TOP
|
「今、日本が求める指導者像」―百年の回顧からー鈴木博雄氏 筑波大名誉教授司会 武藤信夫 日本企業史センター所長 私の原点:極東軍事裁判を傍聴した青春 鈴木でございます。そろそろ私も自分のまとめをしなければいけないなと考えるのですが、その時にどうしても、「生きてきた時代と日本」というものを離れて、自分を考えることができないのです。私は昭和4年生れ、今の高校で1年生の時が終戦でした。 戦後、極東軍事裁判というものがありまして、その裁判に私は身体検査をされながら毎日のように出かけて、ずっと傍聴しておりました。歴史が好きだったもので、今思えば私は、歴史の証人として我々の指導者を見ようとしていたのでしょう。 軍事裁判では、昭和8年の私の知らない「満州事変」というものが問われていました。日露戦争のあたりを遡って調べていきますと、そういう戦争の方向へ日本が一遍に向かったのではないことがわかるのです。そうなる機会が何回かあるわけですが、その最初の機会が1904〜05年の日露戦争だった。 この頃、明治の日本を作っていた元老たちが一斉に亡くなるか、あるいはリタイアしていきます。その象徴は天皇ですが、伊藤博文もハルピンで暗殺され、大山巌や山県有朋など、日本の国を作ってきた人物が順々に死んでいく。そして、その人物たちの信頼を受けた人々が、その後の日本をバトンタッチしていきますが、彼らは東洋の一等国になったという結果からスタートしたのです。一等国になるのにどんな苦労をしたのか、本当の苦労というのは当事者でないと分からないということがあるのですが、結局、この日露戦争後に日本はまず最初の大きな分かれ道に立つのですね。 決して、平和の方向へ行こうという力がなかったわけではないのですが、日露戦争でたいへんなお金を借りて戦争をしたので、その後の不景気を乗り越えていくには結局、満州に行くしかないということであったわけです。 日本の岐路@:日露戦争後 今の歴史では、日本が中国へ侵略したということになっていますが、満州というところは当時、ほとんど統治能力のない誰が支配しているか分からないような地で、蒋介石も日本が満州でいろいろやることについては暗黙の了解をしていたわけです。満州を全部取ったのではなく、遼東半島から満鉄のあたりを日本が守るということが約束の前提だったのです。 ちょうどその頃、中国では孫文によって革命が起きますが、それは日本の明治維新と同じで、一種のナショナリズムです。決して反日ではない。ナショナリズムなのです。当時、日本やイギリスやロシアやフランスなどの帝国主義的な侵略に対して、中国は国家の危機だったのです。そのへんのところをいち早く察知して、イギリスなどは巧妙に一歩二歩と後退していくのですが、後から来た日本にはナショナリズムの動きというものが、よくわからなかった。 明治の元勲たちであれば、自分たちがやってきたことだから、中国の学生・青年を中心としたナショナリズムの動きやその気持ちはある程度わかったわけですが、次の代の人間にはわからない。後から出て行った日本がいつのまにか、いちばん槍玉に挙げられるようになってしまった。 そして、当事、ヨーロッパから見れば遅れた国であったアメリカが、市場を開拓するのは満州しかないという事情があったのです。そこで、日本とアメリカはぶつかり合うようになる。それだけならよかったのですが、カリフォルニアの日本移民の問題がありました。日本人が耕した畑とそうでない畑は一目で分かるほど、日本人は勤勉に働くのですが、それがアメリカ人には気に入らない。「このままではカリフォルニアが全部日本人に取られてしまう」と、事実上、日本人を締め出す『移民法』が出来ました。そういうわけで、日本とアメリカが満州とカリフォルニアの両方でこじれて来た。 運悪くちょうど大正10年、日本の外交の基本であった日英同盟の期限が来てしまい、イギリスは日英同盟を解消してしまう。米英連携が中心だからと、イギリスがアメリカとの関係を優先したことが、日本が戦争へ歩を進める二番めの原因になったという気がするのです。国際的に一歩一歩と、日本は孤立する道を歩んでいったことになります。 日本の岐路A:国際連盟脱退――パリ講和会議の舞台裏で中国が外交攻勢 その問題が具体的に現れたのが、第一次大戦の戦後の後始末をするパリ講和会議で、これは外交の戦いです。日本は初めて世界の一流列国の国際会議に出たので手も足も出ないのですが、その時頑張ったのは中国なのです。