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日本再生のビジョンを語る!」野田一夫氏(財)日本総合研究所会長、多摩大学名誉学長、宮城大学初代学長自分の人生を振り返ってみると「失敗の歴史」でありまして、なぜ二つの大学を作ったかというと一つの大学で満足しないということは失敗したわけです(笑)。論ずることは楽だけれど、やってみるとそんなに楽ではないことを痛感しています。 何をすべきかということは分かるが、誰がどうすべきかということになるとできない。構造改革は最初華々しかったが2年後実行されていない。何故実行できないのか国民に説明すべきだが、今のところ説明されていませんから、「口先だけではないか」と評価を得ています。 私のホームページに載せている内容は、学士会会報に載せた記事です。私は大学を出てから学士会というところにいまして、先輩方が学士会会報にいろいろ書いておられましたが、いつしか私にも頼まれるようになりまして、このような「半世紀の大学人生」を書いたわけです。 それをご覧になると分かりますが、私の父親は航空機の技師者でした。父が生まれたのは明治18年ですから、当時は世界中に飛行機はなかったですね。中学生の時初めてライト兄弟が発動機をつけた飛行機で空を飛んだわけですね。以来今日まで同じですね、プロペラからジェットに変わっても、結局は翼のついた機体と発動機で構成されているのですね。昔は空を飛ぶなんて夢みたいな話ですから、そのことを知って感動したのではないですかね。今は飛行機事故がニュースになりますが、明治時代は飛んだことがニュースになるのですね。重いものが人間を乗せて空を飛んでいる。それは典型的な物理現象ですから、当時は物理学のブームが起こったのですね。少年野田てつお(私の父親)は盛岡で生れて、物理学を勉強しようと仙台の第二高等学校で学んで東京へ行った。実は私はこの4年間宮城大学の学長をしていましたが、仙台は父が青春を過ごしたところですから何かの縁だと思い引き受けました。 当時は「流体力学」というのは船の関連で「水」なんですね。父は学びたいのは「機体力学」で、その講座もなかったらしいのです。航空機に対する関心は知識人の間では非常に高まっていた頃なのですが。日本には航空機の技術がなかったわけでありまして、せいぜいドイツやフランスから航空機を買ってきて、パイロットの技術を持った人が飛んで見せるという時代でした。だから、結果的に父親は機体力学ではなく流体力学を学びましたが、第一次大戦が起こり航空機を開発しなきゃならなくなり、父親はその航空機ブームに運良く乗りまして、若くてドイツへ行きまして航空機の技術を学んできました。父は大学に残っていたかったのですが、国策に沿って三菱重工業の技術者になり終戦まで航空機の開発に携わってきた。 言ってみれば、父親の歴史というのは日本の航空機開発の歴史なのですね。第二次大戦では「ゼロ戦」が海軍の代表的な戦闘機であり、これは堀越二郎という非常に優れた技師が中心になって開発したものです。陸軍は糸川英夫―後に東大の教授になります―の「はやぶさ」が象徴的であります。父は堀越二郎さんの上司であり、糸川英夫さんの大学の先輩ですから、僕が子どもの頃には航空機の世界では指導的な立場にありました。とても格好がいいんですね。というのは、堀越二郎・糸川英夫といえば少年の英雄みたいな人ですから、それがみんな父のそばにいるのですから。それで僕は影響を受けまして、父親を超える技術者になりたいとずっと思っていました。 しかし、旧制高校の学生だった時に戦争に負けまして、運悪く終戦後の占領政策で永久に航空機の製造が禁止されました。私が行こうと思っていた工学部航空学科が廃止になってしまったため、志を代えて文系に移りました。文系に移りましてもDNAの中にあるのは技術者の血でありまして、技術者というのは論ずるより作ることが目的であります。社会科学は世の中で変えるより、何が悪いかとかどうしたらいいかとかを議論する方が大体体制を占めていました。技術者はどちらかというと、天下国家を論ずるよりも天下国家に必要なさまざまなものを開発するという仕事にあるのです。