしなければ学業を続けられない。このことを
知った私は、それまでの自分の一方的な思い込みを恥じた。彼には「事情はよく判った。なによりも
健康第一で頑張れ」と激励する以上のことは言えなかった。しかし、これを契機に彼はあまり遅刻し
なくなった。高校時代に肺結核を病んだ体験を持つ私は、それ以降、彼が定刻に登校してくるとむしろ
心が痛んだ。

しかしその後、この事例は極めて例外的なケースであることが段々と判ってきた。遅刻や欠席学生に
理由を聞くと、多くが前日の夜間のバイトで疲れたからとか、バイトと授業時間が重なったからと言う者
が多い。これらの学生は、学資、生活費は親に頼り、アルバイトは旅行など大学生活を楽しむ為と割り
切っている者が圧倒的に多い。まさに学業とアルバイトが主客転倒している感じだ。

四年前、私が大学に移った時には夜間学部の授業を最低一時限受け持つことが全教授の義務であった。
今の大学の前進、大倉高商の創設者、大倉喜八郎は赤貧洗うがごとき苦学を重ねた体験から、
夜学部教育を重視し苦学生を助ける教育を強調した。全教授の義務はこの遺志を継いだものと聞かされた。

私も苦学生の為ならと喜んで体験的な冷戦史の講座を開講した。しかしここでも、昼間それぞれの職場で
働き、夜学ぶという本来の夜学生はむしろ例外であることを知って驚いたのである。殆どの学生はアルバイト
をしていたが、それは学資がないからということではなく昼間学部の入学試験に落ちて夜間学部に入った
という学生も多かった。翌年、夜学部廃止が大学として決定されたのはこのような実情を反映したもので
あった。日本がここまで豊かになったということかも知れない。

十年前ポーランドに在勤した時、ポーランドの代表的な三大学の日本語学科の学生による日本語弁論
大会が毎年開催され、毎回これを聞くことが楽しみであった。多くの学生が短期間の日本訪問の印象を
テーマにした。その中に共通する印象体験がしばしば語られた。日本の美しさや豊かさに感嘆した反面、
大学生が殆ど勉強しないこと、電車やバスで若者が老人に席を譲らないことに驚いたというのである。
私は帰国後、ポーランド学生のこの率直な驚きを、自分自身繰り返し実感している。

それに劣らず驚いたのは外国語の学力の低下である。特に英語力の低下は目を覆う惨状であると言って
も過言ではない。日本の大学生のTOEFLの平均値がアジア諸国の中で最下位に近いことがこのことを
裏付けている。日本の国際化が強調されて久しいのに、語学教育の現実は逆の方向に動いている。
学校教育で会話力を重視するのは結構なことだが、問題の一つは語彙が余りにも貧弱なことだ。偏差
値の高い大学の先生方に聞いても同じ感触を持っているので、程度の差はあってもこれは一般的な
傾向なのだと思う。なんでもいいから英語の本を読んでみようという学生が余りにも少ない。これでは
これから若い世代が国際化の波をどう乗り切っていくのか心配である。

日本語に上達し、英語力もあり、勉学に熱意を示す中国などからの留学生を見ていると、心配はさらに募る。
わが大学生の「豊かさの中の知的貧困」が際立って見えてくる。最近では、英語力の低下は、むしろ
大学教育レベルの一般的低下の流れの一環と見たほうが良いのかも知れないと思うようになった。
「これは所詮、右肩上がりのこれから伸びる国と繁栄の頂点を過ぎた右肩下がりの国の違いさ」と
達観する人もいるが、果たしてそうなのだろうか。

最後に中・高等教育にも関連する問題を一つ。担当科目の一つ、国際法の授業で、私は日本が抱える
領土問題についてかなり詳しく学習することとしている。そしてその際、中・高等学校で北方領土、尖閣諸島、
竹島問題について先生が授業で取り上げたか否かを受講生に聞くこととしている。高等学校の教科書では
これらの問題は必ず取り上げられている。にもかかわらず、実際に教室で領土問題について先生から教
わったことがあると答える学生は殆んど無く、極めて例外的である。

 皇室についても同様である。過去四年間という僅かな経験ではあるが、大学入学以前に、学校の授業の
中で先生から皇室について話を聞いたことがあるという学生は、私の知るかぎりゼロである。だとすると
大学で憲法の授業でも受講しないかぎり、皇室について勉強する機会は全くないことになる。  日の丸、
君が代については学校差があるとは思うが、この四年間、私の大学では、創立百周年記念などの式典や
行事が行われる時、大学の校旗は掲揚されても日の丸を見たことはない。

