「大和心とポーランド魂」
95年10月、兵藤長雄ポーランド大使が8名の孤児を公邸に 招待した際の、ある
老婦人のコメント ;アントニナ・リーローさん「私は生きている間にもう一
度日本に行くことが生涯の夢でした。 ... 」
「ポーランド魂とやまと心」
兵藤長雄元ポーランド大使
4/29/2001(浜松ワルシャワ友好協会主催)
浜松市アクトシテイの研修交流センター
兵藤先生は1993年から4年間ポーランド大使をされました。先生が赴任当初、
ポーランド在住の日本人の間では、『外務省から凄いエリートがポーランドヘ来た!』と、
大変な話題になったと聞きました。(ポーランドは東欧の片田舎の話題にならない国だったからです。)
兵藤先生のポーランドでの素晴らしい功績の一つ『シベリア孤児の日本とポーランドの善意の
架け橋』は、歴史の中に眠っていた実話を、兵藤先生が目覚めさせたものです。
この感動の実話をまだ知らない日本の多くの方に紹介したいと思います。
講演終了後、先生とお話する機会があり、各国で大使をされた先生に、ポーランドの
魅力ついてお尋ねしましたら、先生は、「ポーランドは、仕事のやりがいのある国でした。」
と話されました。ポーランドに傾倒する私は、とても嬉しかった。
(浜松ワルシャワ友好協会橋事務局長記録、兵藤教授記念講演内容をより)
ポーランド市民交流友の会( Poland friendship:POLJA)
所在地: 本部: ul. Mielczaurskiego 1/48 POLJA, Warszawa Poland
日本事務局: 〒431-1305 静岡県浜松市細江町中川7172-650
Tel.053 522 0692 /fax 053 523 1297 email:mieko@orange.ne.jp
代表者:会長 リチャード ヤブロンスキー 日本事務務局 影山美恵子
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第1次世界大戦が終わり1919年ポーランドが独立国となった直後のことです。
シベリアは、長い間祖国独立を夢見て反乱を企てて朽ちたポーランド愛国者の流刑の地でした。
当時ソヴィエト政権下のシベリア極東地域には、政治犯の家族や独立した祖国ポーランドに帰り
たくても帰れず、混乱を逃れて東へ逃避した難民を含めて10数万人のポーランド人がいたとも
言われています。
人々の生活は飢餓と疫病の中で凄惨を極めていました。わけても親を失った子供達は極めて
悲惨な状態に置かれていました。せめて子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの
悲願から、1919年9月ウラジオストック在住のポーランド人によって「ポーランド救済委員会」が
組織されました。救済委員会の人達が、我々はこのままシベリアで死んでもいいが子供達は
何とか祖国へ返してあげたいと輸送の援助をヨーロッパやアメリカに要請しました。しかし、
ことごとく失敗してしまいました。そこで、最後の手段として民族は違うが、ウラジオストックと
近い日本に頼んでみようと言うことになりました。救済委員会会長は1920年日本に到着、
早速外務省を訪れ、シベリア孤児の惨状を訴え日本政府に援助を懇請しました。当時政府は、
」この話をよく聞いて人道上の理由からこのポーランドの要請を受け入れようと決断しました。
1920年といいますと、ベルサイユ条約でポーランドが出来たばかりで、日本も新しいポーランドを
承認し外交関係を開くことにしていた時代でした。しかし、まだお互いに大使館もない状態でした。
しかもこの救済の要請は、ポーランドの政府からのものではなく、ポーランドの一民間組織からの
要請でした。要請後、わずか17日後にこの要請を受け入れることに決断したことは、今から考えて
も驚くべきことです。
この救済活動には、日本赤十字社が全面的に当たることになりました。また、当時の帝国陸軍も
協力することになり、救済決定がされて早くも2週間後シベリア孤児が陸軍の輸送船に乗せられ
日本に到着しました。何回にもわたってシベリア孤児は日本に送られ、全部で765人になりました。
当時の日本人は本当に暖かい心があったと思います。と申しますのは、初めは子供達だけでしたが、
子供達だけでは不安の面も有り、言葉も不自由であるので、子供10人について大人一人を受入れる
ことにしました。主に女性の方65人を呼んだのです。当時はこれが新聞で大きな話題となり全国から
慰問品や寄付金が送られました。また、お医者さん、理髪店、学生さん達がいろいろなボランテイア
活動して下さいました。
やがてこれらの子供達も健康を回復し、1920年から、日本船に乗せられアメリカ経由で祖国へ帰る
変かえることが出来ました。帰る際には、この孤児達に洋服や毛糸のチョッキを作ってあげたり、
バナナやお菓子も手渡して上げました。船に乗り込んでからも、孤児達は、君が代を歌ったり、
ありがとう、さようならを連発して別れを惜しんだということです。
そうしてこのシベリアの孤児達は、ワルシャワを始め祖国へ帰り、それぞれの人生を歩むことと
なったわけです。
それから月日がたちポーランドは共産圏に入り、日本側ではシベリア孤児の話はすっかり忘れ
られておりました。私がポーランドへ赴任して、ポーランドに永住している松本照男さんから初めて
この話をお聞きしました。私はそのときのこの話は、大正時代のことでその後の長い月日が流れて
はいるが、まだ生きている方がおられるのではないか。そして何とかしてその孤児の方々とお会い
