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ユビキタス社会の到来〜挑戦と応戦〜「ITが支援するボランティア活動の将来ーありがとう!日本.comー」 小林財団理事長。小林英愛氏略歴:慶応義塾大学経済学部卒業。コーネル大学留学を経て、米国Ph.D(ニューヨーク大学SUNY-B哲学博士号)、工学博士。 米国IBM、CSK(社長室長)を経て、日本SE椛纒\取締役。 1984年 社団法人 日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会 会長 就任(孫正義氏が副会長)以降、日本SEグループをはじめ、51社にのぼる企業の代表取締役に就任し、つい先ごろまで36社の代表取締役会長(同時兼務)を経験。IPO(株式公開)関連では、CSKの経営企画室長として、ソフト業界初の株式公開を手がけ、NCS(日本コンピュータシステム)の店頭株式公開指導(取締役相談役)ネクストウェア(ナスダックジャパン公開)などベンチャー企業育成のほか、現在も(社)北海道ソフトウェア協会会長、全国地域情報産業団体連合会(ANIA)全国副会長など、IT産業のリーダーシップをとっている。現在、財団法人 小林経営経済研究所(理事長)並びに、日米プロジェクトである、「e未来財団グループ」会長に専念。日本ナレッジコンサルタント協会代表理事。(社)日本ソムリエ協会の「認定ソムリエ」。米国カリフォルニア州ナパヴァレーに広大な葡萄園所有。 大脇司会、講師の紹介) 小林会長は日本SE(株)をベンチャーで立ち上げるなど、ビジネスの第一線で大活躍された後、いまやワインやシガーという嗜好品の世界でセンスを生かされており、また、ボランティア支援という立場で、e-未来環境財団グループの会長であり、「ありがとう日本ドットコム」というボランティア応援のサイトを立ち上げていらっしゃいます。また、教育分野では学校法人北海道情報学園の理事長や札幌学院大学の理事でもある。孫正義さんの兄弟子でもあり、先輩でもある。先生の豊富な人生経験をもとに、現代社会の問題点などもふまえてお話いただこうと思っています。 今日みたいな自分を語る講演は今、ほとんどしていない。ワインか葉巻の講演が多い(笑)。 日本ソムリエ協会の理事や、日本キューバ・シガー教育協会の会長をしている。私が書いた「ノムリエ」(株式会社メディアレブ刊)というワイン本がお陰様でベストセラーになったし、来週の月曜日は仙台で、シガーの講演をする予定です。
もともとの専攻はコンピューター、ITです。得意分野を離れて、次の得意分野を創るという生き方が私は好きなようです。 ほかにも孫子が好きで、「ベンチャー企業のための孫子」なんていう本を書いてみました。 最近は米国人が孫子の戦略を関心をもって読んでいるのですよ。力で闘うのでなくして、東洋式の心を読みながら闘うという方式を取り入れつつある。もっともワインの本ほど売れませんでしたが。
私は26歳でCSKというコンピューターの会社(現・セガの親会社)に入りまして、28歳で大川功社長のもと、社長室長をしていました。そこで、隣のビルにセコムが入って、大川社長が、セコムの飯田社長と仲良しだったこともあって、そんな縁からできた拍子に、セコムの経営企画室長の木村さんに勧められてある米国の経営管理セミナーに出ました。
そこでは、「人生設計を立てよう」という試みをしていて、コンサルタントと面談しながら、今からの全部の人生の計画を作るわけです。給料6〜7万の時代に20万円もするので、私は断ったのですが、彼がどうしても友だち一人呼ばないといけないというので、私が呼ばれたわけです。
そこで、彼は「おれはセコムが大好きだからセコムのために働く。そして、セコムの社長になる」と決めて、その後、本当に平成14年4月にセコムの社長になりました。
私は30歳までサラリーマンとして業績を残し、事業経営者になる。そして、50歳でビジネスリタイアして、50歳になったら好きな趣味だけに生きるという計画を立てました。これは、米国の成功者は皆やっていることです。70〜80歳まで出勤している人は逆に、可哀想な人だと見られる。
それが毎年のチェックになって、1年ぐらいずれているが、今までほぼその通りになりました。
私がこれまで手がけてきたグループ経営では、部門によっては思った以上に負の部分も残っていて、関連会社を、3つ潰したり(整理)もしています。一つは、民事再生法を使ったり、債権をカットしてしまったり、営業権を他に譲ったりもしました。今は自分が直接経営責任者ではないですが、この会社の未来はこうあるべきだなぁ、というところは大手術をしまいた。