中国の代表は外交がうまい。国の力で日本を押さえることはできないから、国際世論の力で日本を押さえよう、それには国際会議が一番いいと、初めからそういう作戦なのですね。 パリ講和会議に参加したのは戦争に直接関係した米・英・仏・伊・日という5つの国の首脳だったわけで、中国は入らないのです。にもかかわらず、中国は一生懸命裏側から「日本が満州を支配するのはけしからん」と外交攻勢をかける。日本は山東半島の権益などもちゃんと合法的にやっているのに、当事国力のない中国は大国の力を借りて日本に反撃を加えたのです。これは私はものすごいことだと思うのです。 今の日本も当事の中国と同じで、経済力も軍事力もない。国としてよその国に対して反撃を加える力はないでしょう。日本は国連中心主義といっているのだから、国連を舞台に死に物狂いで国際世論に訴えてやっていかない限りは国が存続しないと思うのですが、この時中国がそれをやったのです。パリ講和会議とワシントン軍縮会議の2つがそうなのです。中国はさんざん日本を国際外交の場で引きずりまわして、結局日本は、昭和の初めに松岡洋右代表を送り、国際連盟を脱退してしまった。このことも一つの大きな分かれ道でした。 当事の総理は幣原喜重郎さんで、大正以降の外交官の中ではちょっと骨がある人でした。戦争に向かう流れに懸命に抵抗して、なんとか国際的な協力の中でやっていこうという気持ちを持っていたのですが、それを国内では「軟弱外交」とさんざんに言われ槍玉にあげられました。昭和に入ってから、まだ軍部は「軟弱外交」と声を上げていない。腹の中では思っていたかもしれないですけど、むしろ、右翼の方が民間人で自由ですから、先に声に出す。軍部が右翼をうまく煽っていたという部分があったと思いますね。 満州事変が起こる経緯 大正時代の終わりに満州にいた関東軍が地方の軍閥とのトラブルがあって、ちょっと外に出たことがある。これは約束違反ですが、その頃の中国というのは国として権力を持っていないから、とても文句など言えるような状態ではないのです。満州事変が起こるきっかけは2つありました。 一つは間島地方という満州と北朝鮮とロシアの国境の豆満江という川が流れている辺りでのことです。ここはほとんど無法地帯なのです。そこに住む中で一番多かったのが朝鮮族で、なかなか勤勉で満人の畑を借りてだんだん広げていくわけです。そうする中で朝鮮族と満人の間でトラブルが起き、当時は朝鮮族は日本人でしたから、ある意味ではそのトラブルを利用して関東軍が満州に出て行くのです。 もう一つは満鉄を中心にした南満州の奉天(現在の瀋陽)で起こった張作霖事件です。初めのうち、張作霖は日本の支援で満州を統一したのですが、だんだん力をつけてくると日本に逆らうようになった。それで関東軍によって奉天郊外で爆殺されたのです。 そういう状況の中で満州を東洋の理想国にしようとがんばったのが、野口遵さんです。それは「五族共和」ということで、その当時満州には日本人・満人・朝鮮族・漢人・白系ロシアがいたわけですが、この人たちが仲良く暮らせる国を作ろうというものです。世界的な指揮者・小澤征爾のお父さんは歯医者で、「共和会」の中心になって動いていた。当時は、そういう人たちがたくさんいたのです。しかし、それを利用しようという人もいて難しい政治の問題になります。 明治の頃、日清戦争の時もそうですが特に日露戦争の時も、日本は絶対に戦争をしたくなかったのです。一番典型的なのは伊藤博文ですが、戦争したら絶対に負けると思っていたから、その頃はもの凄く慎重にやっています。児玉源太郎は、日本の将軍の中では一番幅があり最も政治的力量がある参謀ですが、日露戦争の終結において、戦勝に奢ることなく攻撃終末点を把握した小玉は、奉天の会戦の後、軍の将校・兵・弾薬の不足を明治政府に伝え"講和"を進言しました。 そこまでには、たいへんな数の人間が死んでいるわけですから、国民は怒り心頭に発していた。その時に「いざとなったら3人一緒に殺されてもいい」と、伊藤博文と桂太郎首相と小村寿太郎外相の3人で、東京駅から宮城(皇居)まで行進したのです。(政治家はそれがなくちゃいけない。)やった以上はそこまで腹をくくらなくてはいけない。山県有朋も慎重ですね。たいへんなところをよく知っていたので、無理をしてはいけないと絶えず手綱を締めていた。そんな彼らもやがて老いて死んでしまう。それを考えると、世代の交代がその後の時代に及ぼす影響は非常に大きいと思います。 