できないかと考えました。それで私は松本さんと相談したところ、松本さんが色々と探して下さって
12~13人の方々が生きておられることが分かりました。そこで、それらの方々を公邸にお招きした
ところ、8名のかたが子供さんなどに付き添われてきて下さり感激的な対面をすることができました。
祖国ポーランドに日本から帰国した当時のシベリア孤児。これはシベリア孤児のお婆さんが
兵藤先生に贈られた写真。彼女は75年間大切に持ち続けていた。
これらのシベリア孤児達は、既に80歳以上の高齢でした。一人のお婆さんは、車椅子で
お孫さんにつれられて公邸にいらっしゃいました。最初に言われた言葉が今も私は忘れら
れません。そのお婆さんは、『私は今日ここに這ってでも来たいと思いました。私は、生きて
いる間に、もう一度日本へ行ってお世話になった日本の皆さん方に自分の言葉でお礼を
言いたかった。しかし、その願いももう叶えられないと思っていました。ところが日本の大使館
から御招待が来ました。日本の大使館は日本の小さな領土だと友だちから聞きました。
今日私は日本の領土に足を踏み入れることが出来ました。そして日本の代表の方々に
お礼を言うことが出来ました。私の長年の感謝の気持ちを伝えることが出来、もう思い
残すことはありません。』とその場に泣き出されました。私もそしてそこに居合わせた
人々も一緒に泣きました。
私ども大使館でこのシベリア孤児のみなさんにささやかな日本料理を差し上げたところ何
十年ぶりの日本料理だと言って喜んで下さいました。そして当時の日本の思い出を実に
良く覚えておられました。そうした思い出話しを私どもにして下さいました。
以上でこのシベリア孤児の物語は終わるのかと思っていましたところ、阪神大震災が起き、
今度はポーランド側の招きで阪神被災児がポーランドを訪れることになりました。東京の
ポーランド大使館に4年間勤務していた物理学者のフィリペックさんもシベリア孤児の
美談を知った一人でした。博士は大使館勤務中に阪神大震災の惨上を見て、この時こそ
日本への恩返しの好機と判断しました。そして彼は早速、企業、芸術家等を訪れ協力を
依頼しました。日本でも何人かの音楽家や企業、個人がこれに呼応しました。そして2回
にかけて30人ずつの阪神大震災の被災児が、今度はポーランドへ招待されました。
第2回目の被災児がポーランドヘ来られたのは1996年の夏でした。3週間招待されて
いろいろなところを案内されました。そして日本へ帰る2日前にこの話を聞き付けたシベリア
の孤児の方々が是非自分も阪神大震災の被災児に会いたいとフィルペック博士に申し
出れら、私もその場に招待されて立ち会うことなりました。
シベリア孤児の方々は、4人集まっておられました。そして代表者から30人の被災児に
日本での親切にされたことを噛んで含める様に語って下さいました。そして、最後に4人
のシベリア孤児のお老人からバラの花が一輪ずつ阪神被災児の一人一人に手渡されました。
そして、シベリア孤児の目から涙が溢れ、これで恩返しが出来たと語っておられました。
この場に招かれた人々からも万雷の拍手が沸き起こりました。私はこの光景を見て75年
前の大正時代に日本の多くの方々がシベリア孤児に親切にして下さった好意がこうして
阪神被災児に返ってきたことを思いとても感動しました。
(以下省略)兵藤先生はこの他にもポーランドと日本の善意の架け橋となる美談を、赴任
時代の経験からお話頂きました。
これらは、文芸春秋発刊『善意の架け橋』にまとめられています。影山美恵子e-mail:
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ポーランド。現代日本人には、お世辞にもそれほどなじみのある国とは言えない。ショパンや
コペルニクスを生んだ国、ナチスと第二次大戦による悲劇、ワルシャワ条約機構、「連帯」
運動による共産圏民主化発祥の地。一般的日本人は、その程度の認識しか持ち合わせて
いないだろう。しかし歴史をひもといてみると、以外にも我が国と不思議な縁があり、知られざる
強い絆がある。そのため日本人が想像できないくらい、ポーランド人は親日的である。
「ポーランド人は何故これほど親日的なのか」、本書はこのキーワードにもとづいてその答え
を探しているうちに、浮かび上がってきた数々の心温まる話をまとめたものである。たとえば、
日露戦争当時、ポーランドの英雄であるピウスツキ元帥が、時の明治政府に対ロシア共同
作戦を提言、明治政府はそれを受け入れなかったが、ロシア軍人として従軍していた
ポーランド人捕虜に対する特別待遇は、ポーランド人のための収容所を特別に設けて
厚遇したほどだったとか、その後のポーランド人シベリア孤児を救う運動に、日本政府と
日赤が大変な努力を行ったとか。
当時の貧しかった日本人の、異国の民への真心からの行動は、読むものの涙を誘う。
そして、忘れ去られた日本人の高尚な精神性を如実にあぶり出す。しかし高尚な精神性
をあぶり出せば出すほど、一方でそれがほとんどなくなってしまった、今の我が国の姿が
見えてくる。
このような善意の物語がほとんど今の日本人に伝承されていないことは、誠に残念で
ある。教育現場の問題もあろうが、明治大正期の日本人は、こんなに高尚な精神で
国際活動をしていたということを、もっと次代を担う子供たちに教えるべきではないのか。
明治以降戦前の日本が、決して暗い過去のみに塗りつぶされていたのではなく、我々の
祖先がこんなにすばらしい善意の活動をしていたことを、自信を持って教えるべきでは
ないのか。本書は義務教育の課題図書とすべき価値がある。さて本書には、もう一つの
