報道2001緊急提言!!もっと国民に夢と希望を与えるビジョンを語ってください!
小手先のコップの中の嵐の議論に思われます!!
4人の総裁候補者に共通に欠けているのは明日を導くビジョン、思想性です。
1、 日本を元気にするには経済問題も重要ですが、人間は経済的動物、社会
的動物であるとともに意味的動物です。後孫に自信を持って伝承し得る民族的誇
り、価値観とは何なのか?悠久なる人類史的展望、歴史観に立脚した粋に感ずる
夢を手どなたも論じていません。経済・生命第1主義からこれを超える何かの価
値を探しているのではないでしょうか?
2、 世界の常識、悲惨な現状を無視した日本国内だけのお祭りに終わってい
ます。党派・省益を超えた地球市民一体の世界観に立つことが重要です。日本の
外交姿勢には命を賭けた責任感が感じられません。
3、 地球環境問題は永続する地球環境を求めています。道具としての科学技
術の位置づけ、自然観の確立が重要で東洋思想はこの点、大いに貢献できると思
われます。この点もっと日本政府は主導すべきではないでしょうか?以上
以上3点、歴史的価値観の確立、地球村人類遺家族の世界観、自然観の確立を申
し上げましたがこのような要素こそ新しい時代の思想、ビジョンの核心であると
思われます。ぜひ国民を元気にし、世界に注目される夢をもっと語ってください!
未来構想戦略フォーラム 大脇準一郎
中西輝政京大教授「国民の気概で国は再生できる」
2003,11.03 産経新現役ネット
「国内最大の中高年世代コミュニティー」を目指しているNPO(民間非営利
団体)の新現役ネット(岡本行夫理事長)は十月二十七日、大阪市西区の大阪厚
生年金会館芸術ホールで「第四回新現役宣言フォーラムin関西」を開いた。ゲ
ストの中西輝政・京都大学総合人間学部教授が「歴史にみる日本再生」をテーマ
に講演したあとには、中西教授と福岡政行・立命館大学客員教授、岡本理事長の
三人による討論。中国の経済発展や北朝鮮による日本人拉致といったホットな国
際問題が話題となり、約六百人の参加者は興味深げに聞き入っていた。
講演で中西教授はまず、「日本は経済、外交、教育などさまざまな分野で困難
に直面しているといわれる。しかし、日本よりもっとひどい状況に陥りながら、
それを克服した国はいくらである」と強調した。高度成長が終わった後に少子高
齢化や財政破綻(はたん)、大衆民主主義の台頭といった問題が一斉に噴出する
のは、先進国に共通する現象であることを指摘した。
例えば、フランスでは一九五〇年代に政治がリーダーシップを失い、内閣が十
年間で十一回交代した。出生率も低下、「五十年後には人口が三割も減る」とい
う悲観論さえ広がった。ところが、六〇年代に入ってドゴールが登場、政治や憲
法を変え、家族の価値観が見直され出生率も回復したという。七〇年代の英国も
さまざまな社会問題を抱えていたが、国民が「今までの考えを変えなければなら
ない」と決意し立ち上がったとか。
困難に直面した国が再生できるかどうかは国民の気概にかかっており、「その
ためには、物質的な価値と精神的価値、進歩と伝統、個人と共同体−という三つ
のバランスを取ることが大事だ」と訴えた。その点で、今回の総選挙で各政党が
発表したマニフェスト(政権公約)に、「こうした発想が盛り込まれなかったこ
とが気になる」と結んだ。
このあと、福岡教授と岡本理事長の二人が、中西教授に質問する形式で討論が続いた。
*■中西輝政氏 中国の本音
中西輝政氏(京大教授)は論文「北朝鮮問題は米中問題である」で中国のした
たかさを指摘する。氏によれば、中国は北朝鮮から「核開発は放棄した」という
表向きの言質だけを取ろうとしている。そして、その見返りとして日米が北朝鮮
に経済援助を行う状況にうまく転換させたい。これが中国の本音だとみる。月刊
「正論」12月号'03
--------------------------------------------------------------------------------
文明に合った改革を 群馬「正論」懇話会
中西輝政氏が講演 [2003年09月17日 東京朝刊]
--------------------------------------------------------------------------------
日本のあるべき姿を考える第二回群馬「正論」懇話会が十六日、前橋市大手町
のマーキュリーホテルで開かれ、中西輝政京大教授が「日本の再生に求められる
もの−文明力の時代」と題して講演した。 中西氏は「日本は一時的な不調期間
にあるが、イギリスもフランスも先進国はみな直面したことだ」と論じ、「衰退
期と回復期を繰り返すのが先進国の宿命。三十年もたてば世代、価値観が変わり、
別の世界になる」と述べた。 また、現状打破のかぎについて「政治が衰弱する
と、やみくもに壊したくなるが、改革とは結局は復古。日本の文明に合った、わ
れわれらしいものでなくてはならない」と指摘した。
◇ ◇
2002.12.19 [五郎の政治ワールド]国益を考える
編集委員・橋本五郎
◆恐るべきは「天」なり
福澤諭吉協会が発行している『福澤手帖』という雑誌がある。福沢に関するエッ
セーや小論文、新資料の紹介・解説を載せた瀟洒(しょうしゃ)な季刊の小冊子
である。 その『福澤手帖』が「私が愛誦する福沢諭吉のことば」という企画を
始めた。第一回には各界の人からの次のような言葉が載っている。 「独立とは
自分にて自分の身を支配し、他に依(よ)りすがる心なきを言ふ」(『学問のす
ゝめ』) 「社会の秩序は紊乱(びんらん)の中に却(かえっ)て燦然(さんぜ
ん)たるものを見る可(べ)し」(「時事新報」論説) 「人倫の大本は夫婦な
り。夫婦ありて後に、親子あり、兄弟姉妹あり」(「中津留別の書」)
百二、三十年前の言葉とはとても思えぬ現実感をもって伝わってくる。いや、
今の時代にこそ当てはまるのではないかと思ってしまう。時代を超えた「真理」
を深くえぐっているからに違いない。 次の号で私が取り上げたのは、明治三十
年(一八九七)八月の時事新報社説「新聞紙の外交論」の一節だった。 「外交
の事態いよいよ切迫すれば、外交の事を記し又これを論ずるに當(あた)りては
自から外務大臣たるの心得を以てするが故に、一身の私に於ては世間の人気に投
ず可き壮快の説なきに非ざれども、紙に臨めば自から筆の不自由を感じて自から
躊躇(ちゅうちょ)するものなり。苟(いやしく)も国家の利害を思ふものなら
んには此心得なかる可らず」 一人のジャーナリストとして、つねにかくあらな
ければならないと肝に銘じてきた、私にとっては大切な“教え”である。「責任
ある報道」を行おうとすれば、自分がその立場にあったらどうするか、何が国益、
全体の利益にかなうのかを絶えず自問し、答えられるようにしなければ無責任の
そしりを免れない。
福沢といえば、明治政府からのたびたびの招請にもかかわらず、ついに生涯官
職に就くことなく「民」に徹した。それだけにこの言葉の持つ意味は大きい。
この一年の日本政治を振り返ってみればどうだろう。おそらく今年ほど「国益」
とは何かが正面から問われた年は最近なかったろう。北朝鮮による拉致問題、イ
ラクへの対応、有事法制、いずれをとってもそうだった。しかし、肝心の政治に
携わる者に国家を担う気概と明確な戦略はあったのか。 今こそ徹底議論しなけ
ればならないはずの国会はほとんど機能しなかった。野党第一党の民主党は、代
表のポストをめぐる争奪戦に忙しく、自民党内は「小泉対反小泉」で解散の時期
はいつかと狂奔している。 デフレという戦後例を見ない非常事態にあるにもか
かわらず、最高責任者が「デフレ退治」に立ち上がり全力で阻止しよう、という
わけでもない。情けなくなる。 「非理法権天」。南北朝時代の武将、楠木正成
が旗印に使ったといわれる。それを二宮尊徳が『二宮翁夜話』で詳細に解説して
いる。 〈非道なことは道理に勝つことができない。しかし道理も法には勝てな
いし、法も権力には勝てない。その権力も天に勝つことはできない。天には私が
ないからである〉 「恐るべきは天なり」という二宮尊徳は、どんな事態になっ
たとしても、天を欺くことはできないことを強調しているのである。 本コラム
では、政治の復権のためには、「公」に奉仕する意識こそがすべてに優先されな
ければならないと繰り返し説いてきた。「天に恥じない」ことこそ、もっとも大
切なことではないだろうか。 2003.03.09 「よみがえる古代思想」佐々木毅著
歴史に学ぶ政治の意味
◇評者・橋本五郎(本社編集委員)
「政治とは何か」「政治にはどんな意味があるのか」。この永遠の課題ともい
える根源的な問いに対し、古代の政治思想に分け
入ることで今日的な解を引き出そうとした書である。 なぜギリシアの政治思想
は二千数百年の時を超えて、魅力と磁力をもって迫ってくるのか。ソクラテス、
プラトン、アリストテレスにおける「哲学と政治」の意味を、著者に導かれて辿
(たど)ることによって次第に明らかになってくる。 ソクラテスは、不滅なの
は魂のみであり、大切なのは「魂への心配り」であると唱え、「まず掟(おきて)
ありき」というギリシア思想に「倫理革命」をもたらした。プラトンはポリスを
つくり直すことによって人間をつくり直そうとした。政治術の核心は人間の魂を
正しい方向に導くことにある。不滅なのは人間の魂だけという点は決定的に引き
継がれたのである。
アリストテレスは、人間がよりよい行いをするよう「習慣づけ」ていくところ
に実践学たる政治学の重要な意味を見いだす。彼においても政治学が人間の精神
にかかわるものであるというプラトンの議論は引き継がれた。古代の人々は、政
治のあり方を人間の生き方と密接に関連させながら論じ、積極的に「政治」を創
出しようとしたのだ。ここに現代に生きる私たちが学ぶべき第一の点があること
を教えてくれる。
「哲学と政治」に関する太い流れを平易に説明してくれるありがたさとは別に、
著者の真情がほの見えるのもおもしろい。ポリスの没落のあとにやってくるコス
モポリタンを論じながら、「世界市民というのも大変結構な話だけれども、何の
権利もなければ義務もない気楽な存在に等しいかもしれない」と疑念を示す。
平和と政治の仕組みのあり方を論じ、「平和概念というのはつねに平和な概念
とはいえないのです」と言い切っているのもそうだ。「歴史とは現在と過去との
対話である」(E・H・カー)ことを実感させる書である。(講談社、1900円)
