第8回吉田松陰 “至誠尽忠” 小田村四郎

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 誠を至し、忠義を尽くす。幕末の志士であり、学者思想家であり、兵学者であり、教育者で
もあった吉田松陰。百死を以て国を守る独立不羈の精神が国民にあれば何ら恐れるものはなし、
と語る松陰が安政の大獄で没してから百四十数年が経過した。

  私は杉家、吉田家の姻戚なので、末裔というのはおこがましいのですが…、松陰先生の命
日は十月二十七日で、昔は祭日(神嘗祭)だった十月十七日に例祭が行われていました。この
日に父に連れられて、世田谷の若林にある松陰神社にお参りしたことがあります。お祭りが終
わると必ず社務所の二階で昼食を食べながら松陰先生のお話を聞いた思い出があります。

 学校では他の子供たちと一緒に教科書で学びました。これは尋常小学修身書巻五ですが、こ
こに松下村塾と松陰の母杉瀧子のことが書いてあります。そして中学三年の時に父が松陰研究
の権威だった広瀬豊氏の「吉田松陰言行録」という新刊の小冊子を与えてくれました。この本
は松陰先生の生涯を詳しく述べたもので大変よく理解できました。松陰先生の研究は、現在で
も多くの方が携わって下さっていますから、縁者だけが存じているようなことはないですね。

 松陰先生との血のつながりは親からよく聞かされていました。家の中でも先生と呼んでいま
した。およびもつかないくらい立派な方ですから。

 いま、江戸時代が見直されていますが、確かに維新の時は素晴らしい人が多かった。薩摩と
長州、土佐、肥前が中心にはなりましたが、立派な人たちは全国各地にいた。昔は子供のころ
から四書五経をたたき込まれました。松陰先生だって畑仕事をしながら父親から学んだんです。

 松陰先生が松下村塾で塾生に教育を施したのは通算二カ年半程であったようですが、薫陶を
うけた弟子はおよそ八十数名で、明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩
出しました。

 松陰先生は至誠一すじに生きた人でした。情愛も細やかで親や兄弟を大切にし、そして塾生
を懇切に指導しました。教えるというよりは自分も一緒に学ぶという姿勢を崩さなかった。教
育者とは本来こうあるべきではないでしょうか。

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代表委員・小田村四郎(拓殖大学総長) 教育に関する意見

一、当面急を要するものは、家族・家庭に関する教育の正常化である。「男女共同参画」の美
名の下に、人  間本来の性差を否定し、古来の醇風美俗を根底から破壊しようとするジェン
ダー・フリー運動が、国・地方  の公権力を利用して全国に猖獗しつつある。その目的は、
人間性を抹殺し、家族を解体し、社会秩序を破壊  し、国家それ自体を解体することにある。
中教審の中間報告にもこの革命思想を教基法条文に盛り込ませよ  うとする意見が報告され
た。事態は深刻であり、この亡国的策謀を断乎として阻止しなければならない。

  昔の尋常小学修身書巻六にかうある。

 「我等の家では、父は職業に励み、一家の長として我等を保護し、母は父を助け、一家の主
婦として家事  にあたり、共に一家の繁栄と子孫の幸福をはかつてゐます。」

 「強いことは男子のもちまへで、やさしいことは女子のもちまへです。国・社会・家を安全
に保護してい  くやうなことは男子の務で、家庭に和楽を与へ、また子供を養育するやうな
ことは女子の務であります。」

 簡にして要を得、家庭の暖みがそのまま響いて来るではないか。真の人間の幸福がここにあ
ることが教へ られなければならない。

二、現行教育基本法は歴史伝統や社会性を捨象した抽象的個人主義で貫かれてゐるから、

 廃止又は全文改正すべきものである。部分改正の場合でも、最低、前文の削除、愛国心と奉
仕精神の養 成、歴史伝統の尊重、家庭教育の重視、宗教的情操の涵養等を規定するとともに、
誤解の多い第十条を改 正して教育内容に対する国家の権限と責任を明記すべきである。

三、歴史教科書の偏向を是正し、外国の介入を排除するため、教科書検定基準の「近隣諸国条
項」は早急に 削除すべきである。また国語教科書と音楽教育でも名文、名曲を復活させなけ
ればならない。 http://www.kyouikukaikaku.net/teigenbox/2odamura.html

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会報10号・「戦争の呼称を正そう」 拓殖大学総長 小田村四郎
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 今年は東京裁判開廷満50年に当たる。
 この裁判が偏見と虚構に満ち、裁判の名を借りた復讐劇にすぎなかったことは、すでに多く
 の識者によって論証されている。しかしその傷痕(しょうこん)はいまなお深く我が朝野に
 食い込んでいる。その1つに戦争呼称の問題がある。

 昭和16年(1941)12月12日の閣議決定により、「今次の対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ
 生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と定められた。
 従って以後我が国の法令その他の公文書はすべて「大東亜戦争」を使用している。
 即ち、我々日本国民が総力を挙げて戦った戦争は「大東亜戦争」であった。これは厳然たる
 歴史的事実で ある。

 驕慢(きょうまん)と偏見に凝り固まった連合国は、この戦争を「無責任ナル軍国主義」が
 「日本国民ヲ 欺瞞(ぎまん)シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタ」(ポ
 ツダム宣言第六項)と規定し、 占領軍はこの史観に基づく宣伝文書「太平洋戦史」を作成、
 昭和20年(1945)12月8日から各新聞紙に連載 させた。