重要な問題提起が含まれている。それは特にポーランドのような親日国に対して、今の
日本は十分な役割を果たしているのか、ということである。
前書きにこんな一節がある。
『私がポーランドに赴任してワレサ大統領に信任状を奉呈したとき、ワレサ氏は信任
状を受け取るなり大変ショックなことを言われました。「連帯」運動を始めたとき、最初の
外国訪問国として自ら日本を選び初めて見る日本に感動した。だからこそ帰国して早速
「ポーランドを第二の日本に!」と提唱し、ポーランドが自由と独立を回復して自分が大統領に
選ばれたとき、そのチャンスが来たと思って日本に熱い期待を寄せた。しかし、ポーランドの
新しい国造りに今こそ日本に助けてほしいのに、日本はそれに応えてくれない。その期待は
裏切られつつある。日本からの来訪者にこう苦言を呈し続けてきたが、もう疲れてきた・・・。
これは痛烈な一撃でした。』
世界には、物心両面で日本の援助を必要としている親日国はたくさんある。しかし残念ながら
ポーランドの例が示すように、それに応えていない、つれないそぶりが日本の現状ではないのか。
どこの国とは言わないが、国民に感謝もされていない巨額のODAを毎年提供している事実もある。
本書は現職の外国駐在大使が書いた、日本外交に対する痛烈な批判ともうけとれる。親しい友人を
大切にするのと同じように、日本外交の基本姿勢は根本から考え直されなければならないと、
本書を読んで思わずにはいられない。
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■■ Japan On the Globe(323)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
地球史探訪: 日本・ポーランド友好小史
遠く離れた両国だが、温かい善意と友好の関係が百年も続いてきた。
1.善意と友好の地下水脈■
冬の最中にポーランドの古都クラクフに来ている。ホテルの
窓から見ると、うっすらと雪化粧した街並みを見おろすように
歴代ポーランド王の居城だったヴァヴェル城がそびえている。
ポーランドは日本からはなじみの薄い国で、一般の人はせい
ぜいショパンやキューリー夫人くらいしか知らないだろう。し
かし両国の間には善意と友好の歴史が百年もの間、人知らぬ地
下水脈のように流れている。
弊誌142号「大和心とポーランド魂」では、20世紀初頭に
シベリアで困窮していたポーランド人孤児765名を帝国陸軍
と日本赤十字社が救出し、母国ポーランドに送り届けた事。そ
の返礼として、75年後に阪神大震災の孤児たちがポーランド
に招かれて歓待を受けた佳話を紹介した。[a]
しかし、両国の交流はそれ以外にも脈々と続けられている。
今回は両国をつなぐ深い善意と友好の歴史を辿ってみよう。
■2.「日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おう」■
ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリ
アに分割され、独立を失った。その後、粘り強く独立運動が続
けられたが、彼らに勇気を与えたのが日露戦争だった。
後にポーランド独立の英雄として敬愛されるヨゼフ・ピウス
ツキは1904(明治37)年7月、日露戦争の最中に日本を訪れ、
明治政府に対して日本とポーランドが手を携えてロシアと闘お
うと呼びかた。ポーランドがシベリア鉄道の破壊やロシア軍に
徴発されているポーランド兵の脱走・投降工作をする代わりに、
日本は独立運動への支援を行う、という具体的な提案だった。
この時にもう一人の独立運動の指導者で穏健派のドモスキも
来日して、ピウスツキの提案は非現実的だと日本政府に進言し
た。結局、日本政府はピウスツキの提案のうち、最後のポーラ
ンド人捕虜に対する好意的な取り扱いだけを採用することにし
て、松山にポーランド人捕虜のための収容所を作り、特別に厚
遇した。捕虜の正確な数は判っていないが、一説には数千人の
規模に達したという。日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破
った時には、ポーランド人捕虜全員が万歳を叫んだ。
■3.「日本人に出会ったら恩返しをして欲しい」■
後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、19
61年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時
の先生がグラドコフスキという元ポーランド陸軍将校であった。
グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に
呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。
なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議
に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシ
アに徴集されて日露戦争に従軍したが、捕虜となって数ヶ月を
日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親
切にもてなされ、深い感銘を受けた。
父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、