結果的に私は社会科学に行ったわけですから世の中に対して発言はしておりますが、基本的には天下国家を論ずるのは自分にはそり合わないと思っています。 学生に「日本に生れて良かったか」と聞くと「良かった」という。しかし、選んで生れてきたわけではなく、物心がついて気がついたら日本人だっただけです。少なくとも言論の自由があり言いたいことが言えるプラスの面もあります。制約を感じるのは外国文化に馴染むのが難しいこと、政治面で国家権力の規制を大きく受けているということです。75年生きてきて自分の人生を18才の時、終戦直後、10年もたたない内に戦後復興というのを体験した1970年大阪万博のころ、と大きく3つにわけることができます。 世界のいろんな博覧会に行きましたが大阪万博ほど華やいだ雰囲気を知りません、パピリオンとか出し物などはすばらしいとは思わないですが、何よりも主催国の国民が健康で生き生きしていましたね、それは高度成長の達成記念パーティみたいなものでした。私は2回行きました。今それがなつかしく思い出されます。 あの頃の日本というのは輝かしい、国民がみな自信に満ちていましたね。しかし70年以降急速に変わっていきました。田中首相はよかれあしかれ日本が生んだ政治家としては天才的な人ですが功罪あい半ばしています。功の方も大きいけれども罪の方も非常に大きいですね。典型的な自民党による金権政治でありましたが、田中さんなくしては生まれなかった、ああいう人によってしか生れないものなです。田中さんがやるから役にたった。能力のない人がやると国民にとってあれほど迷惑なことはないわけです。個人的にもお会いしたことがありますから、非常に慕い尊敬する面もあるわけです。アンビバレントな気持ちをもっています。そういう意味では田中真紀子さんとはまったく違います。金権政治もそうですが、高度成長の反動というか典型的には環境問題、少年の非行化という問題も70年代にすでにかなり表面化しています。 しかし決定的に70年代の日本を変えたのはオイル危機だと思います.争ってトイレットペーパーを買いまくった。何より大きいのはあの時初めて国民はそれまで良い気持ちになっていたのに冷や水を浴びせられたことです。 日本は自信を持った強い国であったのにそれが弱点を指摘されたんですね、ですから非常に日本的に反応したと思います。ものすごく結束して危機を乗り越えようとした。これは見事に成功しましたね。おそらく国内外の専門家は中近東石油に一番依存している日本は大打撃を受けると思っていましたが、実情は1976年を迎えると世界の先進国と成長性と安定性の両方比べてみて一番でした。ですから76年から80年までの5年間の経済を国際経済市場で見比べてみますと圧倒的に日本が勝っていました。したがってその時一番世界の中で日本という国が世界から非常に注目を浴び、評価され尊敬されたと思います。ですからあの頃一番日本に関する本がでました。象徴的には“ジャパンアズナンバーワン―アメリカへの教訓”という本で著者はエズラ・F・ヴォーゲルというハーバード大学の教授ですが、私の40年来の友達です。40年前にマサチューセッツ工科大学にいたころ仲良くなりまして、年齢も近いし家族構成も似ていて我々の仲間の中では地味な学者でしたけどあの時あの一冊の本で世界的な学者になりました。そういう本に象徴されるように日本が世界から国家として注目を浴びましたね。3つの期間の中で非常に安心して、自信を持って住んでおれた時期でした。 率直に言いますと18才までの自分は振り返る余地もないですね。気ぜわしい社会でした。で今サダムフセインをいろいろと批判しますが、私のように戦前を生きてきた人間からすれば同じではないか?。拉致とかいいますがそりゃ外国の権力によって拉致された人が何十人、何百人かは知りませんが同じ国民によって拉致された人は何万人といるでしょう。特に身に覚えがなくても「ちょっと来い」と。金正日やサダムフセインのような権力を象徴する人間はいないですね。強いて言えば天皇陛下ですが天皇陛下にお会いしても怪物ではないですね、普通の方ですよ。私利私欲をむさぼったとは誰も思わない。お会いして感ずることはまず人を疑ったことのない方ですね、サダムフセインが来ようと誰がこようとちゃんと対応されるし、だから日本という国を上手に掌握したい人間なら天皇陛下を抱きこむんじゃないか。