指導者が生まれる3要素:資質・国家・時代 指導者を作るためには教育の問題もありますが、教育の問題だけでは及ばない部分があると思うのです。やはり時代が指導者を作っていく。 日本は戦後、経済成長を遂げましたが、企業を見ますと、終戦直後の混乱の中で上層部はみんなパージされていなくなっているのですね。戦後の社長さんはみんな2階級から3階級の特進組なのです。経験が浅くてキャリアがないけれど、会社が生きるか死ぬかという状態で社員とその家族を食べさせなければならない。だから、必死だったのですね。そういう人たちが日本経済を引っ張ってきた。 私は「艱難汝(なんじ)を玉(たま)にす」というのは良い言葉だと思うのですが、どこかで生きるか死ぬかという決断をしない人は、本当の意味の責任はとれないですね。 筑波へ大学を移転する時ですが、その当時は反動的な大学だということで大部分が反対する中で、教授達は何とか筑波へ大学を作ってもらおうと手分けして夜討ち朝駆けで、毎日、国会議員のところへ陳情に行きました。 何人かの国会議員に会いましたが、その人が一流か二流かはすぐにわかりました。何が決め手かというと「凄み」です、人格が発する一種の圧力を感じてしまうのです。土光敏夫にも説明したことがありましたが、お世辞を言っても知らん顔をしています。一流の人物は迫力がある。 その典型的な人は田中角栄氏で、これは動物じみた迫力でした。善し悪しは別として、角栄さんの場合は人間そのもののエネルギーを感じました。国会で法案を通す時、最後に正式に首相官邸へお願いに行きました。会ってくれたのは3分くらいでしたが、「承知しました」という腹の底から出てくるような一言は、これは大丈夫だと思わせるだけのものがありました。それがこの人の魅力なのだと思います。日本人には稀なリーダーシップがある人だった。相手を圧迫する波動というものが、指導者の資質の一番大事なところだと思いますね。 指導者が出てくるために、本人の資質というもの、その国というもの、そのチャンスという3つが大きな条件だと思います。例えば長岡藩家老の河井継之助は日本の宰相になるだろうと言われた人だったそうですが、どんなに優秀な人でも時と場所を得なければそう成れない。「場所」とは「国家」です。 国家:自覚された伝統と文化 では国家とは何か。国家とはその国の伝統であり文化だと思います。まず、伝統とか文化が国民に自覚されているかどうかです。 ご存知のようにドイツは、普仏戦争と第一次戦争と第二次戦争で3回負けている。それでも、なおドイツ民族は引けを取らず、伝統と文化を持って立ち上がってきます。日本の場合は、「過去は一切ないのだ」と、「戦争は全部軍部が悪かったのだ」と言う形で五十年間、来ている。しかし、本当の意味でなぜ戦争に負けたのだろうと考えて、そこから直していかなければいけないのではないかと気付いてきた。 ここ十年間の政局の動きは、明治の終わりから昭和の始めにかけての動きと、まったく同じなのです。そこが怖い。大体一つの方向に決まるまでは抵抗勢力があるから綱引きをしていますが、決まったらばっと動きます。ここ十年くらいは綱引きをしているわけですが、その綱引き如何で、双方がそろそろ力が尽きてくるわけです。 時代:外的要因をいかに取り込んで日本が変わるか 近い将来に日本の方向が決まってしまうと思いますが、心配ですね。その時の日本の運命とは、外的な要因如何です。今までの日本の歴史を見ると、国が発展するかどうかも、すべて外的要因でした。外国から鉄砲の伝来や何かが来たという外的要因で初めて、日本の世の中が変わって行くのです。 日本人は内的要因があってもすぐに妥協してしまって、外的要因を中へ絡め込みながらいくのです。二千年の歴史の中でも平安時代から中世にかけて以外では、内的要因で反乱が起きたことはないので、その意味では絶対に大丈夫です。 ゆえに、ここ数年の外的要因をよく考えなければいけないと思います。 今の日本の方向性は日米関係が中心になっていますが、歴史に学んでみればアメリカという国はそう当てにならないということもあります。日本や台湾を手放しても、アメリカは痛くも痒くもない。そういう点も頭に入れておかなければならないと思う。逆に言えば、中国や朝鮮は二千年来絶えず日本とトラブルを起こしてきたことを考えると、いい加減には扱えない。隣にはロシアという国もあります。経済的に豊かだったら話が着くこともあるのでしょうが、日本にはお金がなくなってきている。 