◇ささき・たけし=一九四二年、秋田県生まれ。東京大学学長。
--------------------------------------------------------------------------------
【主張】解散・総選挙 明確に国のかたち語れ 究めたい政権公約の中身
[2003年10月11日 東京朝刊]
--------------------------------------------------------------------------------
衆院が解散され、第四十三回総選挙の日程が二十八日公示、十一月九日投開票と決まった。小選挙区制の導入から、三回目となる総選挙は、これまでになかった「政権選択」選挙であり、実施期限を明記するマニフェスト(政権公約)を競い合うなど、政策本位という政治の本来のあり方に立ち戻っていることを歓迎したい。
主な争点は、二年余におよぶ小泉政権の存続か交代か、小泉構造改革の是非だ。
同時に、歴史の転換期に立っている日本が現在、直面している多くの難題を乗り
越えることができるのかどうかをも決める重大な選挙であることを直視したい。
≪“苦い薬”提示の勇気を≫
これまでの政治は、国論を分断するような憲法改正などのテーマを棚上げし、
経済重視の利害調整型で推移してきたが、もはや通用しない状況だ。先の自民党
総裁選で戦後の保守本流を担った旧田中派と旧大平派を継承した二大派閥の橋本、
堀内両派が事実上の分裂状態に陥ったことは、時代の流れを先取りしたといえよ
う。
派閥が同一選挙区で候補者を競い合う派閥選挙は、中選挙区制から小選挙区制
に変わったことで、消滅状態にあり、代わって、自民党員の予備選による新人候
補者の選出が、五つの選挙区で行われるまでになった。
政権の受け皿を標榜(ひょうぼう)する新民主党の誕生が、自民党に緊張感を
与えているからでもある。民主党は年金制度改革に関連して、基礎年金の財源に
消費税を充てるとマニフェストに盛り込み、菅直人代表は消費税引き上げに言及
した。選挙前の増税論議はタブー視されていたにもかかわらず、民主党は有権者
の痛みを伴う公約を打ち出した。
一方、自民党は基礎年金の国庫負担割合の引き上げの財源を明らかにしていな
い。たとえ苦い薬であっても、処方箋(せん)を国民に示すことが責任政党だ。
「公約」対決を恐れてはいけない。 ただ、国の根幹をどうするかという肝心の
テーマに対し、民主党は論憲から創憲へとスローガンを変えたに過ぎない。自民
党は、小泉首相が結党五十周年にあたる平成十七年十一月までに党の改憲案をま
とめるよう指示したことを受け、公約に憲法改正草案作成と教育基本法改正を盛
り込んだ。
いま日本が抱えている難題のひとつは、イラクへの自衛隊派遣であり、イラク
復興支援の資金分担である。これも憲法問題が絡む。
中東地域に原油の八割以上を依存する日本にとって、イラクの安定は欠かせぬ
ものであり、核開発計画を進める北朝鮮情勢を考えれば、日米同盟を揺るがすこ
とはできない。国際共同行動への参加と応分の負担は必要に違いないし、国益に
かなうものだろう。
だが、問題は、完全に停戦していないイラクの地に派遣される自衛隊員の武器
使用が正当防衛・緊急避難に限定され、国際基準である任務遂行のための武器使
用は許されないことだ。平和維持活動における武器使用は、抑制された国際警察
行動の一環であり、武力行使にはあたらない。
しかし、内閣法制局は禁じられている海外での武力行使にあたるという見解を示し、
先に成立したイラク復興支援特別措置法でも武器使用の見直しは棚上げにされた。
憲法第九条の解釈に基づく法制局見解に手を付けることができなかったためだ。
五十七年前の昭和二十一年十一月、憲法が公布された当時の日本を取り巻く状
況は現在、様変わりしているが、基本法制は一度も見直されたことはなく、欺瞞
(ぎまん)的な憲法解釈も限界に達している。こうした事態にメスを入れなけれ
ば、国益を害する事態は相次ぎ、日本は立ち枯れてしまいかねない。
≪憲法改正を争点に≫
連立与党の中で保守新党は平成二十二年までの新憲法制定と教育基本法改正を
打ち出したが、公明党は「平和憲法の堅持」であり、教育基本法改正をマニフェ
ストには盛り込まなかった。連立与党として一体、どう取り組むのかを明示すべ
きだろう。
憲法改正が総選挙の争点になるのは鳩山内閣以来、四十八年ぶりだ。 歴史の転
換点で取り上げるべきテーマは憲法改正をおいてほかにない。有権者が新しい国
のかたちを決めることができる選挙でもある。
【主張】自民党総裁選 夢と文明論が欠けている [2003年09月12日 東京朝刊]
日本記者クラブで行われた自民党総裁候補の公開討論会などを通じて、外交、
安全保障にかかわる課題への四人の候補の方針や姿勢が明確になってきている。
小泉構造改革の信認や年金負担などが主要な争点になっているが、次の首相選び
だけに国家の基本姿勢を示すことになる問題への対応も重要な選考基準と考えた
い。
四人の見解が真っ二つに割れたのは、イラクへの自衛隊派遣対応だ。国連主導
の多国籍軍をイラクに展開する新決議案が国連安保理で調整されているが、小泉
純一郎首相は「国際社会との協力が重要であり、人道支援を行いたい」と明言し
た。高村正彦元外相も「イラクの安定と復興は日本の国益であり、自己完結能力
をもつ自衛隊の派遣が望ましい」と強調した。
これに対し、藤井孝男元運輸相は「自衛隊を派遣するかどうかを慎重に見極め
るべきだ」と述べ、亀井静香元政調会長は「米国は日本の軍隊を期待していない。
イラク復興支援法は使えない」と否定的な考えを示した。
日本の安全保障にもっともかかわりの深い日米同盟について、小泉首相と高村
氏は同盟強化の必要性を力説した。亀井、藤井両氏は「友人としてもっと発言す
べきだ」などと一定の距離を置くよう求め、首相は「どこが米国追随か」と反論
した。
北朝鮮の核開発を踏まえれば、イラクで苦闘している同盟国を支えるしかない
との認識が総裁候補に共有されていないことは、自民党内での意見対立を反映し
ているともいえ、残念だ。
拉致事件に関連しての対北朝鮮経済制裁では、亀井氏が「なぜ経済制裁に踏み
切らないのか」と力説した。藤井氏は「独裁国家にはしたたかさが必要」と述べ、
高村氏も「経済制裁の用意をする必要はある」とし、その必要性で足並みがそろっ
た。これに対し、小泉首相は拉致と核・ミサイル問題を総合的、包括的に解決す
る方針を述べるにとどめ、経済制裁には言及しなかった。自民党は七月、経済制
裁を可能にする外為法改正案の党内手続きを終えたにもかかわらず、国会提出を
見送っており、判断が問われる。 投開票は二十日である。四人は夢と文明論に
深く根差した政治哲学を国民に率直に語りかけてほしい。
主張】自民党総裁選 大きな視野がほしかった [2003年09月09日 東京朝刊]
自民党総裁選が告示され、再選を目指す小泉純一郎首相と藤井孝男元運輸相、
亀井静香元政調会長、高村正彦元外相の四氏が立候補を届け出た。二十日、投開
票される。
平成十八年九月までの三年間、国政を担う事実上の首相選びだけに、内外の難
局を乗り切れる指導者かどうか、決断力、判断力などの力量が厳しく問われるべ
きである。
四氏の共同記者会見では、構造改革路線の堅持を強調する小泉首相に対し、対
抗馬の三氏は積極財政やデフレ克服転換の要求に終始し、改革の中身を詰める論
争には至らなかった。
首相は「平成十九年四月からの郵政事業の民営化」や「来年の通常国会での道
路公団民営化法案の提出」などを公約に盛り込んだが、郵便貯金、簡易保険の改
革をどうするのか、赤字垂れ流しの高速道路建設を認めるのか、肝心の問題は依
然不透明だ。
若手からは、小泉改革を点検する立場から候補者擁立の動きがあったが、推薦
人二十人をクリアできず、政策論争の活性化の観点からも残念だ。
国のありようを示す政策体系についても、首相は「自民党が変われば日本が変
わる」というキャッチフレーズにとどまり、憲法改正や教育基本法改正には言及
しなかった。
ただ、イラクへの自衛隊派遣問題で首相は「国際社会の責任を果たすため、人
道支援にあたりたい」と意欲を示し、高村氏も積極的姿勢を表明した。亀井、藤
井両氏は「治安回復がない以上、実効ある支援はできない」などと消極的な姿勢
を示した。首相は日米同盟と国際協調を重視する立場を公約に盛り込んでおり、
日本が「反テロ国際共同行動」にどうかかわるのかも総裁選の争点にすべきであ
る。
今回総裁選の隠れたポイントは、来年七月までに国政選挙が行われることから、
選挙の顔を選ぶことを優先する議員心理が働いているといわれる点だ。参院橋本
派をたばねる青木幹雄氏が郵政民営化に反対を表明しながら、小泉首相の推薦人
に名を連ねたのは、そうした流れを物語る。だが、国の根幹をなす問題点を棚上
げする手法は、政治を一段とわかりにくくし、国民の政治不信を強めることにも
つながる。
四氏は日本をどういう国にするか、大きな視野で語ってほしかった。
2003.01.14 [日本再生への道標](上)小泉政権の功罪(連載)
いくらかの期待感と重苦しさの中、新しい年が始まった。経済状況は正念場を
迎える一方、イラクや北朝鮮の問題をめぐり不穏な空気が漂う。経済学者の猪木
武徳、政治学者の大嶽秀夫、劇作家の山崎正和の三氏に、日本再生の道筋を探っ
てもらった。
◇ ◇
◇やまざき・まさかず 東亜大学学長 1934年、京都市生まれ。著書に「柔
らかい個人主義の誕生」「文明の構図」など。
◇おおたけ・ひでお 京都大学教授 1943年、岐阜県生まれ。著書に「日本
政治の対立軸」「高度成長期の政治学」など。
◇いのき・たけのり 国際日本文化研究センター教授 1945年、滋賀県生まれ。著書に「経済思想」「自由と秩序」など。
◆色あせた改革の言葉/大嶽
大嶽 昨年の大きな話題として北朝鮮問題があった。拉致された五人の生存が
確認され、帰国とその後の成り行きをメディアが繰り返し、大きく取り上げ、国
民の関心も膨らんだ。
◆果たされぬ説明責任/猪木 猪木 首相自らが北朝鮮を訪れたことが高く評価され、支持率も回復した。
◆都市重視へ政策転換/山崎
山崎 アメリカが言った「ならず者国家」という言葉を、広い層の国民が実感
したことは大きい。