今も天皇陛下を利用しようとする人はたくさんいる。天皇陛下を尊敬している庶民と天皇陛下に利用しようとする人間はまるきり違うと思う。我々純粋に天皇陛下を尊敬していた国民としては戦争が終わって非常にしらけた気持ちでありました。 あの戦争であれだけ大きな代償を支払ったのに誰が責任をとったのか、誰も責任をとらないし、責任を取った人の顔が思い浮かばない。そういう意味ではヒットラーとかムッソリニーにあたる人間はいないのですね。結果的には天皇陛下の終戦の象徴ですか「耐えがたきを耐え、しのびがたきをしのび」とか、なぜあんなに大きな犠牲を国民が支払わされたのかなと。国家権力が存在していて国家権力が犯したよかれあしかれ行為なんですよ。 国家権力がサダムフセイン、金正日と同じようにあるいはブッシュと同じように権力を動かして国民を完全に掌握していた。自分でも中学から高等学校で学徒動員に行ってますと権力の影を感じました。「とても勝ち目はない」と言っただけでただではすまなかった。 高射砲を作っていましたが、昭和19年になりますと物流がやられていまして高射砲を陣地に持っていけずに軍は工場の横にある敷地に高射砲陣地を移した。これは愚かな判断でしたね。作っている人間にとってB29にあたらないために作っているわけではない、あたることを念願しながら造った高射砲が上を飛んでいるB29に対して当る確率は、松井がホームランを打つ確率の方がずっと高い、当らないのはまだ我慢できますよ、届かない、途中でポゥと破裂していくのを見ますと生産意欲がなくなりますよ。「当らない高射砲を作ってもしょうがないよ」と言っただけで「ちょっと来い」となる。今の北朝鮮をテレビで見ていますと昔の日本とそっくりだと感じます。日本も半世紀まえはああだったということをよく認識したほうが良いと思います。 納豆をとりあげますと、納豆はどんなに親日家のアメリカ人でもいきなり納豆を食べることはできないでしょうが我々にとってはすごくおいしい。演歌ですと私は演歌は好きじゃないですが津軽海峡冬景色なんかそこに旅情がありますね、津軽海峡に行ったことがなくても津軽海峡を思うんですね、好むと好まざるにかかわらず、日本に生れ育ったために身についたものがありますね、身についたものは何故好きだといわれてもしょうがない、納豆が何故美味しいんだと聞かれても美味しいから美味しい、そういうことは皆さんも僕も共有している。つまり国とはそういうものです。僕は戦前も戦後もこの国を愛している。愛せざるをえない。よその国に行ってみるとわかる。よその国の方が良いことはたくさんあるけれども住むにはこの国が一番ふさわしいと大部分の人は思っている。 一番困るのは国と国家が戦前は完全にオーバーラップしていて“国を愛するということは国家を愛することだ、したがって国家の権力には従わないといけない”ということです。命を捨ても国を救おうとし、何百万という人間が犠牲になってその国家を動かし、国家を動かしても国は残りました。それでかっての権力はどこへ行ったのか、誰が責任を取ったのか、結局占領軍による裁判で何人か処刑されたが大部分の人は相当悪いことをしながらも戦後知らぬ顔で社会を堪能したんじゃないか、そう考えるとこれは昔の話だろうかと思います。 今、国家というものに完全に感じますよ、1970年以降私の心の中に芽生えているのは再び日本に国家権力というものが再構築されつつあるということです。 非常に不安を感じ始めたのは70年代の後半からです。何故なら日本的に反応があったからオイル危機という国難を見事克服した。ところが日本的反応ですから結束したとき日本は誰がそれをしきるか。国家権力=政治と行政です。もっと具体的に言えば政治家と高級官僚ですよ。政治家と高級官僚が結託するということは2大権力ですから国民はそれに対してまったく抵抗ができない。戦前はそれがありありと牙を向いて国民に対して怖い顔をしていた。今はまだ怖い顔はしていませんがしかし本質はまったく同だと思います。 戦前の日本の国家権力の特徴を2つあげると1つは国民に対する無視、1つは国家の為に国民が犠牲になるのは当然であるという考え。