息子にその時の話を詳しく聞かせては「お前も日本人に出会っ
たらできるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と口癖のよう
に話していたという。「父親が受けた日本人からの親切を、今、
貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤
氏に語った由である。[1,p13]
■4.「ヤポンスカはサムライ魂を持っているんだ」■
阪神大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた中
心人物は、外交官スタニスワフ・フィリペック氏である。フィ
リペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授だったが、
ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に留学した経験
もあった。
フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下
のポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、氏が3歳
の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に捕まって強制
収容所に送られ、還らぬ人となった。その後、氏はおばあさん
に育てられたが、よくこう聞かされた。
お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔
術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリン
グよ。ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこ
うにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。そ
の小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつ
けたんだもの。ジジュツのせいかどうかはしらないけど、
ヤポンスカはサムライの国でね、サムライ魂を持っている
んだ。
小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、私たちポ
ーランド人の希望になったんだ。わたしたちもヤポンスカ
のように、ロシアや、ドイツや、オーストリアを負かして
追い払い、自由をとり返して、独立できると信ずることが
できた。そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーラ
ンドは独立できたんだよ。[2,p21]
おばあさんは幼いフィリペック氏に、ヤポンスカがポーラン
ド人捕虜を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベ
リアから救出したことを語って聞かせたという。これが機縁と
なって、氏は日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意
したのである。
■5.「日本のヘイタイサンは、やさしかった。」■
ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂
起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられた者はシ
ベリアに「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられた。
1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では8万人もの流刑囚
がシベリア送りとなった。その後を追って、恋人や家族がシベ
リアに行った。そのためにシベリアには何十万人ものポーラン
ド人がいたのである。そしてそこで多くの子供たちが生まれた。
1818年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人
たちは祖国独立の一助になろうとチューマ司令官のもとに2千
名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立したロシア提
督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。しかし、その試みは
失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。
この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、
長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、日本であった。日
本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏など
と共にシベリアに出兵していたのである。
赤軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そう
とした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、