大嶽 首相の訪朝は英断だったが、一方で、繰り返し口にしてきた「改革」の言葉は色あせてしまった。首相は「構造改革」に様々な意味を持たせている。まず政治改革だ。総裁選に出た時、小泉さんは「自民党をつぶす」と言った。それは、自民党の汚職、構造的利権体質を変えることだった。だが昨年、鈴木宗男衆院議員ら一連の疑惑が持ち上がった際、「進退は本人が決めるべき」と、ひとごとであるかのような消極的態度を見せ、リーダーシップは見られなかった。
猪木 「構造改革なくして景気回復なし」というフレーズも呪文(じゅもん)のようだ。どのような構造改革をすれば、どう景気が回復するかという説明がない。
大嶽 構造改革の二つ目の意味として道路公団、郵政事業といった広い意味での行政改革がある。しかし、郵政は公社推進委員会に丸投げしてしまった。
山崎 ただ、小泉首相は、結果的に一つの流れを打ち出したといえる。従来の国土均衡発展型、広くばらまく政治から、都市重視の政策に転換するための布石を打った。郵政、高速道路、いずれの問題でも、一貫して都市型の方向を示した。十年後に振り返れば、この時が転機だったといわれるだろう。
大嶽 だが、高らかに掲げた「構造改革」なのに、本気でやろうと思っているのか、不信が募る。
猪木 構造改革をして日本はどうなるのか、何を我慢すれば、明るい未来が見えるのか、首相は国民に三十分間でも説明すべきだ。経済財政諮問会議も財務省主導になってしまった。
大嶽 次に民主党について考えたい。元来、第三の極として出発した、異議申し立てをする党だった。しかし、新進党が分裂した結果、野党第一党になってしまった。政権を目指さねばならなくなったのだが、その基盤となる政策の議論ができていない。今は原点に戻り、十年先を見据えて、新しい政党のあり方を模索すべきだ。小泉さんを選出した自民党総裁選は国民を巻き込んだ。本来、民主党こそがそうしたやり方をすべきだ。
山崎 自民党も民主党も内部に対立を持つ。それぞれに「政策新人類」が存在するが、抵抗勢力の下に隠れている。だから自民党では、小泉首相の後継者の顔が見えない。民主党も同様だ。今後、政界再編が起こるだろうが、民主党には、政権に責任を持てるビジョンを練り上げてほしい。
猪木 山崎さんが言われるように、双方の党にねじれがある。だが、「政策新人類」による政界再編は、十年より早い段階であるのではないか。
大嶽 政界再編は起こるだろうし、繰り返されるだろうが、本当の意味できちんとした政党になるには十年の時間が必要だ。
山崎 もし再編が起こるとしたら、自民党を入れた再編でなければ意味はない。
大嶽 かつて小泉首相は、抵抗勢力が強ければ民主党と組むと言っていた。今後、人気のあるリーダーが党を飛び出し、信頼を寄せる者がついていくことになれば、自民党も変わり、大きな再編になる可能性がある。
2003.01.06 [日本再生への道標](中)不況脱出の糸口を探る 猪木/山崎/大嶽(連載)
◆猪木武徳×山崎正和×大嶽秀夫
トンネルの出口はいつ見えるのか、どうすればたどり着けるのか。猪木武徳・国際日本文化研究センター教授(労働経済学)、山崎正和・東亜大学長(劇作家・評論家)、大嶽秀夫・京都大学大学院教授(現代政治学)の三氏のテーマは、長引く不況にあえぐ日本経済の現状分析と再生への展望へと移った。
◇
猪木 日本経済は、不況から抜け出すどころか、ますます深みにはまった感がある。ここで重要なポイントは、バブル期に実物面の生産活動を軽視する経済に転換してしまったということ。いい商品を作って市場で評価してもらう堅実な姿から、証券の売り買いで巨額の富を獲得する方向へとシフトした。そこで破裂が起きたのだから、損害の大きさはいかんともしがたい。山が高ければ谷も深い。
◆多品種少量生産は限界 山崎氏
山崎 経済の当面の問題と同時に、文明史的にも革命的な変化が起きているのではないか。大量生産、大量消費に対する疑いと飽きが出てきたように見える。
需要には経済的要素もあるが、文化的要素もある。車のモデルチェンジを見ても分かるように、需要は作り出されるものだ。消費者一人ずつの好奇心、虚栄心を満足させなければならないが、それをやればやるほど、逆に「わたし個人」の価値観の充足が求められるようになる。
日本経済は多品種少量生産で満たそうとしてきたが、消費者は「私は私。ほかの人と違うように扱ってくれ」と要求するようになり、ついに限界に来たのではないか。それが先駆的に現れたのが一九八〇年代だった。
◆「個」に収斂、強い閉塞感 大嶽氏
大嶽 政治学では九〇年代以降、「公共性の復活」がいわれ、NPO(非営利組織)、NGO(民間活動団体)への関心も目立つようになった。だが、今、若者が携帯電話に夢中になっているのを見ると、ネガティブに「個」に収斂(しゅうれん)している感があり、閉塞(へいそく)感は強い。
◆所得税減、消費税増を 猪木氏
猪木 小泉流の構造改革は、供給側に主眼を置いて進められているが、問題の根幹は需要不足だと思う。先日、安場保吉さんたちと五人で新たな需要創出案を提言した。まず、十兆円規模の所得税恒久減税を行い、その後に消費税率を一、二年刻みで段階的に上げていく。中長期的に財政面でのバランスをとりながら、有効需要を刺激する方策だ。駆け込みの、代替的な消費の効果は強くないという異論もあるようだが、試みる価値は十二分にある。
大嶽 消費税増税を前提に所得税を減税するというのは、早く買った方がいいという判断を期待するということか。
猪木 一年というオーダーではなく、五年くらいのめどがあれば、所得税減税もあって、デフレ緩和に非常に効果があると見ている。 不良債権の処理は強いデフレ圧力となる。それを弱める手だてがないかぎり、悪循環に陥る。患者が亡くなってしまえば、病気を治せても仕方がない。ゼロ金利政策、産業再生機構創設、日銀の銀行保有株買い上げなど、現在の経済政策はパッチワークで、一貫性が欠けている。これが正直な感想、というか嘆きだ。
山崎 一貫性のなさについては同感だ。減税と増税を組み合わせる提言も興味深いが、問題は、それに政治が耐えられるかどうかだ。はじめにアメを与え、後からムチを加える政策を採ろうとすると、いざとなって、「一年凍結」とか「二年延長」となるのがパターンだった。時の政権は、自らの延命を考えるから、苦い薬は飲ませたくないのだ。結局、放漫な財政につながるのではないか。
猪木 難しいことをやるのが政治家の力量だ。増税をやると選挙は厳しいだろうか。
大嶽 必ずしもそうならないのが政治の面白いところだ。消費税の税率引き上げ時には、反対がほとんど出なかった。税導入の時は、あれほど激しい抵抗があったのに。
ただ、今の経済は、だれがやってもあまりうまく操作できないという印象がある。果たしてそれで、お金を持っている高齢者層が使うのかといえば、若干疑問が残る。社会保障の問題、将来への不安解消を図らないと需要不足は解決しないのではないか。
猪木 日本は高度なものづくりにおいて、世界に冠たる分野がまだたくさんある。そういう実物経済の強さを金融的な判断でつぶす、バランスシートが悪いから退場してもらうという考え方は、非常に危ない。 大量生産、大量消費に飽きた後、みんなが「自分は違う」という行動パターンを取るのなら、経済的利益が増えることにならない。精神的な自由度は高まるだろうが、景気に対していい要素たりえないだろう。
山崎 若者が携帯電話でおしゃべりするのも、主婦がボランティアに参加するのも、ひとつながりの現象で、「社交の復活」だと思う。個々の人間がお互いを認知し合い、相互認知の中に喜びを見いだす。そういうつながりの中に、大量商品生産に代わるサービス産業の可能性もある。人間がもう一度、互いの顔が見える距離で向かい合い、仕草を見せ合い、認め合うこと、一人一人が人間関係を手作りしていくプロセスが、これから始まるのではないか。知的産業もサービス産業も、組織ではなく、そういう人間関係の中で育つ。経済も当面の景気対策だけでなく、文明史的な規模の視野が必要なのではないか。
2003.01.07 [日本再生への道標](下)米一極支配と北朝鮮問題(連載)
◇猪木武徳×山崎正和×大嶽秀夫
山崎正和・東亜大学長(劇作家・評論家)、大嶽秀夫・京都大学大学院教授(現代政治学)、猪木武徳・国際日本文化研究センター教授(労働経済学)の議論のテーマは国際関係に移った。
◇
◆過去と違い幸せな状況 山崎氏
山崎 将来、人々は二〇〇二年を、米国の一極支配構造が確立した年、世界がそれを選択した年として振り返るだろう。テロが大変皮肉な効果をもたらし、一極支配を認める機運が高まった。国連安保理の対イラク決議が満場一致で採択されたのは象徴的だった。 十九世紀後半から二十世紀前半までは、各国が秩序維持の主体として行動し、二つの大戦が起きた。続く冷戦時代、世界は東西両陣営に割れ、第三世界が草刈り場となった。そして冷戦後、米国が軍事、経済、外交において卓越し、周りに欧州や日本がぶら下がる構図ができた。
米国一極体制は、以前の二つの形態に比べれば、人類にとって幸せな状況だと思う。米国の国是である人権、民主主義、自由な市場は、ほとんどの先進国、中堅諸国が認めうる普遍的価値だ。米国には言論の自由があり、世界世論も浸透する。そのうえヒスパニック、アジア系の増加など、人口動態からみて、多元的国家になるのは確実で、いわば国家の内側に世界を抱えることになる。
◆米自体がグローバル化 猪木氏
猪木 その点は同感だ。グローバル化はアメリカ化だという批判があるが、米国自身もグローバル化している。ここ三十年ほどで、米国でも様々なエスニック料理が食べられるようになった。これに象徴されるように米国の多元化は著しい。
山崎 もう一つ大事なのが米国の戦力構造だ。攻撃力はすごいが、戦死者への感受性が大変強くなり、コソボ紛争では、兵士三人が失踪(しっそう)しただけで、撤退しようという声があがった。だから米国の場合、戦争に勝っても、そこを領土にして支配しようという話にならない。世界の管理者として最も危険性が少ない国といえる。
大嶽 相対的にみて、米国の一極支配が恩恵的だということは、戦後日本も占領によって経験している。ただ、イラクと北朝鮮を同一視した「悪の枢軸」論には違和感を覚える。イラクの場合、北朝鮮ほど上から民衆を抑えつけていない。ナショナリズムの要素が強いようだ。世界の警察官ならもっと、冷静に区別しなければ。 一極構造がもたらす危険性として、日・欧が米国頼りの姿勢に傾くということが考えられる。ただでさえ今、日本は経済が悪いため、欧州はEU拡大問題があって内向きだ。米国の力が後退した一九七〇年代、「日独機関車論」など、日欧が結びついて米国を支える流れがあったが、今の日本には、欧州と結ぶという発想がない。