一人一人の国民だって大事な一回しかない人生だけどそれより国家を守らなければだめだという考えがありまして個人よりは国家優先だという考え方は欧米より日本に多かった。国民より国家というものに目が向いている分だけ世界情勢、世界の流れに対して非常に鈍感であり関心がない、国際的な行動を起こす場合日本的行動、日本的価値基準で判断する。それで勝ち目のない戦争をやった。 父親は大正時代から航空機の技術者として海外によく行っていてアメリカもドイツもわかっていて昭和16年12月戦争を始めた日の朝、親父が何気なく「とんでもないことを始めた」と言った。父親は航空機を作っているわけですからゼロ戦がハワイで活躍している時に親父が「一機一機単機として比べると世界一の飛行機であるが、しかし飛行機はパイロットがいなければ飛ばない」と言った。当時はすぐれたパイロットがいるかいないかで大きく変わった。軍はパイロットを守る装置をつけて納入すると装置が重いと旋回性をよくするために取り外した。しかしアメリカはシステムの国であり徹底的に分析し、弱点を知るとをそれが戦略になる。ゼロ戦はすばらしい飛行機だが後ろに弱点があり、パイロットが無防備だとするとそこを攻撃する。父親にとって大切なのはソフトウエアであり、ハードの方はお金さえあればできるがしかしパイロットは素質が必要、他に訓練の時間を考えると飛行機が落ちてもパイロットは守らなければいけないと考えていた。これは正論であった。ところが軍は判断力がなかった。命をなくしても敵艦にぶつかっていくべきだと、サダムフセインの先輩は日本の軍人である。神風というのがあって何機命中したか知らないがああいう戦略を誰がたてたか知りませんがあれは戦犯ですよ。神風特効隊というのはいきなり誰かが志願してやったとは思えない。 軍という権力が戦略として打ち出した。戦略というには値しないのですが今もって誰がそれを提案したのか、どういうしくみで認めたかわかりません。やたらに国のために特攻隊が死んでいったという美談ばかりですが、僕は死んでいった人は素晴らしい。死なしたやつは誰だということを生き残った人が徹底的に追求すべきだがしない。「だって戦争は終わっちゃたんだもん」と言う。権力に対してあきらめが早い国民と権力の為なら国民なんか犠牲になって当然だという組み合わせ。国家戦略として我々は何を提案するべきだろうか? 戦前のような体質を持った権力が生れてきても国民は幸せではない。幸せになるのは一部の政治家と一部の役人だけである。私はそんな国であれば今76才になろうとしていますがもっとのびのびとしたニュージランドのような国で余生を暮らしたい。私は学生にその話をしたいために教師をしています。 学生に「おまえ、好きでこの日本に生れてきたか」と聞くと「自分はもの心ついたらこの国に居た」と言う。人間には選択の自由がある「納得してこの国に住んでいるのかそれともこの国に生れてきたのでこの国に住んでいるのか」と。世界にはいろんな国があっていろんな国にはいろんな特色がある。天国のような国はないけれども少なくとも自分の持つ願望の許容範囲にある国、今の日本は許容範囲にあるし様々なメリットもある。でも日本も変化しある許容範囲からはずれたら自分はどうするかという戦略をちゃん建てて生きている。 この国がおかしいとなれば自分で代える立場にないので見ているしかない。今度の選挙でも入れたいやつがいるところは数えるほどしかない。顔を見ただけで人格が分かるようなやつ−つまり指名手配の犯人のような人が立候補しているわけですから(笑)−誰が当選したとしても将来に希望が持てる政治家がいますか?私は役人を4年間やってみましたが我々が習った三権分立即ち行政と政治、立法と行政は対等なはずですが現実はそうなっていないのです。異常なねじれ現象。Sのような政治家は日本中みちみちているのですよ。権力を使い、力で庶民を押さえている。政治家は本来自分がやるべきことをを行政にやらせている。役人は庶民と同じで政治家におびえて生きています。これが戦後50年の現状ですよ。私は宮城県の公務員をしてつくづく思うのは政治と行政はなれあいであり癒着している。政治家が無知、横暴であるということと、官僚が保身的であって日和見的だということ。確実に行政、政治家は権力を持っていてそれが癒着していれば、庶民には何ができるのだろうか?