その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に
日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は当時の状況をこ
う語っている。
街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子た
ちは、日本のヘイタイサンを見ると、「ジンタン(仁丹)、
クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。日
本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメ
ルをもらったことがあります。孤児の中には空腹をまぎら
そうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはも
う、まったくの地獄でした。[2,p35]
■6.「日本に救援を頼んでは」■
ポーランド人孤児たちを救おうと立ち上がったのが、鉄道技
師の夫と共にウラジオストックに住んでいたアンナ・ビエルケ
ビッチさんだった。ボランティア組織「ポーランド孤児救済委
員会」を組織し、自ら会長となった。
ビエルケビッチさんは、子供たちを救うにはどうしたら良い
か、と委員会で相談をした。一人の委員が、日本に救援を頼ん
では、と提案したが、年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(は
りつけ)にしたような国が、他の国の子供たちを助けてくれる
だろうか、と質問した。そこに副会長の若い医師ヤクブケビッ
チ副会長が手をあげて発言を求めた。
僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいった
ポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はい
ませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチュ
ーマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍
じゃありませんか。[2,p42]
こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、陸軍や外
務省にポーランド孤児救済を依頼する。依頼は外務省から日本
赤十字に伝えられ、17日後には孤児救済が決定され、さらに
その2週間後には帝国陸軍の助力で、56名の孤児第一陣がウ
ラジオストクから、敦賀経由で東京に到着した[a]。
同時に救済委員会は、一人でも多くのポーランド人孤児を救
おうと、あちこちの避難所を探し回った。ビルケビッチさんは
語る。
こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいま
した。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のよう
にして、その家庭をたずねました。父親を亡くした家庭で
は、「せめて子どもだけでも、助け出してください。」と
母親たちが、泣いてわたしたちにたのむのでした。
[2,p57]
しかし、こうして「シベリアで子どもたちを集められたのは、
日本軍がいる町だけだった。日本軍の助けなしには、なにもで
きなかった」と、ビルケビッチさんは回想する。
■7. 6千人のユダヤ人を救った外交官の秘密任務■
1939年9月、ドイツのポーランド侵攻により、第2次世界大
戦が始まった。ソ連軍もポーランドに侵入し、国土はふたたび
ドイツとソ連に分割占領されてしまった。
この時のワルシャワ防衛総司令官は、かつてウラジオストッ
クで日本に救われたチューマ将軍であった。そしてその指揮下
でレジスタンス(抵抗)運動の中核となったのが、シベリア孤
児だったイエジ青年だった。シベリア孤児たちを中核とするイ
エジキ部隊は、孤児院を秘密のアジトとして様々な抵抗活動を
展開するが、ナチスの捜索の手から孤児院を何度も救ったのが、
日本大使館であったことは、[a]で紹介したとおりである。
大戦中の日本とポーランドとの関係では、もう一人、意外な
人物が登場する。ナチスに追われた6千人ものユダヤ人に日本
へのビザを発給して救ったリトアニア領事代理の杉原千畝であ
る[b,c]。1939年11月、大戦勃発の直後に日本人居住者のい
ないバルト海沿岸のリトアニアの首都カウナスに日本領事館が
設けられたのは、いかにも不自然であるが、その領事代理・杉
原の任務はポーランド軍との協力関係を築くことだった。
日本は防共協定を結んだばかりのドイツがソ連と不可侵条約
を結んだことに強い不信感を抱き、独ソ双方の情報収集を強化
する必要を感じた。そこで目をつけたのが、大戦前からドイツ
の隅々に諜報網を張り巡らせていたポーランド軍であった。杉
原はポーランド軍参謀本部の情報将校たちや、リトアニアにお
けるポーランド諜報組織「ヴィエジュバ(柳)」、さらにはロ
ンドンでの亡命政府傘下の軍事組織「武装闘争同盟」と接触し
て、情報を収集した。
一方、ポーランドの諜報員たちは、日本や満州国のパスポー
トを得て自由に行動し、さらにドイツやバルト・北欧諸国の日
本公館に通訳などの名目で雇ってもらうことで、安全を確保で
きた。さらにポーランドの諜報機関や抵抗組織は、リトアニア
経由でベルリン、モスクワ、東京を往復していた日本の外交ク