山崎 他国が米国任せでいるかといえば、そうでもない。今回の北朝鮮外交についても、日本がある程度のイニシアチブをとった。EUは大きな勢力になろうとしている。米国はそうそう独走できない。アフガニスタンの戦後処理も独力でやれなかったのだから、今後は、他国の意見にも耳を傾ける方向に進むだろう。一極に大きな力を持たせながら、みなで瓶にふたをする形で、世界政治を運営していく可能性が高い。
大嶽 確かに、環境問題などで欧州が積極的にイニシアチブをとっている。日本も、米国が主導できない分野で積極的に貢献する道があるはずだ。
山崎 日本は米国に対し、協力しながら牽制(けんせい)を加えるべきだ。現に国連で加えられた牽制に、米国もある程度従った。イデオロギー対立なき世界では、自明の政治的信義とか正義が存在しないので、一つ一つ事柄に即して道義性を作り上げないといけない。その大きなファクターとなるのは米国の理想主義だが、日本も現実論や、別の理想をもって議論し、国際的な世論形成に参加しないといけない。
国際秩序を考えるうえで北朝鮮は二〇〇二年、日本人に重要な実地教育を与えた。話し合いではどうにもならない国が実在するんだと、草の根レベルで知ることになった。
◆強硬外交、世論が支持 大嶽氏
大嶽 戦後日本外交の転換点になった。これまで日本は下手(したて)に出ればうまくいくという平和主義できた。話し合えば分かるというのが一般的な世論だった。だが、時には強硬に出るべきだという姿勢に変わった。
山崎 日本が主導権をとって北朝鮮の政治体制を変えることは絵空事だ。もし日・米・韓の強い圧力に抗して北朝鮮が核再開発を続けるなら、中国が動く可能性がある。そうなると北朝鮮も変わるかもしれない。
猪木 小泉首相の訪朝は、米国の考えと無関係に行われたのではないだろう。北朝鮮の核開発情報が公になったのは訪朝後だったが、実際には、小泉首相は事前に米国経由で情報をつかみ、それを意図的に伏せたまま、独立した外交のステップとして北に行ったのだろう。
山崎 私も、日本が米国の意向に反して独自に動いたと思わない。米国は、小泉訪朝を待って、北の核開発を公にしたのだろう。だからこそ、日本は拉致問題に集中できた。
大嶽 おそらく連携はあった。ただし、拉致問題が日本でここまで大きくなったことについて、米国政府も懸念しているのではないか。
山崎 国民がこれほど情緒的に反応するとは、小泉首相も予想しなかっただろう。当面の問題解決について手を縛られた格好だが、世界には軍事力で解決すべき問題もあるのだと国民が理解したことは、精神的な意味で一大転機だったといえる。
2002.12.08 「〈民主〉と〈愛国〉」小熊英二著 刮目すべき戦後思想史 ●評者・橋本五郎(本社編集委員)
敗戦後の日本人を規定した「戦後思想」とはいかなるものだったのか。綿密にして体系的、丹念にしてダイナミックにその本質に迫った、思想史分野における近年最も刮目(かつもく)すべき作品である。戦後思想における言葉の持つ意味を確認するうえで避けて通れぬ文献になっている。
「戦後思想とは戦争体験の思想化である」。このテーゼを太い軸に据えて、「民主」や「愛国」「民族」「近代」などの言語の意味と評価がどのように変容したかを検証していく。一九五五年以前の「第一の戦後」では、社会変革のための革新の言葉だった「愛国」や「民族」、さらには「明治」に対する評価も、五五年以後の「第二の戦後」では保守の側に回収されていく。戦争体験が風化することによって、「民主」と「愛国」の共存関係は崩壊するのである。
戦後思想にとって、それほど戦争体験が深く刻印されていたということであり、それゆえの限界も露(あら)わになっていく。「戦争体験を持たない世代に共有されうる言葉を創れなかった」のだ。言語の持つ意味が時代や世代を抜きに考えられないことを、戦後思想を丹念に腑分(ふわ)けすることによって私たちに教えてくれる。戦中の愛国心教育と総力戦が戦後改革を促し、急進的な戦後民主主義も総力戦の遺産から出発した、との指摘も重要である。
千ページ近い本書の魅力の一つは、こうした作業を、丸山真男や大塚久雄、竹内好、吉本隆明、江藤淳らの思想を徹底的に読み込むことによって行っていることだ。それ自体が見事な丸山論や吉本論になっている。
あえて不満を言えば、保守の思想がいとも簡単に一刀両断され、基本的に左派知識人の思想史になっていることである。先進国で例を見ない自民党一党支配と高度成長はなぜ可能だったのか。その背後にある日本人の心性とは何だったのか。十分解明されていないうらみが残る。(新曜社 6300円)
◇おぐま・えいじ=一九六二年、東京生まれ。慶応大学助教授。著書に『〈日本人〉の境界』『単一民族神話の起源』(いずれも新曜社)。
2002.10.27 「奔流の中の国家」櫻田淳著 保守論客の保守批判 ●評者・橋本五郎(本社編集委員)
日本に「政治」というものはあるのか。ないのはなぜか。どうすればいいのか。この書は政治の現場も知っている若き学徒による、真の政治を蘇(よみがえ)らせようという真摯(しんし)なる試みである。
その筆法の特色は、今や「死語」と化したと思われるキーワードを駆使しているところにある。わが国が「君」「臣」「民」の三つの構造から成る「立憲君主国家」であることを確認し、それぞれが「分際」をわきまえながら精励することによって新たな国家秩序を形成しよう、と説いているのはその一例である。
「宮家の復活」をはじめさまざまな具体論が展開されているが、もっとも力の入っているのが、「臣」の再生だ。「臣」とは歴史や伝統、文化など「君」が体現する国家の「価値の体系」を護持し、「民」に規範を示して社会に秩序を付与する存在である。 「統治の作法」を実践すべき「臣」には欠くべからざる三つの条件がある。「強靱(きょうじん)な存在」「第一級の教養人」、そして「賢明な存在」でなければならないということだ。「臣」「分際」などという一見時代錯誤的な表現によって日本政治の貧困さが一層鮮明に浮かび上がってくる。「死語」は実は問題を明確にさせるための「覚醒(かくせい)概念」であることが分かるのである。 「政治とは何か」という本質論から最近の論調への批判も見所だ。保守派の一角を占める著者が糾弾しているのは、保守派内にある反米論や小泉首相の靖国参拝前倒し批判だ。
政治とは、現実の拘束の下で「より小さな害悪」を選択する営みであり、内野安打を連ねてどうにか一点を挙げる「堅い板に穴をくり貫いていく作業」に他ならない。にもかかわらず、保守派の論壇には「米国に抗いたい」という気分をもとにした「観念の遊戯」が支配している。あまりに幼児的で浮薄な論調ではないかと剔抉(てっけつ)しているのである。開かれた議論の出発点に成り得る十分な作品である。 (勁草書房 2000円)
◇さくらだ・じゅん=一九六五年、宮城県生まれ。東洋学園大学専任講師。
2002.11.21 [五郎の政治ワールド]政界、はや啓蟄 編集委員・橋本五郎
◆「斗ショウ(としょう)の人」は要らない
多くの生きものたちはこれから冬ごもりしようというのに、日本の政界では「啓蟄(けいちつ)」の季節を迎えているようだ。冬ごもりの虫がはい出す「啓蟄」は暦の上では三月六日前後だが、来年九月の自民党総裁選にむけてのうごめきが始まっているのである。
麻生太郎政調会長「(立候補の)声が上がれば応える立場にいるとの覚悟はある」 石原慎太郎東京都知事「自民党は絶対、小泉君を推さないし再選されない。しかし首相を続ける。政界再編は来年九月、総選挙なしで成る」 小泉首相「私は政策に関心があると思われがちだが、本当は政局が好きなんだ。(法案を与党が否決すれば)理屈としては解散になる」
最近の総裁選、衆院解散絡みの発言を拾ってみた。そこには「売り込み」「存在感誇示」「牽制(けんせい)」などさまざまなものが混在している。総裁選の一年ぐらい前から「前哨戦」が始まるというのが、永田町の「常識」であることを考えれば何の不思議もない。
しかし、深刻なデフレをどう退治するのか、国民一人一人の命と国家の命運がかかっている対北朝鮮外交、さらに対イラク対策をどう進めるのか。今の日本は、政治の総力を結集しなければならない非常事態なのである。“年中行事”に興じることが許される状況ではないのだ。
にもかかわらず、小泉首相はじめ万全の体制で対応しようとしているのか。強い危機感をもって臨もうとしているのか。底無しの観のある株価の下落問題一つとっても、悲観的にならざるを得ない。
「恐れず、ひるまず、とらわれず」。就任以来の小泉首相のモットーだ。痛みを恐れず、既得権益の壁にひるまず、過去の経験にとらわれない。その心意気でやってほしいが、大事なことは着実に実行しているかどうかだ。『論語』には、孔子の味わい深い言葉が満載されている。
「子貢、君子を問う。子曰(いわ)く、先(ま)ずその言を行う、而(しこう)して後これに従う」(為政篇)。君子とはどういう存在なのか。まず主張したいことを実行し、それから後に主張する人のことである。
「構造改革なくして成長なし」をはじめ、小泉首相の大きな特徴は「スローガン政治」にある。しかし、問題提起の段階はとっくに過ぎた。デフレ対策にしても、いかに地道に実現するかが問われている。そのために何が必要なのか。
先ごろ全十三巻が完結した酒見賢一氏の『陋巷(ろうこう)に在り』の第一巻には、正義派で剛直な弟子の子路に孔子がこう諭す場面がある。
「人君にして諫(いさ)めてくれる臣下がいなければ正を失う。士にして教えてくれる友がなければ聴を失う。人は諫めを享(う)ければ聖ともなる。学を受けて重ねて問うようにすれば従順にならないものはない。よって君子は学ばなければならないのだよ」 「敵」を明確にし「壊す」ことを最大の武器に登場した小泉首相だが、今求められているのは、総力戦でこの危機を乗り切ることである。そのためには人知を集め、耳を傾けることが必須である。 それにしても、今の政治の状況を見るに、次の一節は重い響きで伝わってくる。
「子貢問いて曰く、今の政(まつりごと)に従う者は如何(いかん)。子曰く、噫(ああ)、斗ショウ(としょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らん」(『論語』子路篇)
「現代の政治家はいかがでしょうか」と問うた子貢に先生は言われた。「ああ、器量の小さい者ばかりで、とても問題にならないよ」
◇
〈斗ショウ(としょう)の人〉 斗は当時の一斗、ショウは一斗二升。そうした升で量れるような小人物。