では、私のライフ・プランにしたがって、自分の生きてきた足跡を紹介します。 1948年、札幌生まれです。 大きな転機は真面目な高校生から不真面目な大学生(慶応大学)なった時ですかね。 「慶応ファッション企画研究会」なるものをつくって、遊びとクラブ活動を楽しんでいました。町で学生(美しい女性)をモデルとしてスカウトして、ホテルを借り切って、ファッションショーをするわけです。服は一度、ファッションショーが終わったものを無償で提供してもらって、そこで即売をして利益が出ましたし、モデルクラブをご招待して、指名していただいて仲介料を頂いたりしました。多摩川高島屋で、全国学生バンドを呼んでイベントをしたこともありますね。学生ながら、結構、儲けてましたよ。
クラブの仲間と儲けたお金でスカイラインGTを8台買ったこともあります。当時は誰しもが憧れていた高級車種だったのですが、8色あったので8台買ったわけです。幹部4人が一台づつ、残り4台を、部員のアミダで分けました。
他にもパリのルイビトンの本店にいって、ルイビトンを日本に輸入しようと交渉したり、当時ミルクシェーキは米軍キャンプぐらいでどこにいっても無なかった時代に、藤田田さんに「米国マクドナルドを日本にもってくるべきですよ」をけしかけたりしていろいろ面白いことをしましたね。そうそう大学生時代にヨーロッパを40日間旅行。ローマに行って小さい車(新車)を買って旅行に使って、フランスに行ってそれを売ってかえって利益が出たこともありました。仮ナンバーをつけてそのまま陸送したようなものですから。
卒論はリースについてでした。 お金を借りてというよりは、物を借りる、という米国型が伸びるのだよという話。 オリエントリース(今のオリックス)の社長室にいって、資料をください、と言った。 卒論で、「日本のリース産業の展望」を書いた。
今のオリックス社長の宮内さんの所に行って資料を貰ったりしてました。 私は経済学部だったのですけが、工学部のコンピュータの入門講座を受けることが出来 てその中で、一番の成績だったので、「自分もコンピュータできるじゃん」とびっくりして、米国のコーネル大学に留学して専攻しました。その後、ニューヨーク大学の大学院では、軍のコンピュータネットワークの勉強をしていたのですが、それが今のインターネットの原型となっています。
26歳でCSKに入社。入社時は500人足らずで、その後当時1600人の会社で、新卒800人入れて、5割増もさせてしまう話題の会社でした。5年間という約束で入ったのですが、大川氏のファミリーと仲良くさせていただきました。
1980年、31歳で独立、4人で日本SEというコンピューター会社を設立しました(目標は30歳で独立)。 3年で300人、4年で500人、7年で1000人と目標(3年300人、5年500人、10年1000人)以上のペースで伸ばしましたね。 パソコンを日本に紹介しようとして創った会社で、当時、ワープロは出ていたが、PCの上でワープロを使うことはなかった。そこで我々が、漢字を使ったシステムを開発して、今、一太郎(ATOK)やマイクロソフトなどの標準になっている。ライセンスを無償で提供したので、テキストエディターは僕らが作った、という喜びだけ持っています。 ウイルス対策ソフトのノートンを日本に持ってきたのも我々です。基本的には、米国の機能に、日本語の機能を付けるところで儲けていた。
父親が札幌学院大学に作って、理事長職に専念したいというので、10年前に、父の会社も引き継ぎました。51社の代表取締役になった。ただ、50歳でビジネス・リタイアというプランがありましたから、受け継ぐときに、社員に「5年たったら全部やめる!だから、5年たったら全部権限を譲るから君らの好きにして良いよ」と宣言しました。
実際、5年後、問題のあったゴルフ場以外は全部退任して、(株)の半分を全部、現役の責任者に渡して、(株)の半分は、私が理事長をやっている財団法人・小林経営経済研究所に寄付した。
今までは、例えば釧路のタクシー会社の社長→小樽のタクシー会社の社長→札幌のタクシー会社、そして隠居仕事でガソリンスタンドの会社の社長という流れがあったのですが、官僚制度と同じで、どうせ2年しかいないからと無責任体質になっていた。社長と専務と常務は、新聞を読んで、パチンコ、映画、寝ていても問題なかった。社長が一生懸命頑張ってもしょうがないなんて思っていたのでしょうね。タクシー会社がガソリンスタンドを使うから、それで経営がなりたっていたりしてグループ内でもたれあっていた。