例え皆さんが経済特区を作って規制緩和が難しいのでのでこの地区で規制をはずそうとしたってできないでしょう?政治家と行政この2つの権力が結託している。 終戦直後昭和20年8月15日はみんな非常に複雑な気持ちだった、あれだけ苦労して何百万人の人間が命を落として負けたくやしさとこれでなんとか死なないですんだという気持ち、軍でさえ横暴なのだから無条件降伏でやってくる占領軍は我々に何をするだろうかという不安、また女性は恐怖感があり、戦後になって何されるかわからないと思って疎開しました。我々から見ると「あなたは大丈夫じゃないですか」という人まで黒髪をざんぎりにしていましたよ(笑)。占領軍という新しい権力にどうやって対処しようかと思っていましたがしかし実際会ったらびっくりしました。やってきた占領軍は明るく、スマートな着こなしでした(日本の軍人は体を洋服に合わせた。大中小で分けただけでだぶだぶだった。アメリカ人は体に合わせて洋服を作ってたのではないか)、フレンドリーでした。 日本人の大部分はまだ昔の権力におびえがあり、小さい声でしゃべっていたが憲兵がいるわけでもないのでだんだん大きいな声でしゃべるようになりました。 お腹が減って食べるものがない、着るものもない、住むところもなかったが非常に明るい雰囲気があった。これをみんなに伝えたい。 後輩の経営者がある会で「第一の敗戦あの苦難を乗り越えた日本人なら第2の敗戦を必ず乗り越える」と話したので「おまえ、第一の敗戦の時何歳だった」と聞くと3歳だという「どうして3歳でわかるのか」と聞くと自分の推察だと言う。これは当時の日本人を知らない、すくなくとも今の国民と敗戦直後の国民を比べるとどちらが危機的かというと今の日本人だと思う。 生き残った八千万弱の日本人はぼろを着ていましたが少なくとも着るものも食べるものも住むところもないという状況を静かに受け入れる心の準備がありました。それは戦争に戦って無条件に負けただけでなく何百万人という人間が死んだのに生き残っただけでも良かった。それから食べるものも着るものも住む処もないというのは戦って無条件に降伏した当然の報いであるけれどもそれをたじっと静かに受け入れた。 あれはおそらく見事な対応の仕方であった。あの頃日本人が国立美術館に押し掛けたとか病院に押し掛けたというのはない。日本人に運が良かったのは非常に厳しい占領政策で“日本の将来の経済は戦時中日本国が侵略した国の水準を超えない程度で良い”という方針が九月の初めに出た。それはカンボジアとかミャンマーといった国々以上になれないということだったのですから戦後50年日本人がどんなに頑張っても今のような豊かな暮らしはできなかったでしょう。それが1年もしないうちに日本経済を早期に復興させなければ共産化されてしまうということになりました。終戦直後、昭和10年頃の“貧しかったがしかし家庭が平和であり秩序があった時代”が未来の目標になりました。八千万人が確実な未来目標を持てたということは戦後の日本の復興に大きな意味を持ちます。 人間を比べることはできません。時代で状況がちがうのですが、“人間らしさ”は数量化できないですね。例えば背の高さ、あるいは金融資産これは客観的に分かります。我々が友達を持とうとする時、あいつは資産をどれだけ持っているかあるいは背が高い、低いかなどそれはあまり関係ない。何かというとその人間が誠実かどうか、勤勉さ、几帳面さなど数量化できないもので決めます。すると、終戦直後は見栄えのしない日本人を誠実という尺度で今の日本人と比べると圧倒的に終戦直後の日本人が誠実であった、またどちらが几帳面だったかというと確実に終戦直後の日本人が几帳面だった。どちらが勤勉だったか、確実に終戦直後の日本人が勤勉であった。 そういう日本人がいたからあのひどい経済状況の中でも犯罪らしい犯罪も起きず食べるものがなくて病人が早く死んだときも何もなくても皆が集まってきてその人を思って皆で泣いた。そういう愛情があった。今日本人は良い服を着て、平和を叫んでいますが一人一人の日本人は誠実な人が多いのですが、でも全体的に見て誠実な社会ではない。本来一番誠実でなければいけない職業の教師、銀行員、公務員など一番信用されるべき人が信用できなくなった。