2002.10.21 [編集委員が読む]母なるものを考える 橋本五郎
◆「馥郁たる強さ」に本当の姿がある 秋の気配が漂うと、自然に思い浮かぶ詩があ。叙情詩人、大木惇夫の「ふるさと」である。
朝かぜに こほろぎなけば、
ふるさとの 水晶山も
むらさきに冴(さ)えたらむ、
紫蘇(しそ)むしる
母の手も 朝かぜに白からむ。
早朝の朝靄(あさもや)がたちこめる中、紫蘇を取っている母の姿と、その紫蘇で作ってくれた紫蘇味噌(みそ)の味が忘れられない。味噌に小麦粉と砂糖を混ぜ、紫蘇で包んで揚げただけの粗末なものだったが、そこには「母の味」があった。
誰しもそうだろう。もうこの世にいなくとも、年を経るにつれ、母の存在は大きくなってくる。皇后さまが国際児童図書評議会でのあいさつで引用された、竹内てるよさんの詩は多くの人に限りなき感動を与えた。
頬(ほお)
生れて何も知らぬ 吾子(あこ)の頬に 母よ 絶望の涙をおとすな
その頬は赤く小さく 今はただ一つのはたんきやう
(巴旦杏)にすぎなくとも いつ人類のための戦ひに
燃えて輝かないといふことがあらう
生れて何もしらぬ 吾子の頬に 母よ 悲しみの涙をおとすな 「母よ、もっと強くあれ」。皇后さまはそう呼びかけたかったに違いない。このスピーチで初めて「竹内てるよ」という名前を知り、自伝を読んだ。
そこには母の投身自殺、いや応なしに突き付けられた離婚と我が子との生き別れ、病苦と貧困との戦い、刑務所にいる長男との二十五年後の再会、という壮絶な人生が描かれている。その苦しみの中で生まれたのが「頬」だった。
「母なるもの」の存在の圧倒的な大きさを知らされたのだった。 井伏鱒二の「おふくろ」(昭和三十五年)には、老母にこんな風に説教される場面がある。 「ますじ。お前、東京で小説を書いとるさうなが、何を見て書いとるんか。字引も引かねばならんの。字を間違はんやうに書かんといけんが。字を間違ったら、さっぱりぢやの」 ほどなくして文化勲章を受章する大家にしてこうである。母とはこういうものなのだろう。 元NHKアナウンサーの遠藤ふき子さんが編集した『母を語る』(NHK出版)というシリーズがある。ラジオ深夜便で各界の著名人が母を語ったものだ。落語家で司会者の桂三枝さんが語る母の姿にも、母の原点がある。 生後十一か月で父を亡くした三枝さんは女手ひとつで育てられた。お母さんは大阪・梅田にある料理旅館の住み込みの仲居さんとして働き、三枝さんはおじさんの家に預けられた。
お母さんと会えるのは一週間に一度だけ。やさしい母だったが、食事中の躾(しつけ)だけは厳しかった。音を立てて食べてはいけない、箸(はし)の持ち方が悪いと注意された。お母さんはそのとき、こんな風に言うのだった。
「お前は今はこんな貧乏な暮らしをしているけども、大きくなって、いつ、だれと食事をするかもわからないんだ。ひょっとして天皇陛下と食事をするかもしれないんだから」
その機会はまだ訪れていないが、貧乏な中で母はよくそういう発想を持ったなと思う、と三枝さんは語っている。 母なるもの、それは馥郁(ふくいく)として、それでいて強じんなるものではないのか。折に触れ、どこからともなく聞こえてくる母の声がある。 「何事にも手を抜かず全力であたれ。そして常に謙虚であれ」
2002.10.17 [五郎の政治ワールド]指導者の不在 編集委員・橋本五郎
◆「意志」が国家動かす
「危機の時代」には思わぬリーダーが登場するものである。日本は今、政治的にも経済的にも危機の真っただ中にあると言ってよい。
ところが、凛(りん)としたリーダーの姿は一向に見えない。マスコミで脚光を浴びている人を見れば一目瞭然(りょうぜん)である。
道路公団の民営化で「台風の目」になっているのは作家の猪瀬直樹氏だ。日朝国交正常化問題は外務省の田中均アジア大洋州局長が一人で切り盛りしているかのようだ。経済危機の処方せんは竹中経済財政・金融相に「全権委任」され、竹中チームの先兵として木村剛氏(KPMGフィナンシャル社長)の“活躍”が期待されている。
何もこの人たちにケチをつけようというわけではない。政治のプロでない人があたかも「救世主」か、日本の針路を誤らせる「亡国の徒」であるかのように擬せられているのをおかしいと思うのだ。
プロの政治家が危機打開の前面に立っていないことに現下における「政治の貧困」が象徴的に表れている。真に責任を負うべき者が表面に出ず、背後で支えるべき者が表舞台で踊っているのである。
この背景には「時の人」探しに腐心するマスコミの問題があると同時に、小泉首相独特の政治手法の帰結でもある。その手法とは、既成の政治家を排除し、手あかに汚れていない“原理主義的志向”の民間人を重用することによって、旧体制に風穴を開け改革を加速させようというものだ。
その結果、当の本人は過度にもてはやされたり、過剰なまでにたたかれることになる。肝心の小泉首相はというと、経済対策を竹中氏に「丸投げ」して「高みの見物」を決め込み、危機は確実に進行している。これで危機を乗り切れるとは到底思えない。
ここで歴史的な英雄を持ち出すのは気が引けるが、アメリカの政治学者スタンレイ・ホフマンはドゴール元仏大統領の本領を「偉大さへの意志」に見た(『政治の芸術家ド・ゴール』)。そしてドゴールを限りなく評価するニクソン元米大統領は敷延する形でこう書いている。
〈ドゴールにとって、政治は可能性の芸術であるより先に意志ある者の技術だった。意志こそ国家を動かす基本的なものであり、わが意志によって歴史を形づくる能力に関するかぎり、彼は絶大な自信を持っていた〉 何もドゴールのようなカリスマを待望しているのではない。「政治の意志」が見えないことを嘆き、「力の結集」のための態勢づくりをすることで未曽有の危機に対処せよと言いたいのだ。
先月の本欄で、日露戦争にあたって総力戦で臨んだ明治の為政者たちの逸話を紹介した。吉村昭氏の『ポーツマスの旗』から、もう一つのエピソードを紹介しよう。
ポーツマス条約に対しては日露戦争の実相を知らない国民があまりに譲歩しすぎたと怒りを爆発、東京のいたるところで焼き打ちが行われた。条約調印から四十日後、横浜港に着いた外相小村寿太郎を待ち受けていたのは暗殺計画だった。在留外国人の間では小村が暗殺される場所の賭けが行われ、最も賭け率が高かったのは新橋駅だった。
新橋駅のプラットホームには桂太郎首相や山本権兵衛海相が出迎えた。二人は小村の腕を抱え両側から挟むように出口に進んだ。「かれらは小村に爆裂弾か銃弾が浴びせられた折には、共に斃(たお)れることを覚悟していたのである」 この個所を読む度に込み上げるものがある。そこには、命を賭(と)して国の危機にあたろうとした「意志ある政治」の原点があるからである。
02.07.18 [五郎の政治ワールド]世代交代の虚実 編集委員・橋本五郎
◆いつまで「二人酒」か
世代間の対立は、いつの時代でも存在するものである。ローマ帝政時代の著作家、プルタークの『倫理論集』には「老人は政治から手を引く方がいいか」という友人あての手紙が収められている。その中にこんな一節がある。
「政治家もイリスの花のやうに少し凋(しぼ)んでから本当に芳香を発する」 「老人が国家に盡(つく)す手段は理性と判断と直言と知恵である。それらはゆつくりと遅く得られる」(河野與一訳)
九月に行われる民主党代表選は、必ずしもプルタークの言うような老人対若者という図式ではないが、一番の見所は世代間対立であり、「世代交代」の是非にある。
若手擁立論の急先ぽうである安住淳氏(40)は言う。 「『鳩・菅』を乗り越えることが『鳩・菅』への恩返しになる。日本が劇的変化をするためのリーダーシップは若い人でなければだめだ」 「恩返し」という情緒的な装いをこらした言辞に隠されている本心とは、「鳩山由紀夫代表や菅直人幹事長はもはや賞味期限が切れた」ということだろう。
旧民主党が発足してからもう六年。この間、自民党の総裁・総理は橋本―小渕―森―小泉と四人を数えるが、民主党は「鳩・菅二枚看板」だ。「二人でお酒を」体制が続いている。これでは新鮮さがなくなるのも不思議はないというわけである。 これに対する反論がまた記録にとどめる価値がある。
「自民党でも若手が言っていることと、大勲位と言われるような八十歳以上の人(中曽根元首相)が言っていることのどちらに内容があるか。若ければ若いほどいいんだったら、オギャーと生まれたゼロ歳児に総理大臣をやってもらえばいい」(菅氏) 「私は五十五歳、菅さんも五十五歳。『自民党であるならばまだ洟(はな)垂れ小僧だ』と言われた時代もあるので、必ずしも我々が老いた部類で淘汰(とうた)されていくべきものではないだろう」(鳩山氏) 両氏の危機意識が並々ならぬものであることは一目瞭然(りょうぜん)である。
おもしろいことに自民党の場合は、世代交代論が総裁選のキーワードになることはそんなになかった。総裁イコール総理のため、総裁選は権力争奪をめぐる総力戦だった。しかも、あまりに短期間で交代するため世代交代を言っている暇もなかったのだ。
外野席から言わせてもらえば、政治の世界では若いか若くないかは一番の価値基準ではない。世代交代それ自体に意味があるわけでもない。要は寄り合い所帯の民主党を強いリーダーシップで束ね、国民に期待を抱かせる政策を打ち出せるのは誰なのかが問われなければならない。
ゲーテは『ファウスト』でメフィストフェレスにこう言わせる。「悪魔は年をとっている。だから悪魔を理解するには、お前も年をとっていなければならぬ」
政治における「悪魔」とは何か。マックス・ウェーバーは「政治を行う者は、すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである」(『職業としての政治』)として、「強制力」という名の悪魔をいかに目的に向かって有効に操作できるかにこそ「政治」の本質があると喝破した。
「年をとる」とは生物的な年齢を積み重ねることではない。政治的、精神的な成熟の度合いを意味している。
本当に政権政党を目指すために誰が代表にふさわしいのか。代表選を器量と政策を争う場にすることが、政権を奪取するための大切な一歩なのである。
2002.07.14 「西田幾多郎の思想」小坂国継著 難解な概念解きほどく ●評者・橋本五郎(本社編集委員)
『善の研究』を私は三冊持っている。自宅の居間と書斎の手の届くところに岩波文庫と『西田幾多郎全集』を、そして会社のデスクにもう一冊の文庫を置いてある。いつかは通読しなければと焦燥にも似た気持ちを抱き続けながら、今なお読み切っていない。