外交の世界に長年身をおいてきた者にとって、このような国家としての基本的な問題が、多くの学校教育の
中で、真正面から取り上げられず、忌避される傾向が今なお強いということはやはり驚きであった。
私の知るかぎり,そのような風潮を持つ国は,今日,わが国以外にはない。 ( 随想集の目次へ1999年6月1日)


総合研究大学院大学 教育研究企画室 学生厚生係
〒240-0193神奈川県三浦郡葉山町(湘南国際村)TEL 046-858-1525/1526
FAX 046-858-1541  E-mail kousei@soken.ac.jp


諜報活動と国家の尊厳……………東京経済大学教授 兵藤長雄 「正論」
中央公論新社

兵藤長雄 【特集】 政党不信――再生の道筋をさぐる 〈欧米から周回遅れの日本の政党〉 政党の解体過程は
あと一〇年は続く
■ Japan On the Globe(323)■ 国際派日本人養成講座 ■
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地球史探訪: 日本・ポーランド友好小史 遠く離れた両国だが、温かい善意と友好の関係が百年も
続いてきた。
■---------JOG ホームページ ワン・ポイント ガイド-----------
 弊誌のホームページの左下にキーワード検索の窓があります。人名や国名、出来事、問題など、
なんでも入力してみて下さい。関連する本誌のすべての号の該当箇所が表示されます。
      http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm

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参考論文:拉致問題」と東アジアにおける冷戦構造の崩壊
                      藤岡信勝(自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授)

九月十七日の小泉首相訪朝後、拉致問題を中心とする北朝鮮問題が大きな展開をとげている。
これは、日本の将来を決める極めて重大かつ深刻な問題であり、直接に歴史教育にも関わる
テーマである。今後数回にわたって、本誌上で私見を述べてみたい。

八月三十日、日朝首脳会談が平壌で行われることが発表された。この時、私の周辺では「小泉に
金正日と渡りあえる外交能力があるはずはない」として、会談は日本側にとって必ず惨憺たる結果
に終わるだろうと見る人がほとんどだった。

この点についての人物評価では、私には異論はなかった。私も、第一報に接した瞬間には、
これは小泉を失脚させるための誰かの陰謀だろうとすら思ったほどだ。
その後、注意深く情報を検討してみると、これはどうやら背景に米中合意があり、その了解の上に
立って小泉の訪朝が仕掛けられたものではないかと思うようになった。

周知の通り、アメリカはイラク対策で精一杯だ。今、北朝鮮に暴発されることはアメリカにとって一番
都合が悪い。そこで、拉致問題を抱える日本に北の相手をさせておくことで時間稼ぎをしようとアメリカ
は考えたに違いないと私は思った。
そのつもりで各国首脳の動静をチェックしてみると、アメリカのアーミテージ国務次官補が中国に行き、
その帰り八月二十七日に日本に立ち寄って小泉首相と福田官房長官に会っている。その直後の訪朝
発表である。これほど重大な方針を日本が独自に発想できるはずもなく、また、アメリカとの事前協議
なしに単独で決断できるはずもない、と私は常識的に考えたのだ。「できるはずもない」だけでなく、
「してはならない」というのが私の判断だった。

今から振り返ってみると、私のこの見方は大変な間違いだった。小泉訪朝の方針は百パーセント日本
のアイディアだった。小泉は外務省の田中均アジア大洋州局長にそそのかされて、今年の五月にすでに
訪朝を決意していた。また、事前の日米間の協議も行われなかった。これは戦後の外交の常識から
は考えられなかったことである。

アメリカ政府は一応、日本政府の方針を支持する姿勢を見せたが、アメリカのメディアは日本の単独
行動に極めて批判的な論調を展開した。これは、いわれのないことではなかった。

そもそも日朝首脳会談を言い出したのは、北朝鮮である。北はすでにかつての人口二千二百万人中、
推計餓死者四百万人に達し、社会は崩壊寸前である。普通の国ならとっくの昔にクーデターが起こって
政権は転覆しているのが当たり前である。しかし、がんじがらめの秘密警察と密告制度に支えられた
金王朝独裁政権は、イデオロギーによってではなく、テロの恐怖によって支配を維持している。しかし、
体制の危機は、金王朝の国民支配の最大のよりどころである軍隊の家族にまで餓死者が出るに及んで、
猶予のならないものとなった。