僕の後輩で銀行員がいるが今名刺を出すのが嫌だという。「銀行なの」と言われるそうである。 失ったものはすごく大きいのです。終戦直後あれだけ日本が大きく復興を遂げたのは経済学者が言っているようなことではない。皆が「エコノミストの話を聴くのはよそう」と言っているが、一流の経済学者であれば言っていることが似てくるべきなのにまるで違う、なぜかというと経済学の教科書に書いてあるようなことで経済が決まるのではなく経済は結果であり、戦争、テロ、地震などそれらが多かれ少なかれ経済に影響を与える。経済学者は過去のことだけ話せばまちがいないのに将来を予想なんかしょうとした場合、予測するには政治のことから行政のこと、国際関係などすべてをおりこんで予想しなけばいけないのに経済学だけで予測しょうとする。 あたらなくても責任を取らなくても良いから予測するのであって当らなければ死刑だというと誰も言わなくなりますよ(笑)。そういう意味で経済学者に将来を予測する力なんてあるはずがない。経済の変化は経済学的現象で起こっているのではない。経済学的現象以外のもろもろの森羅万象が結果として経済そのものに反映しているのであると考えますと、一番大きく日本の復興とか政治を支えたのはそこに生きている人間の質だと思います。どの国でも同じ条件であれば短期間に日本のように復興したかというとそんな事はない。90年代の経済がなぜこれほど長い間低迷しているのかというと経済だけが原因ではない。政治もますます混乱してあるいは行政もますます弛緩し、社会もますます退廃している。そういう状態であって経済が原因とは言えない。 政治がだらしないから、あるいは行政がだらしないからろくな政治ができない、社会がこれだけ退廃しているからろくな人間も生れてこない。 経済学者が言っているようなことでいくら政策をたてても実効性を持つはずがない。終戦直後の裏返しだと思う。確か経済的には豊かになりました。しかし一人一人の国民は自分がいるところに満足感を持っているかと言うとそうじゃない。皆が自分の持っている物のがいつ失われるかという不安を持っている。いつ犯罪が起こって自分がまきこまれるか不安を持っている。終戦直後のようにささやかな“昭和10年代の生活さえ実現できれば死んでもよい”と思ったような力強い目標がない。この国の若者が誰ひとり幸福感を持っていない。 例外としては経済学者、政治学者などを除いて作家では村上龍がいる.村上龍氏の『希望の国のエクソダス』は文藝春秋に連載され、20世紀末を象徴するような小説だった。パキスタンのアフガニスタンよりの国境で地雷が爆発して被害者がでたが、被害者の一人に日本の少年がいた。年齢は十四歳中学生ですよ、なぜ少年がそんな所にいたのか?少年は不登校中学生であったが現地の義勇兵となってそれをたまたまCNNが取材、インタビューするところから始まる。「(日本は?)そんなことに答える義務がない。元いた国であり、日本人としたアイデンティーがない。なんでもあるが希望だけがない」と答える。これがキーワードになっている。日本の政治家には時代センスがまったくない。村上龍は作家だから非常に敏感です。権力をもった人間に庶民の心など分かるはずがない。小泉純一郎は身をやつして一晩か二晩かホームレスと暮らしてみると良い、良い暮らしをしながら日本の政策をたてる人は皆現実がわかっていない。私の後輩で労働経済学をしているやつが失業率が5.5%などと言っているが「おまえ何人失業者にあった」と聞くと完全失業者の5.5%は相当な数がいるのに「一人も会っていない」と言う。僕は失業者20人ぐらいは知っているが食うに困っている人は誰もいない。僕の知り合いで会社の経営者の娘さんなど意図的に失業して手当てをもらいながら一定期間内海外旅行をする。5.5%とはいったい何なのか?それを我々に知らせるのが経済学者の役目だと思う。 それを失業率が5.5%を超えたと言ってさわいでいるのは馬鹿な話であって、失業とは何かというのは統計ではわからない。そう考えてみると日本ではマスコミなんかでオピニオンリーダーになっているのは皆余裕のある人ですよ。それだけ現実とかけ離れた生活をしていて一見国を憂うようなことを言っている人が多い。私はそういうことに非常に空しさを感じます。