ーリエを利用して、ポーランド国内やロンドン亡命政府との連
絡をとることができたのである。[3,p115]
建前上は敵対関係にある日本とポーランドが、陰ながらここ
までの広範かつ密接な協力が築けたのは、日露戦争前夜からの
長い信頼関係があったからであろう。
■8.日本文化に魅せられたポーランド人■
文化交流の面では、フェリスク・ヤシェンスキの名を欠かす
ことはできない。ヤシェンスキはポーランド貴族の生まれで、
20代には19世紀末のパリで芸術の勉強に打ち込んだ。当時
のパリでは日本の美術、特に浮世絵に対する関心が高く、ジャ
ポニズムという流れが若い画家たちに強い影響を与えていた。
ヤシェンスキも強く浮世絵に魅せられ、生涯をかけて6500
点にも上る日本美術の一大コレクションを築き上げた。
ヤシェンスキは単なる異国趣味で日本美術を集めたのではな
かった。当時、帝政ロシアやプロイセンなどに分割統治されて
いたポーランド民族の独立を夢見て、独自の民族文化に生気を
吹き込むという使命に全力を捧げていた。そこから2千年に渡
って独立を守り通し、独自の文化を発展させた日本に魅せられ
ていったのである。
日本の芸術を深く探求すればするほど、私の情熱はます
ます激しく燃え上がる。これほど非凡であり、洗練されて
おり、大胆かつ精緻で、しかも感動的で魅力の溢れる芸術
がほかにあるだろうか。[1,p48]
■9.友好の象徴、日本美術・技術センター■
ヤシェンスキの死後、そのコレクションは一時クラコフ国立
博物館に所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部
が公開され、それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生アン
ジェイ・ワイダだった。
ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、87年に
京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を寄付して、ヤシェン
スキ・コレクションのための独自の美術館建設を提唱した。ワ
イダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が協力して
94年に完成したのが日本美術・技術センターである。ヤシェン
スキは「北斎漫画」からとった「マンガ」をミドルネームにし
ていた機縁で、このセンターは「マンガ」館と愛称されている。
筆者がセンターを訪れたときは、かなりの数の青年たちが日
本の掛け軸の展示を見ていた。喫茶室では何組かの若いカップ
ルが日本茶を飲みながら、会話を楽しんでいる。喫茶室の巨大
なガラス戸からは、ヴィスワ川の向こう側に壮大なヴァヴェル
城が望める。日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンタ
ーから、ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城
を見上げつつ、私は自由ポーランドの繁栄を祈った。
■リンク■
a. エルトゥールル号事件のこと
難破船救助から始まった日本とトルコの友好の歴史。
b. 日本・ベルギー交流史
第一次大戦と関東大震災を機縁にした友情の歴史
c.6千人のユダヤ人を救った日本人外交官
d,届かなかった手紙 ~あるユダヤ人から杉原千畝へ~
■参考) . 毎日新聞、H11.08.04、大阪夕刊、8頁
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■「大和心とポーランド魂」について
桜さんより
私には、夢があります。学生時代に磨いた日本舞踊を通じて、
世界各国を自由にまわり、様々な人々と、心と心で交流をして
いきたいのです。それが自分にできる世界平和へのひとつの行
動であると信じています。
本号のようなお話を伺うたび、その想いはますます募ります。
ポーランドの方々に、私達こそ感謝していかねばならないと感
じます。報恩の心を形にし続けるポーランドの方々のようなひ
とがいるからこそ、その真心に触発されて、私達も心をゆさぶ
られるのですから。
感謝の心を忘れず行動し続ける人間がひとりでもいるかぎり、
かならず平和の方向へすすんでいけると確信しています。
今、私の胸のなかに、ポーランドの方々への熱き思いが灯っ
ています。行動で示していきます。
■編集長・伊勢雅臣より
力強いお便りに心うたれました。80年前の恩を忘れないポーランド魂に負けないよう、
日本舞踊を通じて大和心を示してあげて下さい。
ポーランドのNATO早期加盟を促進した一つは、「平和のパートナーシップ・プログラム」に対する
涙ぐましい努力と執念であった。ポーランドはまた、「新しいヨーロッパ」の優等生として、
イラク戦争への積極的協力した。その背景には、米国との特別の絆と、西欧大国に裏切
られ続けた歴史があった。
2004年のNATOの更なる拡大とEUの一挙25カ国への拡大は画期的である。しかし、
ニース条約の具体的運用、憲法条約の挫折など、EUは今大きな試練を迎えている。
同様にポーランドにとっても、具体的問題について、加盟国としての責任を果たすことを
厳しく求められ試練を迎える。 また、ヨーロッパ回帰を実現したポーランドにとって、
東方問題、特にロシア問題は、安全保障を含め依然重要である(プーチン政権の不透明性、
べラルースの不安定性、カリーニングラード問題など) 。本報告では、
こうした問題を包括的に考察する。