断っておくが、金正日は社会主義経済の本質とみずからの愚劣な経済政策の失敗によって国民を食わ
せられなくなったから体制の危機を感じているのではない。もしもそうなら、最大の危機は極端な凶作に
見舞われた一九九八ー九年にすでに感じられていたはずだ。彼は国民が餓死することに何の痛痒も
感じていないだろう。そうではなくて、支配の基盤である軍を養えなくなったから金正日は体制の危機を
感じているのである。

かつての援助国であるロシアからも中国からも援助を得られなくなって、金正日は唯一の金づるである
日本に目を付けた。今、判明しているところでは、すでに二年前の森内閣の時代に、北朝鮮は日朝首脳
会談を持ちかけていた。この時は、外務省が森首相の当事者能力に危惧を持ち、流したと言われている。

小泉政権になって、今からちょうど一年ほど前に、北から再び首脳会談の申し入れがあった。水面下で
これを推進したのは、外務省の田中均アジア太平洋局長と平松賢司北東アジア課長である。
ついでに言うと、この二人は、昨年十月の日韓首脳会談の際に、小泉首相に「扶桑社の教科書の
採択率が低かったのは日本国民の良識の現れ」と言わせようとたくらんだ当人たちである。

首相官邸でこの構想を知らされていたのは、福田官房長官だった。安倍晋三官房副長官は、なんと
八月三十日、小泉訪朝発表の朝までこのことを一切知らされていなかった。田中は、日朝国交正常化
で世間の批判の矢面に立たされている外務省の名誉回復を図るとともに、自分自身の外務次官就任を
確実なものにしたかった。福田は次期の総理大臣の椅子を狙っている。田中ー福田ラインでことは綿密に
進められた。この構想に小泉を乗せることができるかどうかが苦心のしどころだった。経済政策で支持率が
落ち気味の小泉は、人気回復を狙って必ず乗ってくると田中ー福田ラインは踏んだが、その通りになった。

この構想が一年前から進んでいたということがわかってみると、この間のいろいろ不可思議な出来事が
理解可能となる。

第一に、昨年十二月に奄美大島沖で起こった不審船事件で撃沈された船舶の引き上げと徹底した調査が、
なぜこれほど遅れたのかという問題がある。日朝交渉がつぶれないように田中ー福田ラインが押さえ
込んだのである。

第二に、潘陽事件で責任者の田中局長がなぜ処分されなかったのかという疑問。答は言うまでもない。

そして第三に、日朝首脳会談公表後に、能登沖で発見され逃走した不審船は明らかに日本の領海内に
いたはずなのに、発表を意図的に遅らせたと思われるのはなぜか。これも日朝首脳会談をぶちこわさない
ための小細工である。

私は、この事件は、金正日が日本の田中ー福田ラインが日本の政権内でどれだけ実質的な権限を持って
いるかを小手調べしたものだと思う。北の独裁者は、日本政府の対応を見てほくそ笑み、「これなら大丈夫」
と思ったに違いない。会談で日本側に出し抜かれる心配はないという意味である。

日朝会談の席上、金正日は、「田中さんは実にすごい人ですね」と小泉に向かってベタ褒めしたと言われている。
外交は「武器を使わない戦争」である。その戦争で敵国の大将から褒められる人物が全ての舞台回しを取り
仕切っている。これが日本という国の外交の実態である。

日朝首脳会談が発表されてから、様々なコメントが新聞紙上を賑わした。最も肯定的に評価する見解は北岡
伸一東大教授によるもので、最も否定的な見解は「展望のないスタンドプレー」であるとする福田和也慶応
大学教授の見解である。どちらも朝日新聞紙上に掲載された。

九月十七日、小泉首相は予定通り北朝鮮を訪問し、金正日と会談した。席上、金正日は、今まで「デッチ上げ」
だと主張していた北朝鮮国家機関による日本人拉致を初めて認め、謝罪した。北朝鮮の独裁者が、みずからの
国家犯罪をついに自白したのである。これは、おおかたの国民にとって予想外のことであった。

しかし、日朝平壌宣言には、日本の植民地支配に対する謝罪の言葉が盛り込まれ、国交正常化後の日本
からの経済支援の方法までが詳細に描き込まれたのに、金正日が自白した「拉致」の問題は一言も書き込
まれていなかった。田中が原案通り署名させるよう策謀をこらしたのである。(詳細は次号以下に述べる)