私にとっては難解すぎて、何度試みても挫折してしまうのだ。ところが、ある日、古本屋でNHKラジオのテキストを見つけた。ああこれなら少しはわかるかもしれないと希望を持った。それを元にしたのが、本文庫なのである。
例えば「純粋経験」の説明はこんな具合だ。〈道を歩いていて、思いがけなく野辺に咲く花を見、「アッ!」と驚きの言葉を発したその瞬間の状態が純粋経験である。その瞬間においては自分と花は一体になっていて両者の区別はない。ただ一つの事実があるだけである〉 このようにして「絶対矛盾的自己同一」「絶対無の自覚」「行為的直観」など、私たち素人にはなかなか理解できない西田哲学のキー概念が解析されていく。そして、西田の人と思想から何を学ぶべきなのかという実践的な指針を与えてくれるのである。私にとって極めて印象に残ったのが、西田自身の次の言葉である。
「私の生涯はきわめて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」
「午前坐禅、午後坐禅、夜坐禅」 「朝におもひ夕におもひ夜におもふおもひにおもふわが心かな」「余の妻よりよき妻は多かるべく、余の友よりよき友は多かるべし。しかし余の妻は余の妻にして余の友は余の友なり」 ひたすら座禅を組み、思索を重ねる壮絶なまでの求道者の一方で、深い情愛の人となりがくっきりと浮かび上がってくるのである。(講談社学術文庫 1100円) ◇こさか・くにつぐ=一九四三年、中国生まれ。日本大学教授。宗教哲学。
2002.07.08 [編集委員が読む]草野式苦節10年 学生諸君、いやでも古典に挑め 橋本五郎
つい先日、慶応大学総合政策学部の草野厚教授の学生による「戦後日本外交論プレゼンテーション大会」でジャッジ(判定役)を務める機会があった。私にとっては「これがいまどきの大学生なのか」という新鮮な驚きがあった。
大学の授業といえば、慶応義塾長を務めた小泉信三博士(一八八八〜一九六六)に、恩師福田徳三の授業風景を描いた文章(「我が大学生活」)がある。
〈いつも黒木綿の紋付羽織を着て、木綿袴の紐を胸高にしめてゐた。教室に入ると黙つて椅子にかけ、懐ろの分厚なセリグマン(経済学者)の原論を取り出して机の上にひろげ、一二頁を音読する。次ぎに其處を飜訳し註釈と批判とを加へる。時々近眼鏡の奥から、眩ぶしさうに、少し細めて学生の上を見る。斯様にして一時間若しくは二時間が過ぎる〉
三十年以上も前の私の大学生活を顧みても、服装こそ違え、そんな風景が一般的だった。ところが、今やその光景は一変している。
プレゼンテーション大会は、四月に入学したばかりの一年生が十五班に分かれて政策提言を行い、その優劣を競おうというものだ。テーマはアジア難民、北方領土問題、日米安保条約の行方などさまざま。外務省関係者を中心に私も含めた五人が「論理性」「独創性」「チームワーク」「演出力」の四つの角度から採点した。
なにしろまだ一年生だ。事実認識をはじめ難点を指摘することはいくらでもできるが、そんなことよりも、表現能力の巧みさに圧倒されてしまった。テレビのドキュメンタリー番組やニュースショーの手法も採り入れながら、伸び伸びと一個の作品に仕上げていた。 草野教授がこの試みを始めて、もう十二年になる。一年生を対象にしたのは、アカデミックな議論を通じて友達を作ってほしいということに加え、グループ内でまとめていく過程で、さまざまな考えがあることを素直に受け入れる柔軟な思考を養うという狙いがあったという。発表を見て、草野式教授法は着実に花開いていることを知るのである。
ただ、危惧(きぐ)もあった。全体の講評では、表現力を称賛しつつ、次のように注文した。
〈外交のあり方を論じる場合でも、人間とは何か、国家や政治権力はいかなるものかという最も本質的な問題への洞察がなければならない。そのためには千年、二千年の歴史の風雪に耐えた古典を読む必要がある。いやでも苦しくとも、大学生の時にこそ、その訓練をしなければならない〉 プラトンの『ソクラテスの弁明』やマキアヴェリの『君主論』などを例に挙げたが、インターネットの発達で、今や一冊の本を読まなくともリポートを書ける手軽な時代になっている。しかし、それでいいはずがない。
二次会に移って、私のささやかな経験を話した。古典ではないが、大学一年の夏に読んだ本に、安藤英治氏の『マックス・ウェーバー研究』(未来社)がある。マルクスの剰余価値説にしても、ウェーバーのエートス論にしても、ほとんど理解できなかった。しかし、巨大なテーマに真摯(しんし)に、必死に挑んでいる著者の姿に深い感銘を受けた。
真夏のうだるような暑さとともに、その感動を今なおありありと思い出すことができる。大学生になるということは、そういう記憶をできるだけ多く持つということではないのか。学生は静かに聞いていた。
故江藤淳氏が慶応大学教授を退職するにあたって行った最終講義は何度読んでも胸震える思いがする。その中にこんな一節がある。「私は肩で息するぐらい勉強したいと思って慶応に入った」(『国家とはなにか』文芸春秋) 自分にそれができたのか、という悔恨の気持ちが強い分、学生諸君には言いたかったのである。
2002.06.23 「独立自尊」北岡伸一著 混迷の現代への指針 ◇評者・橋本五郎(本社編集委員)
「福沢コンパス説」。福沢諭吉の直弟子で慶応義塾長、文部大臣を務めた鎌田栄吉の福沢論だ。「先生はコンパスの如き人である。独立自尊といふ主義の点にちやんと立脚して、此の一脚といふものは、どんな事があつても外へ動かない。けれども、他の一方を自由自在に伸縮して、さうして、大円を描き、小円を描く」。一筋縄ではいかない福沢を表現して余りある。
その「独立自尊」をタイトルにした著者の意図は、「はじめに」で鮮明である。
「福沢は自らの内なる声に耳を傾けて、本当にしたいこと、本当に正しいと思うことだけをした。自らを高く持し、何者にも媚びず、頼らず、何者をも恐れず、独立独歩で歩んだ。そういう独立自尊の精神こそ、混迷の時代に最も必要なものである」 今日に生きる我々はどうあるべきなのか、という烈々たる問題意識を秘めての福沢論である。高校生にもわかる啓蒙書(けいもうしょ)を意図したのだろう。平易な文章で、福沢の人となりと生き方、その思想を解きほぐし、明治という時代とともにバランスよく描いている。
近代日本の思想界に屹立(きつりつ)する福沢だが、否定的評価も根強い。その最たるものは「大陸膨張政策の源流」という見方だ。しかし、著者は、福沢が朝鮮の独立を本気で考え、政府の肥大化につながる植民地化には反対だったこと、日本の将来は貿易国家としての発展にしかないと考えていたことなどを挙げ、正しくないとみる。私には十分説得力があった。
大久保利通との関係について、「明治を代表する権力者と明治を代表する知性との間には、相当深い対話が成り立っていた」との指摘も新鮮である。「独立自尊迎新世紀」と大書して一か月後の明治三十四年(一九〇一)二月三日、福沢は六十六歳の生涯を終えた。しかし、その所論は輝きを失っていないどころか、むしろますます増していることを実感した(講談社 1900円) ◇
◇きたおか・しんいち=一九四八年、奈良県生まれ。東大教授。
【自民総裁選 Vs小泉−くらべてみると…】(5)靖国・憲法・教育 [2003年09月13日 東京朝刊] ■見えぬ独自の“国家像”
「いかなる批判があろうと、八月十五日に必ず靖国に参拝する」
一昨年の自民党総裁選でこう繰り返した小泉純一郎首相。だが、近隣諸国の圧力から、この“公約”を果たせず、「いまだに後悔している」(周辺)とされる。
それから二年。今回は、前回平成十三年四月の総裁選の大きな焦点の一つだった靖国神社参拝問題はテーマとなっていない。福田康夫官房長官の私的懇談会が昨年末に建設を提言した無宗教の国立追悼施設の是非なども全く話題にならない。
だが、この新施設構想には、衆参国会議員二百六十五人が反対署名し、自民党の署名議員は過半数(百七十九人)を大きく上回る二百四十四人に達する。
藤井孝男元運輸相、亀井静香元政調会長、高村正彦元外相の三候補も反対者に名前を連ね、亀井氏は新施設反対集会で「これほどばかげた発想はない。絶対に阻止する」と表明している。
一方、首相は「(新施設は)宙に浮いているということじゃない。冷静に諸般の情勢を見ながら考える」と建設に含みを残しており、本来なら対立軸や争点となるべき問題だ。だが、国民の関心が高い「戦没者追悼という国の根幹にかかわる大問題」(官房長官経験者)に、各候補の肉声は聞こえてこない。
× × ×
「現行憲法は日本語としておかしい」(麻生太郎経済財政・IT担当相=当時)、「集団的自衛権の行使は今の憲法でも大丈夫だ」(亀井政調会長=同)
前回の総裁選では、憲法の問題点や、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとする政府の憲法解釈変更の是非など、国家のあり方や、基本にかかわる問題が率直に取り上げられた。
その後、日本は米中枢同時テロ、インド洋への自衛隊艦船派遣、奄美大島沖の北朝鮮工作船事件、北朝鮮の核開発発覚、イラク戦争…と、数多くの試練に見舞われた。
その過程で「現行憲法や法解釈で対応できる限界が明らかになった」(防衛庁筋)ほか、来年は衆参両院の憲法調査会が最終報告をまとめる。にもかかわらず、今回の総裁選で「二年以内に憲法改正試案を作成、三年以内に国民投票を実施」と明確なビジョンを示したのは亀井氏だけ。藤井氏や高村氏は公約でも特に触れていない。
一方の首相は八月、山崎拓幹事長に憲法改正の自民党案をとりまとめる方針を示したが、すぐに自分の内閣では政治課題にならないとトーンダウン。また、各候補が日米同盟の重要性を説く一方で集団的自衛権の問題は忘れられ、政府の「今の内閣で(政府解釈を)変えることはしないと再三言っている」(福田康夫官房長官)という慎重論しか聞こえてこない。
政治評論家の三宅久之氏は「首相は問題提起はするが、自分で火の粉はかぶろうとしない」と冷ややかな視線を送る。
× × ×
次世代を担う国民を育て、「国家百年の大計」といわれる教育問題に関してはどうか。
小渕恵三、森喜朗両元首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が最終報告で見直しを提言し、今年三月、中央教育審議会が見直しを求める答申を出した教育基本法の改正に、藤井氏は「改正は大事」、亀井氏は「早期改正」と前向きだが、首相と高村氏は特に考えは示していない。