日本が生きる道:外交しかない 日本がこれから国際社会で、国として生きていくには2つしか道はないでしょう。 一つは、国の本質は自分の国は自分で守るということです。もう一度軍を作ることですが、簡単にはできない。結局、国を立ち直らせたのは徴兵制です。ドイツはそうして、2度も3度も復興してきたのです。「金で雇って貧乏人だけが兵隊になっていけ」では、その国が勝てるはずがない。一丸となってやるためには、徴兵制がいいのです。 あと一つは外交の力です。金も力もなくて、ただ外交だけで信頼を回復しながらやっていくしかない。しかし、今の日本の外交に、プロ中のプロはいますか?日本として本当の意味で、国際世界のために本気になってやってくれないといけない。 これからの日本が生きていく道は外交しかないのだということを、平和憲法を制定した時に決めたはずなのですよ。にも関わらずここ五十年間それをやってこなかったのはアメリカのお陰です。アメリカがいるから外交をやる必要がなかった。それでは外交の能力が伸びないですね。アメリカがいなくなった時は、どうにもならない。日本も外交が得意な指導者が必要だと痛感します。外務省がやる外交だけでなく、民間人でも有力な人がいれば外国から尊敬されるようになります。 それから、人材が出なかった原因は、人材はいたけれどもテロがあったからです。ご存知のように、原敬・犬養毅……、大正の中頃から昭和の初めの総理大臣は、ほとんどの人がもう2年〜3年やっていれば、もう少し変わっていたのではないかと思わせる骨がある人たちでした。それを近衛文麿さんはじっと見ていたのです。細川護煕さんが総理大臣になった時、日本中が沸いたでしょう。近衛人気はあれに3倍くらい輪を掛けたほどだったのです。近衛さんは藤原関白以来の名門で、ネームバリューがあり、頭がよくて品がよくて男前だったけれど、一つ足りなかったものは"度胸"です。軍部に逆らったら殺されるのを見ていたから、ダメだと思っても「うんうん」と言って、あとになって、「自分は戦争をする気がなかった」と言っている。 日本の風土にはテロがあります。組織の力も怖いけど、テロというものを軽く見てはいけないですね。国を変えていく上で力を持っているから恐ろしい。今またテロの時代が巡ってきてしまいました。 コメント 大橋(軍事関係): 安全保障を考える上で一番日本に欠けていると思うのは、情報ですね。テポドンを撃たれたらかなわんということで、今ようやく偵察衛星を打ち上げますけれども。今でも工作船が出たというような重要な情報は、同盟国のアメリカから貰っているのです。但し、同盟国でも本当に大事なものは出さないわけですよ。出していいものしか出さない。まず、最も基本の情報の強化を大事にしなければいけない。そのためには、政治家から国民までみんなが日本を本当に守るのだという意識を持たなければいけない。その守るものの根本は何かというと、日本の文化だと思うのですね。文化を守るという前提があって、外交があるし、国益というものがあるのです。では、その文化とは何か?というと、我々の先輩が築いてきた日本の歴史ですね。外国へ行くと、いかに日本と違うかがわかるのですね。日本って素晴らしいなと思うのですね。 確かに和の中心は天皇制だと私は思うのです。国体の保持というのを、ポツダム宣言の受諾で決められましたね。あれは正しかったと思うのです。日本は負けても国の形を保持することができたのですね。ドイツはめちゃめちゃになって、ヒトラーは自殺をしてしまうし、未だに講和を結んでいない国があります。が、日本はめちゃめちゃになりながらも、最後の線は残してくれた。今でも敬宮愛子様の笑顔を見ただけで日本人がパッと纏まるというのは、皇室の素晴らしさだと思うのですね。その良さを若い人が認識して、それを大事にして育てていく。それだけじゃなく、それ基本にして日本の文化は何かということを再認識する必要があるのではないかと思うのです。 負けた時に占領軍から言われたことを受け入れるのではなく、日本は日本なりのものを出せばいいのではないか。それが分かっていないと、北朝鮮に拉致されても日本人が植民地支配したからとか強制連行したから大きなことは言えないと、とんでもないことになっていく。私は前から思っているのですが、そのへんをしっかりと日本の立場とか先輩たちがやったことを再認識することが大前提ではないでしょうか。。 (以下省略)
|