 さらに同月15日の「神道指令」によって。「大東亜戦争」の呼称の使用を日本国民に禁止した。

 江藤淳氏は言う。「つまり、昭和20年暮の、8日から15日にいたるわずか1週間のあいだに、
 日本が戦った戦争、『大東亜戦争』はその存在と意義を抹殺(まっさつ)され、その欠落の
 跡に米国人の戦った戦争、『太平洋戦争』が嵌(は)め込まれた。これはもとより、単なる
 用語の入れ替えにとどまらない。戦争の呼称が入れ替えられるのと同時に、その戦争に託され
 ていた一切の意味と価値観もまた、その儘(まま)入れ替えらずにはいないからならず、
 それは日本国民に「戦争についての罪の意 識」を植え付けるためのプロパガンダであった。
             (ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)。

 昭和27年(1952)の独立回復によって、占領指令はすべて失効し、戦争呼称も日本国民の自
 由に委(ゆ だ)ねられた。にも拘(かかわ)らず「大東亜戦争」という正しい呼称は次第
 に影が薄くなりつつある。 京裁判史観が依然として猛威を逞(たくま)しうしている原因
 の一半がここにある。

 西尾幹二氏は今年、洋上大学の講師団の一員として戦跡を歴訪され、若い人々に「自分の戦
 争」と「戦争一般」を混同してはならないこと、「自分の戦争が今日の自分の生活にまで深
 く尾を引いていること」を詳しく説かれたにも拘らず、受講者から手紙を貰(もら)って
「『言葉が届かない!』という切ない思いで幾 日も憂鬱(ゆううつ)であった。」という
                  (「サンサーラ」10月号)。

 その青年に限らず、今日の政官財界やマスコミ人の最大の缺陥は、自分たちの祖父が築き上
 げて来た自国 の歴史を、「自分の」歴史として見ることができなくなったこと、換言すれ
 ば国民同胞感に裏付けされた歴 史意識の喪失である。

 「太平洋戦争」も、「15年戦争」も、近時一部で用いられる「アジア・太平洋戦争」も、我
 々の敵国又は 国籍不明者の見る戦争であって、決して「自分の」戦争ではない。

 政府が正しく「大東亜戦争」と呼称し、これを青少年に教育するとき、初めて日本は独立を
 回復したと言 えるであろう。 
 論語に曰(いわ)く「名正しからざれば則ち言順ならず。言順ならざれば則ち事成らず。」
                        (子路篇)

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「村山談話を速やかに廃棄せよ」 小田村 四郎( 前拓殖大学総長 )

「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の
図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせ
て新しい歴史を発明させることだ。」(ミラン・クンデラ「笑いと忘却の書」) このチェコ
の作家の言葉を忠実に実行したのが初期の対日占領政策であった。絶対権力による空前絶後
の言論弾圧の下に、日本の「精神的武装解除(バーンズ国務長官)のためウオー・ギルト・イン
フォーメーション・プログラムを強行して名実共に日本国家を解体した。これに便乗したの
が左翼革命勢力で、この間に教育界、言論界に強大な勢力を扶植し、所謂「講座派史観」によっ
て近現代史を塗り潰した。

しかし大多数の日本国民の良識は依然健在であった。平和条約発効により占領の桎梏が除去
されると、極めて遅々とした歩みではあったが教育も言論も次第に正常化に向かった。この
路線を一朝にして覆えしたのが昭和57年の教科書事件であった。時の政府は中韓両国の内
政干渉に屈服して「宮沢官房長官談話」を発表し、「教科書検定基準」に所謂「近隣諸国条
項」を追加させた。以後、文部省は反日自虐教科書に対する検定権を奪われ、我が国は独立
国家の実を失った。後は一瀉千里である。中国の干渉に屈した「後藤田官房長官談話」(昭
和61年)、韓国の強要に屈した「河野官房長官談話」(平成5年)、そして極め付きが平成
7年8月15日に発表された「村山首相談話」である。

この談話は言う。 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国
民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジアの諸国の
人々に対して多大の損害を苦痛を与えました。私は、未来に過ちなからしめんとするが故に、
疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心
からのおわびの気持ちを表明いたします。」

  一体、「過去の一時期」とは何時のことか。「国策を誤り」とは何をどのように誤ったのか。
その責任者は誰か。「戦争への道」は我が国が自ら意図して歩んだのか。「存亡の危機」に
面したのは国家そのものではなかったのか。それを齎したのは外国の圧迫ではなかったのか。
「植民地支配」とはどの地域のことか。「侵略」の定義とその事実を示せるのか。「多くの
国々、アジア諸国」とはどこの国か。いつ存在したのか。「損害と苦痛」とは何をさすのか。
「利益と恩恵」は与えなかったのか。「疑うべくもない」とは誰がどこで論証したのか。
「反省、おわび」とは如何なる資格で誰に対しての言葉か。

苟しくも一国を代表する政府が、かくまでに祖国の栄誉と父祖の偉業を侮辱する声明を発し
たことは世界に例がない。さらに驚くべきは、この談話が村山個人の所見に止まらず、「閣
議決定」されたため今日もなお我が政府全省庁を拘束し続けていることである。しかも国民
を代表する国会において、この国辱談話が一度も議論されたことがないのである。

国家とは、歴史と文化伝統を共有する共同体である。特に我が国は一系の皇統を戴き、国民
は心を一にして祖国の栄光と独立を守り抜いて来た。この「光輝アル国史ノ成跡」(帝国憲
法告文及び戊申詔書)を土足で踏み躙ったおぞましい村山談話の廃棄こそ、国家再建、独立
回復の第一歩で無ければ成らない。 
   季報・巻頭言集 JFSS日本戦略研究フォーラムhttp://www.jfss.gr.jp/jp/kihouj.html
    〒160-0002東京都新宿区坂町26-19 季報2003年度冬号 
 

小田村言語録