このことについて、外務省OBの兵藤長雄東京経済大学教授の論文(読売新聞、九月二十七日付け)がある。
元外務相欧亜局長でベルギー大使などを歴任した兵藤氏は、「実際の会談内容を踏まえて案文を手直しする
のは外交常識だ。特に相手が共産主義独裁国家であれば、(中略)重要合意の文書化は鉄則である」という。
一九九一年のゴルバチョフ大統領訪日の際には、公式行事を次々にキャンセルして真夜中まで九回に及ぶ
首脳会談を行ったが、これは日ソ共同声明の一つの案文をめぐる両首脳の国益をかけた交渉のためだった
という。だから、今回も小泉首相は特別機の出発を延ばしてでも、みずから金正日と交渉して「拉致」を書き
込ませるべきであったという指摘である。相手が言った以上、文書に書き込むのは当然である。そうでなけ
れば首脳会談の意味がない。

首脳会談では、日本側が認定していた拉致被害者を中心として、五人の生存と八人の死亡が通告された。
驚くべきことである。これが明るみに出て、人気回復を狙った小泉と、福田、田中の目算は全くはずれて
しまった。識者の間からも小泉訪朝に関する厳しい評価が出始めた。当然である。

ただ、歴史は全てが当事者の意図通りに進まないのと同様に、逆説的な成果をあげることもある。小泉
訪朝を全体としてどう評価するかは、重要な歴史認識が問われる問題である。

この件につき、最も厳しい評価を発表しているのは、中西輝政京大教授である。同氏によれば、小泉訪朝
によらずとも、北は苦しくなっていずれ被害者を送り返してきたはずだという(『フォーサイト』十月号、新潮社)。
これに対して、「戦後日本外交史上の画期的な勝利」と絶賛するのが、
北岡伸一東大教授である(『中央公論』十月号)。

私は、小泉訪朝自体は評価すべきことだと考える。なぜなら、何はともあれ、それによって歴史のとびらを
確実に押し開いたからである。金正日の「自白」は、東アジアの冷戦体制が崩壊過程に入ったことを意味する。

十年ほど前、「冷戦体制の崩壊」が盛んに喧伝されたことがある。これは実は真っ赤なウソであった。
冷戦が終息したのはヨーロッパだけだった。東アジアでは、何一つ変わることなく冷戦体制が継続していた。
中国は共産党一党独裁国家としてその後も軍備を増強し、北朝鮮にいたっては、南進による朝鮮半島武力
統一のために、核兵器などの兵器の開発に余念がなかった。

こうした現実を無視して、日本国内の保守派の多くは、「もうイデオロギー対立の時代は終わった」などと
称して、共産主義との戦いを事実上放棄してしまった。政界でも保守勢力が分裂した。ソ連を理想の国家
として賛美し、共産主義こそ未来の希望であると吹聴していたマルクス主義者やそのシンパの「進歩的
文化人」、大学教授などの言論責任が厳しく問われることは一切なかった。

東ドイツではマルクス主義の教授はことごとく追放された。中国でもマルクス主義の経済学者が自殺した。
日本では、掃いて捨てるほどいたはずのマルクス主義学者のうち、ただの一人として、自殺者はおろか
職を失った者もいない。彼らはのうのうとして生き延びたのである。

金正日の「自白」は、ヨーロッパにおけるベルリンの壁の崩壊に匹敵する出来事である。これから、
東アジアにおける共産主義体制の崩壊過程が始まるのである。「自白」は、日本国内の左翼勢力にも
決定的な打撃を与えた。今度こそ、取り逃がしてはならない。

  ☆.。..。.:*・ユーラシア21研究所 *・゜☆.。.:*・゜☆

<I> 「ユーラシア21研究所」設立の目的
1.ロシアとの学術交流事業   2.ロシア及び日ロ関係に関する学術研究事業
3.世界の領土問題に関する学術研究事業 4.国際情勢に関する学術研究事業
5.研究成果の発表や政策提言        6.関連研究者の育成
7.その他関連する諸事業

<II> 新研究所の役割
1.知的結集による政官学連携の促進  2.対露外交に関する活発な政策提言

<III> 事業内容
a.世界情勢の研究、とりわけ、ロシアを中心とする旧ソ連圏に関する政治・経済・安全保障等に関する総合研究
b.わが国の対露外交戦略に関する研究と提言
c.ロシア語による、日本の政治経済文化などに関する発信(HPや出版等)
d.ロシア関連若手研究者の人材育成
e.関係省庁、駐日ロシア大使館を含むロシアの諸機関との恒常的な情報交流等
f.関連する国際会議の開催、出版、研究会・講演会などの開催

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