教育の重要性は四候補とも認め、その内容には温度差があるにもかかわらず、主要な争点とはなっていない。
藤井氏は「歴史、文化、伝統への敬意を取り戻し、日本人としての誇りを持てる教育」を訴えるが、首相は前回の総裁選で「日本の伝統を大切にする教育」を公約していたのを、今回は「人間力向上のための教育改革」に変え、より国家的視点を薄めている。
三宅氏は今回の総裁選の論戦について「当面の問題ばかりで長期的な課題は出てこない」と指摘。その理由を「国家観では四候補に本質的な差はない。国民相手の選挙ではなく党員や国会議員向けのため、国家観で論争しても票は集まらない」と解説する。
だが、総裁選が実質的に日本のリーダーを選ぶ選挙である以上、各候補は自らの国家像をもっと国民に向けて示す姿勢が必要だろう。
=おわり
◇
この連載は有元隆志、阿比留瑠比、石橋文登、田北真樹子が担当しました。
2002.07.18 [五郎の政治ワールド]世代交代の虚実 編集委員・橋本五郎
◆いつまで「二人酒」か
世代間の対立は、いつの時代でも存在するものである。ローマ帝政時代の著作家、プルタークの『倫理論集』には「老人は政治から手を引く方がいいか」という友人あての手紙が収められている。その中にこんな一節がある。
「政治家もイリスの花のやうに少し凋(しぼ)んでから本当に芳香を発する」
「老人が国家に盡(つく)す手段は理性と判断と直言と知恵である。それらはゆつくりと遅く得られる」(河野與一訳)
九月に行われる民主党代表選は、必ずしもプルタークの言うような老人対若者という図式ではないが、一番の見所は世代間対立であり、「世代交代」の是非にある。
若手擁立論の急先ぽうである安住淳氏(40)は言う。
「『鳩・菅』を乗り越えることが『鳩・菅』への恩返しになる。日本が劇的変化をするためのリーダーシップは若い人でなければだめだ」
「恩返し」という情緒的な装いをこらした言辞に隠されている本心とは、「鳩山由紀夫代表や菅直人幹事長はもはや賞味期限が切れた」ということだろう。
旧民主党が発足してからもう六年。この間、自民党の総裁・総理は橋本―小渕―森―小泉と四人を数えるが、民主党は「鳩・菅二枚看板」だ。「二人でお酒を」体制が続いている。これでは新鮮さがなくなるのも不思議はないというわけである。
これに対する反論がまた記録にとどめる価値がある。
「自民党でも若手が言っていることと、大勲位と言われるような八十歳以上の人(中曽根元首相)が言っていることのどちらに内容があるか。若ければ若いほどいいんだったら、オギャーと生まれたゼロ歳児に総理大臣をやってもらえばいい」(菅氏)
「私は五十五歳、菅さんも五十五歳。『自民党であるならばまだ洟(はな)垂れ小僧だ』と言われた時代もあるので、必ずしも我々が老いた部類で淘汰(とうた)されていくべきものではないだろう」(鳩山氏)
両氏の危機意識が並々ならぬものであることは一目瞭然(りょうぜん)である。
おもしろいことに自民党の場合は、世代交代論が総裁選のキーワードになることはそんなになかった。総裁イコール総理のため、総裁選は権力争奪をめぐる総力戦だった。しかも、あまりに短期間で交代するため世代交代を言っている暇もなかったのだ。
外野席から言わせてもらえば、政治の世界では若いか若くないかは一番の価値基準ではない。世代交代それ自体に意味があるわけでもない。要は寄り合い所帯の民主党を強いリーダーシップで束ね、国民に期待を抱かせる政策を打ち出せるのは誰なのかが問われなければならない。
ゲーテは『ファウスト』でメフィストフェレスにこう言わせる。「悪魔は年をとっている。だから悪魔を理解するには、お前も年をとっていなければならぬ」
政治における「悪魔」とは何か。マックス・ウェーバーは「政治を行う者は、すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである」(『職業としての政治』)として、「強制力」という名の悪魔をいかに目的に向かって有効に操作できるかにこそ「政治」の本質があると喝破した。
「年をとる」とは生物的な年齢を積み重ねることではない。政治的、精神的な成熟の度合いを意味している。
本当に政権政党を目指すために誰が代表にふさわしいのか。代表選を器量と政策を争う場にすることが、政権を奪取するための大切な一歩なのである。
2003.01.03 [政治を問う]識者インタビュー(2) ◎衰退の過程使命感失うエリート層
歴史的に先進国が衰退の流れをたどる過程を見ると四段階ある。日本はその第二段階
に来ている。
第一は、様々な問題が浮上し、「今までとは状況が違う」という問題意識が生じる段階だ。日本では、バブル崩壊、細川政権時の政治改革、橋本政権の行政改革のころまで。改革論が百花繚乱(りょうらん)のように出てきた。
第二段階は、改革が進まないことがだんだん見え始め、状況は一層悪化し続ける。橋本改革以降の日本は金融危機に陥り、デフレが深まった。国民のモラルや治安も崩壊の兆しを見せ、経済の手直しだけでは流れを止められない状況になった。小泉政権はこの段階の終わりの方だと言える。「これではだめだ」と国民もリーダーも焦っている。焦燥感から来る一種の破壊衝動が、ポピュリズムやスローガン政治になる。
瀋陽の領事館の北朝鮮住民亡命事件、外務省の一連の不祥事、BSE(牛海綿状脳症)問題などは、エリート層が、国事を考える座標軸、使命感を失っていることを示した。国の衰退時には普遍的に見られる現象だ。
にもかかわらず、官僚主体の足して二で割る発想で「改革」を論じている。日本のあらゆる改革にこの「焦り」とマンネリズムの組み合わせが見える。ここに一番大きな衰退の光景を見る。
◎教育改革、政治活性化のカギに
第三段階に至ると、社会機能の大きな崩れが起きる。サッチャー政権成立前の一九七九年の英国は、財政が崩壊してごみ収集など社会サービスも出来なくなった。ロンドンの街中ごみの山だった。第四段階になると、行政、治安の崩壊が常態化し、先進国から途上国に転落する。
今の日本は徐々に第三段階に入ろうとしている。
しかし、先進国は、衰退と再生を繰り返す。リーダーが決断し、国民が目覚めれば再生は十分可能だ。
一つは民主主義社会の中で、政治が再活性化しなければならない。必ずテーマになるのが教育改革だ。サッチャー英首相、レーガン米大統領も率先して取り組んだ。教育改革は、大人に対して価値観や精神構造を基本に立ち返って考えなさいという社会全体へのメッセージだ。
大事なのは、民主主義政治のあり方を変えるリーダーシップだ。民主主義の支えはあくまで政党政治であり、政党政治で一番憂えるべきは、無党派だ。民主主義政治は政党を通してやるしかなく、政党をリニューアルしていかなければならない。日本人の政党観を変え、国民に選択肢を明示し、分かりやすい政党の再編をするしかない。再編の対立軸は、経済、安全保障より、国家目標や国のアイデンティティーの問題に必ずなる。
◎対外危機の年集団的自衛権議論の中心に
小泉首相は、危機感をあおり、明確なスローガンと踏み込んだ公約をして登場した。ところが実際の問題解決の仕方は、人任せで弱いリーダーシップだ。丸投げという言葉は、その適否は別にして、「強いリーダー」というイメージと違うじゃないかという幻滅を込めた国民の不満を表している。
今年は、スケールの大きな対外危機が迫ってくる。イラク問題は戦後の中東秩序をどうするか、石油も絡んで日本の世界戦略の問題にもなる。北朝鮮問題では、経済制裁が進めば、九三、九四年以上の危機が再来する。その際、日本にとって一番重要な日米関係が問われる。集団的自衛権の問題も考えざるを得ない。
こう考えると、早期衆院解散の見方もあるが、選挙なんかやっている時ではないというぐらいの危機感を持つべきだ。だが、本当に日本の国が出直しするために、例えば、集団的自衛権の問題で大きく政界再編をして衆院解散・総選挙に入っていくならいい。
「自分はこの日のために生まれてきた」というチャーチルの言葉がある。一九四〇年五月、第二次世界大戦の緒戦で大敗北を喫し、危機的状況の中で首相に就任した日の日記にある。
政治指導者は、何十年に一度の危機の時を迎えて、自分が政治家としての全人生を問われているという気持ちにならなければならない。今年はそういう年になるのではないか。(聞き手・飯田政之)
◇
◇なかにし・てるまさ 55歳。京大法卒。英ケンブリッジ大院修了。国際政治学、文明史。著書に「国まさに滅びんとす 英国史にみる日本の未来」(文春文庫)など。
〈集団的自衛権〉
同盟国の米国が他国と戦闘状態になった場合、日本がその国を攻撃すると集団的自衛権の行使になる。政府は「権利は持つが、憲法上行使できない」としている。
2003.01.07 [社説]岐路の日本 今こそ「政治復権」の時だ 国家戦略を立てよ
◆壁にぶつかった「小泉流」
「国民が政治のことを意識しなくて済む。そうした状態が望ましいのだが」
首相在任中に病に倒れた、大平正芳氏の持論だった。国家の安定と平和の維持が、政治の要諦(ようてい)であることを考えれば、まさにその通りである。
大平氏の在任は、一九七八年から八〇年にかけてだった。二度の石油危機に見舞われながらも、日本はこの前後、実質で2―6%の成長を続けていた。
国民の多くが、経済運営を、政治に任せるゆとりを持っていた、と言っていいだろう。
それから四半世紀、日本は戦後初の、本格的なデフレに直面している。景気は悪化し、失業率は高止まりしたままだ。本来であれば、危機脱却へ舵(かじ)を取るべく、政治の出番である。
だが、そうした要請に応えるだけの気概も力も、今の政党や政治家は持ち合わせていないようにも見える。道案内をしてくれないのである。
責任を負うべきは、まず小泉首相だ。誤った現状認識に基づく、改革一本ヤリの経済失政を、これ以上積み重ねてはならない。
政策だけではない。自らの手法が、大きな壁にぶつかっていることも、認識すべきだ。
小泉政権が最大のよりどころとしているのは、歴代政権に比べなお高水準にある、内閣支持率だ。「改革なくして成長なし」といった、首相の歯切れ良い言葉が、多くの国民の耳に心地よく響いてきたことは確かである。
しかし、そうしたやり方に、国民もそろそろ疑念を抱き始めているのではないか。経済をはじめ、「改革」の具体的な中身が、現実の政策になかなか反映されてこないからである。
数字にも、それは表れている。読売新聞の最新の世論調査で、小泉内閣を支持しないと答えた人が挙げた理由で、最も多かったのは「政策が評価できない」だった。一方、支持層でも、政策を理由とした人は極めて少数だった。