グループ企業の中で助け合い運動があった。業績が良いところが、業績が悪いところに貸す形。それを、助け合い運動を、助け合わないというルールに変えました。 お金を貸して延命させても悪い業績をひきずって、返してもらえないことが多い。 結局、調子の良い企業まで上場出来なくなる。
だから「グループだから助けない」。そうすると、一人、一人が頑張らないといけなくなった。だめだったら潰されざるをえない。
あるガソリンスタンドは、どうしても苦しいと相談してきたが、もう社長は自分の会社のつもりで「家族経営でやったら」とアドバイスして、翌月、役所で経理を担当していた息子を入社させた。息子が、経理をしっかりやって、業績が良くなった。そして、役員全員がハッピを着て、「いらっしゃいませ!」なんて、営業している。息子の前で頑張らなきゃなんて、思ったのかも知れない。画期的な変化が起こっているわけです。グループ企業を中小企業に復帰させた形にしたら、みんな責任を持って一生懸命やるようになった。甘えがなくなった。それが良かったのかなと思う。
私は自分の源流のコンピュータ会社も取締役から全部足を洗って、せいぜい相談役になっている。 それでカルフォルニアでブドウ園をしていて、中にゴルフ場を造った。ゴルフ場の空いた土地は全部ブドウ園。世界で唯一の組み合わせでしょうけど、効率も良いし、美しいゴルフ場ベスト100なんていうのにも選ばれた。
シリコンバレーに行くと、ブドウ園に投資する、所有するというのが成功者のはやり。 大株主になって、このワイン、俺のワインなんだよねというのがかっこいい。ディズニーファミリーも持っていますよ。少し前は、成功すると、テキサスで牧場を買うというのがはやりでしたが、いまや「あんな田舎者」と言われるのでやりません。
シガーの方は、10年前からはまってしまった。キューバに毎年行っています。
好きなことの一つがボランティア支援。インターネットで寄付をするという仕組みを作った。「ありがとう日本! ドットコム」 これは寄付する人がお金を使わずに、支援したいNPOをクリックして、支援させたい企業をクリックすれば、寄付が出来るという仕組み。一クリックの寄付は50円です。企業の方は一回50円で広告を見てもらったという計算ですね。寄付する人はお金がいらない。 NPOとしてみたら登録してみて、活動を紹介できるし、寄付が集まる。喜んでもらっています。
「緑の横須賀」http://www.arigatounippon.com/%7Eyokosuka/ なども、このシステムを導入しています。1クリック10円で、花を植えるのに貢献しているのですが、クリックする人は多くても、企業のスポンサーがなかなか付かないというのが課題ですね。また、楽天のなかにNPOの寄付を受け付けるコーナーを作ろうということで、サイト作りのお手伝いもしています。
話は変わって、株式会社大学を創ろうとしています。学校法人は法人税的がかからないなど運営面での利点もあるけども、今の学校法人制度が教育制度を硬直化させているのは確かです。そこで、なぜ株式会社か?
ひとつは「成績悪くても、出席率悪くても良いや。卒業させてしまうか」とのんびりと構えて、先生方が思っている節がある。経営者側は必死でも、先生方はあまり学校運営を自分の問題と捉えない。
米国は寄付金を集めるというのが大切な資金。同窓生を大切にする。子どもを大事にする。 お父さんとお母さんもそうだったら、子どもも入学OKとか。試験もいらなかったりする。
お爺ちゃん、お婆ちゃん、お父さん、お母さん、僕もその大学だ。そうしたら大学へのロイヤリティが確立する。お父さんが事業を成功させて寄付したら、僕も沢山寄付しようと。他には企業との共同研究で資金作りをしたり。
日本ではそうではない。だから株式会社にして、先生も一年契約にして年俸制度にする。 募集のときは、公開募集する。新聞や雑誌に。応募するのは30人位ぐらいにして、ベストな人を選んだら良いと。良い先生だけを残し、ダメな先生を無くしすることができる。
今はコネしかない。紹介でしかない。せいぜい紹介をうけた2人ぐらいから選ぶ。先生のプライドや人脈を傷つけるので、30人助教授を集めて教授を選ぶというようなことは日本では出来ない。 米国では、一年間だけ会社を休職して、大学の教授になる、そして、また企業に戻る。大学と企業を行ったり来たりするのは当たり前。大学がリフレッシュする。最新の使える、技術が出来る人が教えるわけです。