僕は自分にやれる事だけ関心を持とうとけなげにも思っている。自分の家族、友達、自分が作ろうとする大学、関わっているシンクタンクなどは知恵、努力で変わる。 しかし日本は日本を愛している僕にとってどうにもならない程度の低い権力によって支配されている。北朝鮮とかイラクのような非常に剥き出しの権力でないが本質がおなじ無知で横暴な権力がじわっと国民をしばっている現状は否定できない。一人一人の官僚には良い人がいます。僕が言うのは官僚という組織、政治というしくみのことですが、私がそれを代えたいと思って発言したとしても相手にされませんし、選挙に立候補して当選したところで私よりはるかに政治家に向いている人がどうにもならないのにどうするか。 自分にできると思われることに対しては意欲があります。生れ育った国でできればそれが一番便利です。選択して一番良い国に住むべきだと思います。かって日本は外国が招ねいてくれても行かしてくれなかったが幸い今の時点ではそこまで横暴ではない。したがって暮らせるだけの蓄えがあればどこの国だって行ける。多くの国はせいぜい2、3千万円を政府に預けると永住権をくれます。しかも金利は日本よりはるかに高く、生活費が安い。息苦しい、憂鬱な顔をして住んでいるのがこの国の豊かな日本人です。そう考えると最近の良い例がイチロー、松井ですね。おちぶれて行ったわけではない。松井、イチローは日本にいても大スター、高額所得者ですよ。何故彼らがリスクを犯してまで行くか、“檜舞台で自分の腕を試してみたい、失敗してもともと”という考え、これはたくましいじゃないですか、フランスで料理の修行に来ている日本人に出会った。顔を見ると確実に日本人で健康そうな顔をしている。今日本は元気ないが一人一人の日本人がのびのびと外国で能力を発揮している。中村修二氏は青色発光ダイオードを開発したのですが日本でだめでアメリカの会社でやってみたらとたんに世界的ニュースになった。 彼は欲得で行ったのではなく思う存分研究したくて行ったのである。結局カリフォルニア大学の研究員として招かれ、所得は日本の数倍にしかならないですが本当に満足して研究者生活をおくっています。外国にいて職業を通してその国に貢献、それだけでその国に大きなプラスであり、又所得が多いのでその分、税金でも貢献している。日本は日本にいて欲しい人を足蹴にして本来日本にいて欲しくないやつが守られている。犯罪者が守られているが被害者は守られていない、どうにもならない権力によって支配されている。だから僕が国を離れるということは国を愛していないからではなく愛しているが故に自分の生まれ育った国に住めないということです。アメリカに行けば昔の学生が「先生のおっしゃた言葉を今なお覚えています」という。アメリカに住むやつは納得して住め、日本に住むやつも納得して住め。日本も数多ある国のひとつにすぎない。中村修二さんはどうどうたる日本人だが彼は日本の国を捨ててアメリカで生きている。 そういうふうな行き方は歓迎すべきだ。外国に居てたいしたもんだと評価されるのがたいした日本人です。松井というのは尊敬していますよ。「日本は変な国だと思っていたけど松井、イチローはすごいじゃないか」と、落ち目になっている日本を支えているのは外国で活躍する日本人なんだということです。 日本国がだめになると無知で横暴な権力が崩壊するという良さがある。終戦にできるチャンスが3回あった。一回目はシンガポールが陥落したとき、非常に良い条件だった。2回目がミッドウエーで敗戦した時、かなり悪い条件だったが日本国そのものは物理的には破壊されずに済んだ。三回目、むちゃくちゃな状態で無条件降伏しました。一番損な選択をしたように思いますけど私はそうは思わない1、2回目だと軍閥が残ったのではないか軍閥が残ったままであれば懐かしい25年間がなかったのではないか。 私の同年の城山三郎君、彼は非常に寡黙な男で終戦の頃は飛行隊の義勇兵であり本当に国のために命を捨てようと思った男でしたから、戦後になって許しがたい国家権力というのを感じているだろうと思っています。非常に危険である国家権力が牙を向いたら殆ど戦前と同じことができると思う。そういう危機的状況に我々はたっていると思います。 つづく |