首相の言葉の「魔力」も薄れつつあるようだ。テレビなどを通じ流れる首相のコメントについて、「わからない」とした人が半数に上った。「ワン・フレーズ・ポリティックス」と評される大衆迎合的手法が限界にきていることを、首相は重く受け止めるべきである。
小泉首相は、就任以来、「首相主導の政策決定システムの確立」を心がけてきた。機動的な対応を求められることが多い現在、当然のことである。
だがそれが、道路民営化問題や税制改革に見られるように、「丸投げ」され、また、首相の目指すものがはっきりとしないようでは、何ら意味を持たない。
◆無為無策からぬけ出せ
説明不足は、国民の不信感を高めるだけである。いずれは、首相への批判となって跳ね返ってくるだろう。
小泉首相の“独走”を容認してきた、国会と政党の側の責任も重い。
次をうかがう領袖が(りょうしゅう)政権へにらみを利かせていたのが、自民党政治だった。その自民党から、小泉首相批判は聞こえてくるものの、高支持率を背景にした首相の前に、その声は決して大きくない。
野党も同罪だ。党内抗争に目が向いていた民主党に働いた遠心力は、政府・与党から緊張感を奪うことにもなった。国会の惨状は、空席の目立った昨年末の臨時国会を見れば、歴然としている。
本来の責務を忘れた政党の存在が国民の半数にも上る無党派層を生んでいる。立法府と行政府を巻き込んだ、政治のデフレ・スパイラルとでも形容できるのではないか。
無様な体たらくを、これ以上さらけ出してはなるまい。政治が一体となり、復権への道を考えなければならない。
課題は山積している。経済は言うまでもない。少子高齢化といった内政問題も無視できない。北朝鮮の核開発や、間近と見られる、米国によるイラク攻撃などの外交・安全保障の懸案もある。
◆憲法を選挙の争点に
小泉首相の助言機関である「対外関係タスクフォース」は、「国益を踏まえた戦略」の策定を提言した。だが、戦略が必要なのは、外交だけではない。
将来に不安を抱いている国民は、極めて多い。日本の将来を見通した国家戦略がないことが、最大の理由だ。
国の大本である憲法の改正は、その最大のテーマだ。世論も熟しつつある。衆院憲法調査会がまとめた中間報告も踏まえ、具体化を急ぐべきだ。
四月には、統一地方選が予定されている。来夏には参院選があり、それまでには衆院選も実施される。
各党は、憲法を軸に、国のあり方を明示した国家戦略を、選挙で問うようにしなければならない。それでこそ、国民の声に応えることになる。
国際化時代に生きる道〜21世紀の日本の針路〜
2003年10月25日 平成15年度 徳島文理大学 公開講演会
文学部コミュニケーション学科教授 高橋起
21世紀はじめの世界は、文明、人種、宗教などの衝突と共存の流れの中にあるといえる。ハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授は、20世紀末の冷戦構造崩壊のあと、世界はイデオロギーの対立に代わり文明の対立が紛争の主な要因となると主張した。主要文明を西欧、イスラム、儒教、日本など8つに分類、文明圏を単位とした地域主義の対立が激化すると述べた。
しかし、今あえて言えば、3大メジャー+1極の共存と対立が続く時代ではないかと考える。その意味するものは、3大メジャーは@キリスト教圏Aイスラム圏B中国圏で、+1極というのは日本のことである。マイナーとは言いたくない。日本は20世紀後半、高度成長を遂げ、米国についで世界第二の経済大国になった。しかし、2003年の時点ではもはやメジャーとはいえない。小泉首相は、構造改革で日本の将来は明るいというが、老化した体制、少子化の進行、改革に対する抵抗派と推進派の対立の激化などを考えると、簡単に同意できない。日本は善戦し、国際的に力を発揮しているが、油断すれば21世紀中期にも、大きく転落する可能性がある0最大限の努力をしないと、3大メジャーに飲み込まれる。十分な警戒と努力が必要である。
イラク戦争は大義なき戦いであった。ブッシュ大統領は、「パパ0ブッシュ」の湾岸戦争での失敗、大統領再選への不覚について復讐を狙ったものと見られている0他国への攻撃は@自衛権の発動A国連決議の存在がなければ国際法違反だが、今回はいずれもなかった。米英軍は@核兵器の製造準備A生物化学兵器の存在という大量破壊兵器絶滅を理由にイラクに侵攻したが、いずれも発見されていない。最近のブッシュ大統領とブレア首相の支持率は大きく低下している。仏独露などの各国は米英の軍事行動に反対した。小泉首相も日米同盟の存在は尊重しないといけないだろうが、ブッシュ大統領に率直に意見を言うべきだった。
日本政府は今後自主的判断で、外交、安保政策を推進、展開すべきだ0そうしないと日本民族は21世紀を無事に生き残ることができない。
米国の新保守主義への対応も重要問題だ。ブッシュ大統領の政権のなかに、強硬派と穏健派が存在する。宮沢元首相は、10月23日、政界引退の記者会見で、外国への自衛隊派遣、外国での自衛隊の武力行使を慎重にすべきだと述べた。やんわりとした小泉首相批判だ。小泉首相の靖国神社参拝、安保外交政策に自民党の中にも批判の意見がある。「それ行け、ドンドンは危険な道」ということである。戦争中の教訓を忘れてはアジアの隣国からも見放される心配がある。
イラク復興支援と巨額外国援助もあらためて検証の必要がある。日本政府は10月17日、ブッシュ大統領来日の直前、イラク復興支援事業に来年度、15億ドル(約1650億円)を拠出することを決めた。突出した額だ。先進国の中で、世界最大の赤字財政国の日本はもっと自主的に外国援助を決定すべきだ。ODA政府開発援助の再検討も必要だ。年間9300億円のうち、これまでは中国への拠出が大きかった0中国はもはや開発途上国とはいえない0
国連中心主義への疑問もある。日独伊3国を依然として旧敵国視する国連だ。その国連分担金は2003年の分担率で――米国22.0%、フランス6.4%、イギリス5.5%、中国1.5%、ロシア1.2%だ。常任理事国5カ国の数字に比べ、日本19.1%、ドイツ9.7%である。日本の意思をもっと国連活動に反映させるべきだ。時には拠出をストップするくらいのパフォーマンスがあってよい0米国は時々やるのだ。国際化のなかで生きる日本の知恵を発揮すべきだ。「国連中心の世界秩序」を夢見た「集団的安全保障の理想」は虚構の面があることを認識する必要がある。
テロのリーダーといわれるビンラーディンは、最近「日本も攻撃の対象」と言明したと報道された。彼は生きている。以前は、中東で日本が友好国であった。最近の国内の治安悪化、外国人犯罪の驚異的増加も合わせ、真剣な対応が必要である。
一方、経済のグローバル化への対応も重要課題だ。20世紀末は、米国第一、日本第二の経済大国であった。これからは、世界経済を米国と中国が二分し、強烈な主導権争いをする可能性がある。最近の「元」の再評価についての米中間の熾烈な駆け引きを注目する必要がある。日本長期信用銀行が米国の投資グループ、リップルウッドに買い叩かれたようなことを繰り返してはならない。
日本は今の時代に適応した教育改革を実行しなければならない。教育の自主性、独立的志向の確立が求められる。自ら生活と安全を守ることも必要だ0しかし近隣諸外国を無視した「それ行けドンドン」は国家の未来を誤まることも認識するべきだ。
道各社世論調査議席予測 11月4日(火)
自民党、過半数に迫る 民主党も議席増の勢い〜報道各社世論調査のまとめ〜
初めに今月1日に東京のあるシンクタンクが明らかにした総選挙の予想を紹介したい。
それによると、自民党は解散前の247議席から大幅に減って、225前後になり、その分、民主党が自由党との合併効果で、これまた増えて、選挙前の183から200議席前後になるという。
自民党は小泉首相の人気も大都市で通用せず、失業も減らないし、本当の暮らしがよくなったという実感がないとして、減ると言うのだ。
公明党は解散前の31議席を確保できるか、1議席減の予想。あまりパッとしない。
共産、社民は後退ということだ。
〔主要政党の解散前議席〕
自民 民主 公明 共産 社民 保守新
247 137 31 20 18 9
このようなシンクタンクの予想に反し、報道各社は10月30日から11月2日までの間に、電話による世論調査をして、3日の紙面に一斉に掲載した。
その結果は驚くほど似ている。きちんとした数字は各社とも発表しない。以前は獲得議席の予想数字を具体的にそのまま出した。しかし、あまりにも選挙の最終結果と違う場合が多いので、大体の数字を概数で発表するようになった。約1週間前の数字を見て、以前には、10人に一人くらいが頭をひねって投票先を変えると、結果はだいぶ違ってくるのである。
さて朝日新聞を例に取ると、このような予想である。
衆議院の総定数は480、半数は240である。
自民党は単独で過半数241議席を取りそうな勢い。つまり、比例区もいいが、全国300の小選挙区でも着実に票を稼ぎそうだ。
与党の公明党は微減。解散前の31議席が30またはそれ以下になるかも知れないいうことである。
同じく与党の保守新党は、小選挙区だけに候補者を立てているが、解散前の9議席が、場合によって半分ぐらいに減る可能性がありそうだ。
これに対し野党は民主党だけが健闘している。民主党は小選挙区で前回の80議席から大きく伸ばして100議席の大台に乗る可能性もある。比例区の方も好調で、前回の旧自由党を加えた65議席が70議席前後に増えそうである。この結果全体で、前回民主・旧自由で得た149議席をかなり上回りそうだが、過半数の241には及ばないということである。
共産党はきびしい情勢で、前回の20議席が15前後にとどまりそうだ。
社民党も土井党首が兵庫7区で接戦。全体で一桁に減る可能性があるとのことだ。
読売、毎日、日経などの各社も、にたりよったりだ。
各社とも、自民、公明、保守新三与党合計で過半数を取り、場合によって252議席の安定多数をとるだろうとのことだ。
そうであれば小泉政権の激変はない。
しかし過去に何度も報道各社の世論調査が間違い、政変が起きている。
今回は自民党はきびしいと見たシンクタンクが勝つか、新聞社が勝つか、興味を持って見守りたい。
〔与党多数派の意味〕過半数 安定多数 絶対多数241 252 269
・ 安定多数=常任委員長を全部取り、全法案を成立できる
・ 絶対多数=常任、特別委員長を全部取り、全法案を成立でき、与党が自由に国会の運営ができる。