日本では、20年間、同じペーパーで教えている先生までいる。長い歴史の蓄積が必要な所があるのと、入れ替えないといけない所もある。
そして、デジタルハリウッドという会社が、日本で初めて株式会社・大学院を創る。大学院を創るのは大変です。良い先生を集めて、生徒は少ないから。学部の収入ので、大学院を見るしかない現状も多い。
ただ、デジタル大学院。私も裏でいろいろ動いている。いけそうだな、という感触はある。一方で、あそこは絶対認めさせるな、という圧力がある。ただでさえ少子化が進んでいるのに、株式会社がどんどん大学ができて、CM打ったらたまらないと。
構想では、新たにIT通信大学という株式会社大学も企画している。すべて通信教育でやる。ITを教える。4年制。パソコンで受けられる。毎日、半年スクールに通うこともできる。6〜8年間で大学を卒業することも可能。 米国では、月曜日だけの大学院もある。4年制大学を卒業してIBMなど大手企業に入社したけど周りはマスター、ドクターばかり。出世するにはマスター、ドクター必要だ。そこでマンデーの大学に通って、7〜8年、31〜32歳で修士号がもらえる。 日本でも、短大ではコンピュータのコースを必修にしようとしている。コンピュータの機械を揃えるのは、大変です。講師にもお金がかかる。そこで、このITの通信教育の認定コースにしてください。講座をコマ売りすることもできる。
20単元で1年分だとしたら先生を雇わないといけない。若い先生は600〜700万円。
それをビデオ撮影であれば、15〜20万円でやれるから良い。先生方も副収入としてできる。一年分200万円でも喜んでやりますよ。それは来年も使えます。2年分ぐらい。一部取り直せば、全部取り直さなくても良い。2000万円人件費がかかるのが200万円で良くなる。
通信教育とスクーリングをどうからめるか?一番お金がかからない大学。校舎も土地もいらない。
大学としての認可がおりるか、というのがネックになっている。それを実現したい。 ブロードバンドで教育ができるように。土地をもって、建物を建てて…という学校法人のルールからするとまったく違う形。
我々学生時代、一度も授業に行かなくてもAがもらえる。学校にいかなくても授業に行かなくても卒業できる。秘密ですが私が卒業した慶応大学で有名な話。ある先生の期末テストで試験問題に顔が4つ並んでいて、私(先生)はどれでしょう?それで50点。
それよりはインターネットで全部見たとした方が良いのでは。2週間に一度、クイズ。練習問題が出る。間違った所は、ここに出ていますよと示してもらえる。それでもう一度見て、復習しながらできる。期末テストはインターネットで、同じ時間に一斉にやる。
1〜2万円で自宅にカメラを付けるから、本人確認ができる。今よりも断然充実しているじゃないですか?
大脇)今後の社会が趣味社会、教育社会、ボランティア社会。高齢化社会になればなるほど生涯教育。マイアミで大学内にコンドミニアムを創って分譲したら4000万円でもすぐ売り切れたとか、年をとっても、大学で学べるし、教えられるというのも。
株式会社で十分、日本の大学はハクが必要。
若い人達がふらふらしている。フリーターもいる。学校もいかずに何もしていないのを教えて、パソコンを教えて、ホームページをつくれるようにできる。
大脇:米国発日本校がほとんど全滅したのは文部省が単位を認めないため。
石川:米国の大学が株式会社としてつくる。いろいろな分野で勉強できたのはラッキー。自分は大学に専念したいから。それを請け負ったときはバブルはじけて、タクシー関係も下向き。バブルの頃と比べて今や40%ダウン。ある地域では歩合制で12〜13万円しかもらえない。OLの娘さんより少ない。
タクシー会社が10億〜20億だしていたが、今は利益出すのが精一杯。でも、社長は、自分が経営責任者だと必死である。死ぬまでそこにいるのも良いんだ。私は、利益を出して配当だけくれなんて、言ってますが。
いろいろな経験ができてよかったなぁ。僕自身もよかった。今後は、私も精神的な支えとして応援してあげようと思っている。ある会社苦しいとなると、新経営者と一緒に食事をして、悩みを聞くなり話をしたりしている。
石川:日本は認可基準が文部省1本。米国は認可基準が6本。地方の大学はひいひいしている。学生が3〜4割しか集まらない。みんな鰯といっしょで中央に集まり、競争をしている。多様性を好まない。日本最大の矛盾。
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